「マタイの福音書」連続講解説教

王は退路を絶った

マタイの福音書 21章12~17節
岩本遠億牧師
2021年2月21日

それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。マタイの福音書 21章12~17節

過ぎ越しの祭り

申命記 16章16節
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り(過ぎ越しの祭り)、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。

イエスの両親も、イエスも毎年エルサレムに上り、過ぎ越しの祭りを祝っていた
→イエスはエルサレムと周辺のことをよく知っていた

イスラエルと、地中海世界、メソポタミヤ、アラビアに住むユダヤ人と改宗者がエルサレムに集まり、動物(羊)を捧げ(自分で屠る)、それを家族(や友人)と共に食べて出エジプト(過ぎ越し)の出来事を記念する。

改宗者にとっては、自分がアブラハム・イサク・ヤコブの子孫とされたことを完成する重要な儀式。

当時、改宗してユダヤ人になった人たちのほうが多かったと言われる。(エジプトだけで100万人とも)

この時エルサレムにいるすべての人が過越の食事をしなければならない。

100万人を超える人々が集まっていたとも言われる。すべての人々が食べるだけの羊の売買が行われていた。

また、神殿に捧げる献金(神殿の運営修繕に充てるため。また在外のユダヤ人たちのところに一流の学者を派遣するため)のためにローマのデナリ硬貨をイスラエルのシェケル硬貨に両替する必要

それら自体は律法に定められたことで問題ではない。

イエス自身もこの過越の食事を弟子たちと共にすることを楽しみにしていた。

ルカの福音書 22章15節
イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」

イエス一行も過越の食事をするために羊を買い、それを屠って一緒に食事をしようとしていた。

では、何が問題だったのか?

イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」

宮の中でそのような商売が行われていたことに対し、イエスは怒った。

商売が行われていたのは、「異邦人の庭」

天地を造られた神は、異邦人も礼拝者として招いておられる。

今のエルサレムのイスラム教の黄金のドーム、ここにかつて神殿が建っていた
キリスト時代の神殿(ヘロデの神殿)
キリスト時代の神殿

イエスは主の家、祈りの家であるエルサレム神殿を愛しておられた。

“さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。”ルカの福音書 2章41~50節

その祈りの家が、祈りの家でなくなっている。
商売によって祈りを捧げることができなくなっている。
礼拝から排除されている人たちがいる。
         ↓
真の過ぎ越しを覚え、これを大切にすることができなくなっている。
真の過越をもたらさなければならない。

→宮清め
→イエス処刑の直接的な原因
  当時の神殿礼拝主義を根底から覆す。
  宗教的特権階級(祭司階級)の社会的基盤を脅かす。

宮清めの本質
=礼拝から排除されていた人々の礼拝への回復

「また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。」

ダビデの時代から、目の見えない人、足の不自由な人たちが礼拝から排除されていた。

エリコで目を開かれた人たちがここで用いられている。

ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

大人は怖くて声を上げることができなくなっていた。
激しい対立。緊迫した状況。

「子どものように神の国を受け入れるものでなければ、そこに入ることはできない。」

イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。
ベタニア=最も貧しい村 
       ハンセン病患者たちの隔離村

イエスは、十字架にかけられるまでの数日間、ここを自分の休みの場とした。世に捨てられた人たちと一緒にいることがイエスの願いであった。

律法と神殿、過ぎ越しの祭りを愛したイエス。

しかし、十字架によって真の礼拝を確立しなければ、低められ、卑しめられた一人一人の尊厳を回復することはできない。

真のイスラエルの王とは何か?
誰が真の王なのか?

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