「マタイの福音書」連続講解説教

痛みが一つになる時

マタイの福音書第10章1節〜15節
岩本遠億牧師
2020年4月26日

“イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。”マタイの福音書 10章1~15節

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イエス・キリストがこの世に来られた目的、その宣教の目的はなんでありましたでしょうか。福音書を見ますと、イエス・キリストは、30数歳で宣教を開始してからわずか1年とも3年とも言われる期間働きをなさって、十字架にお掛になりました。その宣教の目的は何であったかと言うと、それは、「神の国」をこの地にもたらすことでありました。


イエス・キリストご自身が明言しておられます。「時は満ちた。天の御国、神の国は近づいた。立ち帰って福音を信じよ」と。キリストは、何度も「天の御国」「神の国」についてお教えになりましたが、「天の御国」「天国」と言うのは、人が死んでから行く「天国」のことではありません。誤解されていることが多いですが、聖書の中には人が死んだ後に行く「天国」についての言及はほとんどありません。死んだ後、天国に行くためにキリストを信じると言うのも、聖書本来の教えではありません。


イエス・キリストは、聖霊を受け、この地に神の国を作る働きのために立ち上がり、十字架の死に向かって邁進していかれたのです。その戦いは、悪魔とその手下である悪霊どもとの戦いでありました。汚れた霊どもが人を支配して引き起こすあらゆる病と患いを癒し、この地=人の世が悪魔とその手下である悪霊のものではなく、神のものであることを実力をもって明らかにしていくのがイエス・キリストの働きであり、戦いであったのです。


その目標は、十字架の血によって、悪魔を打ち倒し、この地を、人の世、全ての人を神の手に奪還すると言うものでありました。イエス・キリストの戦いは、その宣教活動においても、十字架においても、悪魔の手から、失われた者たちを取り戻すと言うその一点に集中していたのです。


イエス・キリストの働きは、抽象的な精神論ではありませんでした。具体的に、現実的に悪魔、悪霊の手から苦しめる者たちを奪還し、救うことによってそれは行われました。聖書は言います。「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。病、あらゆる患いをお癒しになった。」マタイ9:35


キリストご自身も言っています。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。”ルカの福音書 7章22節


そして、この働きを世界中に満たすために、キリストは弟子を選び、彼らを使徒として任命し、お遣わしになりました。その人たちの名前が挙げられていますが、これを見てどのように思われるでしょうか。


まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。


熱血漢で直情径行型のペテロが第一に挙げられていますが、これらの人の中には、もともと同じ場にいることができないほど対立関係にあった人たちもいたのです。取税人マタイは、ローマのお先棒を担ぎ、それによって不正の富を蓄えていた人です。熱心党のシモンは、右翼の過激派と言っても良い人です。イスラエル国家再興のためには、ローマに対する武力蜂起も辞さない人でありました。マタイのような人を絶対に許さないのが熱心党員シモンでした。このような人たちがイエスの弟子として選ばれ、また使徒として遣わされる。このことは、イエス・キリストの働きの目的が政治的なものではなく、悪霊との戦いであったことを明らかにしています。悪霊との戦いには政治は関係ないからです。


また、イエスを裏切ったイスカリオテのユダも熱心党員でなかったかと言われます。ユダがこの中に入っていることをあなたはどのように思うでしょうか。キリストは、このユダにも汚れた霊どもを制する権威をお与えになったと言います。ユダもイスラエルの失われた羊(苦しみの中にある人々)のところに遣わされ、「天の御国は近づいた」と宣べ伝え、病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された人を清め、悪霊どもを追い出したのです。彼は、イエスを銀貨30枚で売りましたが、この時は、無銭徒歩伝道に出かけ、神の国の働きの中に生きたのです。


ユダが宣べ伝えた神の国は偽物だったのでしょうか。ユダもこの時は、間違いなく神の国の働きに参与したのです。


鍵となるのは、与えられる人間の品性ではなく、権威を与える方が誰であるかということです。権威を与えた方がイエス・キリストであったことが、「神の国」をこの地にもたらすのに決定的に重要なのであって、私たちの人格によってキリストがお与えになった権威が変更されることはないと言うことです。


何故か?それは、キリストが権威をお与えになった者は、キリストがそこにおられるのと同じ働きをするからです。ここに私たちの希望があります。ただ、それは、一度与えられたら一生、有効というものではなく、一つ一つの働きに限定された権威をキリストはお与えになるのです。


聖書を読むと、この後、キリストがペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒に高い山に登られ、帰ってきたときには、他の弟子たちは汚れた霊を追い出すことができなかったという記事が記録されています。つまり、この時、与えられた権威は、無銭徒歩伝道のための権威だったのです。また、弟子たちのこの伝道旅行は短期間だったと思われます。


キリストが、この権威をお与えになったのは何のためだったでしょうか。誰のためだったでしょうか。キリストは言っておられます。「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行け」と。飼う者がいない羊のように弱り果て、倒れている神の子どもたちのところに行けとおっしゃったのです。弟子たちのためではありません。彼らのためです。


羊は、弱くて自分を自分で守ることができない動物です。目が悪く、遠くの物が見えません。目の前の草だけしか見えないので、すぐに羊飼いを見失ってしまうのです。自分勝手な方向に行き、迷子になってしまうのが羊です。そして、猛獣の餌食となってしまうのです。聖書は、イスラエルの民を羊と呼んでいます。また、キリストはご自分の民を羊と呼んでおられます。


「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」とおっしゃっていますが、それは、弟子たちにはまだ外国の人々のところに福音を伝える準備ができていなかったからでしょう。


しかし、この権威を与えられて出て行くときに、一つの条件がつけられていました。「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。」


これは、与えられた権威だけを頼りにして伝道することと理解されますが、それが何を意味していたかは、「履き物なしに」という言葉から推察することができます。


聖書の中で、「履き物を履く」「履き物を脱ぐ」「裸足で」という行為は特別な意味がありました。履物を脱ぐとは、名誉の剥奪を意味し、履き物を履かせるとは、名誉の回復を意味しました。放蕩息子が帰ってきた時、父は息子に履き物を履かせました。彼は裸足で帰ってきたのです。履き物を買う金もなかったとも言えますが、むしろ、裸足となることによって、自分が無価値であることを表していたのです。


名誉を剥奪することを社会に知らせるために履物を脱がせるという規定が申命記の中にあります。卑しめられた時も裸足で歩きました。ダビデが息子のアブシャロムに命を狙われ、王宮から命からがら逃げ出した時、ダビデは裸足になって逃げました。同じように、捕虜も履き物を脱がされました。裸足であることは、卑しめられた、深い悲しみの中にあることを表していたのです。


また、モーセがシナイ山で神に出会った時も、「あなたの足から履き物を脱げ」と命じられました。履き物を脱ぐは、神の前では、自分が無に等しいということを告白する行為だということです。


このように、低められた、卑しめられた状態にあること、深い悲しみの状態であることを表すために、履き物を脱いで裸足になったり、履き物を脱がせて、裸足にさせたのです。


イエスは、弟子たちに「裸足で伝道に行け」とお命じになりました。金も持たず、替えの下着も持たず、杖も持たずに、裸足で行けと。徹底的に低められた、卑しめられた状態で伝道に行く。それがイエスの権威が与えられることと引き換えに行われたと言うのです。


何故か?彼らがイスラエルの家の失われた羊たちのところに遣わされるからです。苦しみの中で倒れた人々の中に行くからです。その悲しみと苦しみを自分の悲しみ、苦しみとせよ。裸足になって、その苦しみ、悲しみを共に経験せよと。しかし、そこに天からの圧倒的なめぐみが臨む。キリストの権威があなたと共に行くと。


キリストが弟子たちをお遣わしになる前、「働き人」を送ってくださいと祈るようにお命じになったのは、祈ることによって、弟子たちの中に苦しみと悲しみの中にある失われた羊たちと一つになる心の準備をさせる必要があったからです。


私の父は、若い時に属していたキリスト教グループの先生に命じられて、仲間の人と二人で無銭徒歩伝道に遣わされました。しかし、父にはそのような準備は何もできておらず、全くの失敗だっと言います。国道を歩いていると、トラックが横に止まり、乗せて行ってやるというので、父はさっさとトラックに乗り込みましたが、もう一人の伝道者は頑なに拒んだ。しかし、父が降りようとしないので、仕方がなく、一緒に乗せてもらうことになった。また、歩いていると声をかけてくる人がいて、事情を話すとお金をくれようとした。もう一人の伝道者は辞退しようとしたが、父はラッキーと思い、それを受け取り、うどん屋に入って、うどんを食べた。もう一人の伝道者とは大げんかになったそうです。


「働き人を送ってください」との祈りが満ち、悲しみ苦しむ人たちと一つになる思いが満ちない限り、キリストの権威は与えられない、キリストの権威と共に歩むことはできないのです。


私も、パプア・ニューギニアに伝道に遣わされた時、小さいながら似た経験をさせて頂きました。1度目に行った時は、何も分からないところに行くということもありましたが、自分を守るという保身の思いが強く、自分で彼らとの間に壁を作って、全く彼らを愛することができず、また、全く伝道もできませんでした。私がマラリアに罹患することを恐れ、彼らが必要とする薬を分けてあげることができなかったからです。一つになることを拒んでいて、どうして神の愛を伝えることができるでしょうか。そこにキリストの権威が現されるでしょうか。


二度と来たくないと思ってオーストラリアに帰りましたが、主イエスは、私の頑なな心を解きほぐすように導き、再びパプア・ニューギニアのジャングルの中に私を送り返されたのです。ニューギニアに戻る前、私は、数ヶ月間に渡って祈り続けました。私が持っているもので彼らが必要とするものを全て彼らと共有することができますように。あなたが生ける神であることを、実力をもって示し、現してください。現地に入った時、私はマラリアの薬を彼らと完全に共有することを決めていました。自分の分を取り分けないことに決めていたのです。一つであることを願ったのです。しかし、これは私の思いから出たことではなく、聖霊がそのように導かれたのです。


すると、そこに不思議な世界が開けました。キリストの権威によって、多くの人たちが病から癒されていったのです。当時5歳ぐらいだったTimmy Mengumariもマラリアで苦しんでいました。幼い子供はマラリアの薬は飲めません。私はTimmyの上に手を置いて、主イエスの名を呼んで祈りました。すると彼は癒され、二度とマラリア熱で苦しまなくなったと言います。Timmyとは今、Facebookで繋がっているのですが、彼が1年ほど前このように書いてきました。「あなたが私の上に手を置いて祈り、アーメンと言った時、物凄い神の力が自分に入って来たのを感じて、私は癒された」と。私自身は、その時、何が起こっているのか分かりませんでした。


こんなこともありました。ある人の夫が夢を見ました。悪霊がやって来て家を潰すという夢でした。その夢を見た夫が全身に痛みが出て一週間で死に、その娘も次の週に同じように死に、今自分も同じ症状が出て、間も無く死ぬと言う女性が礼拝に来ました。恐怖におののいたその人に、キリストの名を呼ぶように言い、彼女がキリストの名を呼んで祈り出した時、私は悪霊の放逐を命じました。彼女は、癒され、喜びにあふれて、私にまとわりつき、礼拝からなかなか帰ろうとしませんでした。そして、次の日にはサゴ椰子からデンプンを取る重労働に出かけたというのです。


ギックリ腰で動けなかった人に手を置くと、すぐに癒されたり、私には何が何だか分からない。ただ、キリストが働いている、キリストがここにいるということだけは分かりました。キリストの権威がそこにあったのです。


これは、先ほども言いましたように、この働きに与えられた権威でした。三度目(その10年後)に現地に行った時には、同じようなことは起きませんでした。私が二回目にここに遣わされた時に、出会った青年(鍵のかかった教会の倉庫に侵入して盗みを働くような悪い奴でしたが、その青年)が、バイブルスタディに参加し、キリストが生きていることを目の当たりにして、心を入れ替え、献身して、牧師となり、今、その地で福音を語っています。


自分自身が低められ、卑しめられ、共に悲しまなければ、一つになれない働きがある。しかし、その時、圧倒的なキリストの権威が天から降り注ぐ。


キリストは言われました。「悲しんでいる人は幸いである。彼らは慰められる。柔和な人(=低められた人)は幸いである。彼らは地を受け継ぐ」。


今、新型コロナウイルス のために多くの人が低められ、卑しめられ、悲しみの中にあります。私たちは、彼らのそばに行くことは許されませんが、まず、苦しんでいる方々の悲しみを自分の悲しみとし、腹わたが千切れる様な痛みを感じるものとなることができますように。彼らと共に泣き、祈ることができますように。「主よ、働き人を送ってください。」と。


私たちが苦しむ人たちと一つになる祈りが天に届く時、「天で行われる御心がこの地でも行われるようになっていく。」キリストの権威を与えられる人が起こされていくのです。

祈りましょう。

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