「マタイの福音書」連続講解説教

真の信仰が現れる時

マタイの福音書第17章14節〜20節
岩本遠億牧師
2020年11月15日

彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」マタイの福音書 17章14~20節

状況:変貌の山の出来事の後=イエスがエルサレムでの十字架を神の御心、決定事項として受け止め、それに向かおうとしておられる時。

山の下には、悪霊による病気の息子と、その癒しを求める父親、そしてその子供を癒せない弟子たち。

イエスの嘆き: 「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。」

我慢=下から支える→いつまでも一緒にいることができない、支え続けることはできない。わたしは十字架に向かっているのだ。

不信仰な曲がった時代
不信仰= a(否定)-pistia(信仰の)
    信仰がない、信仰に反する

弟子たちには

信仰が薄い=origo(小さい)-pistia(信仰の)
      信仰が小さい
→イエスは弟子たちに信仰がないと言ったことはない

辛子種(埃のように小さな種)一粒の信仰
→この山に動けと命じる。その山は動く。できないことはない。(すべて未来時制)
→辛子種の信仰は必ず大きくなる。
→弟子たち、従う者たちには、未来における信仰の働きを見ておられる。

信仰とは何かが問題

弟子たちは、無銭徒歩伝道に遣わされた時、汚れた霊を制し、病気を癒す権威を与えられていた。

なぜこの時癒せなかったのか?

過去に与えられた権威と経験を用いようとした。
→父なる神様を求めず、過去を求めていた。

彼らは何を求めたのか?
彼らはこの子供を愛したのか?この子の救いを求めたのか?それとも悪霊を追い出すことを求めたのか?
→自分が認められることを求めなかったか?

イエスの秘訣=父なる神様の御思いだけを求める
        =父なる神様への深い信頼
                 ↑
          父なる神様の真実を知る
                 ↓
          父なる神様の名代としての働き
          (=自分の思いを挟み込まない)
                 ↓
          父なる神様の全能の力の行使

ヨハネの福音書 14章12~14節
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

キリストの名代としての祈り=真の権威

信じる←キリストの真実に触れる

ヘブライ語
 信仰 エムナー:‘eMuNa
 まことにそうだ アーメン: ‘aMeN 
 信頼を引き起こす実体 ネエマヌート
           ne ‘eMaNut
 中心概念=「‘ M N」 確かさ

信仰=
神のまこと(ネエマヌート)に触れられた時に、人の中に立ち上がる信(アーメン!と言うこと)

・信仰の実体は神のまことにある
・人の信仰は、それに触れられた時の非意志的変化
×教理を意識的に信じ込もうとすること。
×自分の頑張りで持続、完成するもの。

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。ヘブル11:1

信仰は、望まれていることの実体(hupostasis)であり、目に見えないものの証明(elegchos確信、証明)である。

マルコの福音書9:20-27
そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。

「まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

マタイの福音書 13章31~32節
イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

ペテロもその他の弟子たちも、キリストの名代として真の祈りを祈るようになった。
→キリストの権威を行使することができるようになった。

使徒の働き 5章12~16節

さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。
ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。
そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。
また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。

ヨハネの手紙 第一 3章2節
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

1.こよなき主イエスの愛!仇をも愛し給う
  主を十字架の死に 追いやりし我に
  罪清むるくすしき血潮 限りなく注ぎ給う
  主イエスにあらわる 驚くべき愛よ

2.御父の許をはなれ 溢るる愛に生きぬ
  僕となり十字架に 身を捧ぐるまで 
  計り知れぬそのみ恵み 価なく満たし給う
  死にたる我をも、主は見出し給えり

3.ああ、主イエスの眼差しよ
              罪のこの身 照らし給う
  暗闇に光満つ 我が霊(たま)、目覚めぬ
  罪の鎖、砕かれたり この喜び、このいのち!
  主と共に甦り、主と共に永久に生く

4.審きの日も恐れじ イエスのすべて我にあり
  主イエスの義をまとい いざ王座に着かん
  永久の冠り戴かせ給う 主イエスの功限りなし
  讃えよ、主イエスを、永久の主、永久の王を!

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