「マタイの福音書」連続講解説教

真の教師に出会おう

マタイの福音書23章1節から12節
岩本遠億牧師
2008年8月3日

23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、 23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。 23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。 23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。 23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、 23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。 23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。 23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。 23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。 23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。 23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

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今日、この聖書の箇所を聞き、ここからメッセージをしようとしている私は、ある意味、非常に居心地の悪さというのを感じています。何故かと言うと、私が「先生」と呼ばれているからです。大学でも先生と呼ばれ、教会でも先生と呼ばれる。普段会う人で、家族以外、私のことを先生と呼ばない人はほとんどいません。同じ団地に住む人からも先生と呼ばれることがあり、びっくりしたりします。イエス様が「先生と呼ばれてはいけません」と仰っている言葉と自分の現状が合っていないと感じるからです。

同僚教員の間では、できるだけ互いを「先生」とは呼ばず、「さん」で呼び合うようにしていますが、学生からは、やはり先生と呼ばれます。日本社会の慣習で、どうしようもない部分はありますね。オーストラリアの大学で勉強していた時は、世界的に有名な先生でも学生は先生を名前で呼んでいました。Bob, Anna, Bill, Averyのように。また、キャンベラで行っていた教会でも牧師を名前でBrianと言っていました。そういう社会では、「先生と呼ばれてはいけない」というイエス様の言葉は守りやすいですが、日本では守りにくい。もし、私たちがこの箇所をそのように理解してしまうなら、私たちは、イエス様の言葉を聞きそこなってしまうように思うのです。

数年前に、あるキリスト教会がカルト化したことが問題となり、それが特にキリスト教系の大学で伝道活動を大々的に行って社会問題となったことがあります。私自身も、その教会からの脱会者たちを支援していましたが、そこでの問題の根本は「高慢」ということでありました。指導者たちの高慢が問題の根にあり、そして、そこからマインドコントロールなど、カルト教団に共通して見られる問題が引き起こされていたのです。しかし、その教会の牧師たちは、「先生」と呼ばれず、「さん」と呼ばれていたのです。確かに、彼らはイエス様の言葉を守って「先生」とは呼んでいませんでした。しかし、そこには単に「先生」と呼ばなければ良いというような表面的な対応では解決しない根本的な「高慢」という問題があったのです。

このキリストの平和教会でも、「今日から『先生』と呼んだら一回罰金100円取ります」ということにすれば良いという問題ではない。皆さんもそのことは良く分かると思います。

今日のイエス様のお言葉も、この「高慢」に対する戒めであり、「謙遜の教え」です。イエス様は何を教えようとしておられるのか。そのご真意に耳を傾けたいと思います。

なお、このキリストの平和教会では、私のことを、どのようにお呼びになろうと、皆さんのご自由です。

21章、22章では、エルサレムに入られたイエス様と律法学者たち、パリサイ主義者たちサドカイ主義者たちとイエス様との論争が記されていました。彼らは、イエス様に一言も答えることができなくなり、その論争はピリオドとなりました。そこで、イエス様は、弟子たちと群集をお集めになって、彼らの高慢に倣ってはならないとお戒めになるのです。

先ず、彼らの言うことは、行い、守れ、と仰る。なぜなら、彼らはモーセの座を占めているからだ。彼らが、神様がモーセを通して与えてくださった律法を教えているからです。たとい彼らが高慢な者であり、その行動に問題があったとしても、その教えているモーセの律法を否定するものであってはならない。それを語る人の人格とは別に、モーセの教えに耳を傾け、それを行う謙虚さが必要なのです。

一方、その行いをまねてはならないと仰る。彼らは、言うことは言うが、それを実行しないからだと。先ず、厳しい律法という重荷を負わせる。「あれをしてはならない。これをしてはならない。これをせよ。あれをせよ」と。そして、そのことで人々が苦しむことになる。重荷を負わされて疲れ果てている人々を見て、その重荷を一緒に背負おうとはしないというのです。

また、人に見せるために、経札の幅を広くする、衣の房を長くする。申命記6:4から9に次のような言葉があります。

6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

律法の言葉を手に結びつけ、またそれを書いた札を箱に入れて額の上に結び付けていました。いつも神様の言葉を覚えているためです。また、衣にも青い房をつけて、自分が神様のものであることを忘れないようにしていました。イエス様も、衣に房を付けておられたと聖書に書いてあります。しかし、パリサイ人たちは、人に良く見えるようにそれを大きくしていたのです。人よりも大きな経札を額につける。房の長さを長くする。全部人に見せるためです。人に評価されたいからです。素晴らしいですねと言われたいからです。神様との関係だけを大切にしているのなら、そのようなものはできるだけ小さくする筈です。人に見られたくない。神様だけが知って下さっている。それで十分です。しかし、そのような思いがないと、人に素晴らしいですねと言われたくなる。しかし、人に素晴らしいですねと言われたら、それで終わりです。神様の報いを受けることができなくなるからだとイエス様は、山上の説教の中で仰っています。

人に見せるため、聞かせるために長い祈りをする。人に見せるために献金をする。人に見せるために断食をして、苦しそうな顔をする。このようなことは、天の父からの報いを受けることができない。なぜなら、もう人からの報いを100%受けているからだ。隠れたところにおられる天の父は、あなたがたの隠れた行いに報いてくださると。

こんなことは、客観的に見たら滑稽なことです。しかし、当人たちには分からなくなっているのです。また、宴会や会堂の上席に座るのが好きで、広場で挨拶されたり、人から「ラビ」と呼ばれるのが好きです。ラビというのは、先生と訳されていますが、「偉大な」という意味で、尊敬を表す言葉です。日本語の「先生」という言葉よりもずっと重たい言葉です。

誰も、偉大な方、偉大な先生と呼ばれてはならない。また、誰をも父と呼んではならない。これは、子供が父親に「お父さん」と言ってはならないという意味ではありません。やはり、グループの偉大な指導者のことを「父」と呼んでいたのです。また、「師」と呼ばれてはならない。「尊師」という言葉を使う宗教団体がありますが、そのようなことはいけないとイエス様は仰っている。リーダーと信徒との間にこのような関係があってはならない。

最近、国際基督教大学教会の牧師を長年務められた古屋安雄先生がお書きになった『日本のキリスト教』という本を読みました。そこには、プロテスタントとカトリックをあわせても日本の全人口の1%とから増えることのないクリスチャンと教会、伝道のあり方の問題が綴られています。何故、日本ではクリスチャンが増えないのか。何故いつまでたっても1%のままなのか。そのことについて、古屋先生は、明治維新後、キリスト教が主にかつて支配階級であった士族たちに受け入れられていったことと無関係ではないと指摘しています。

ごく僅かな士族たちが福音の担い手となったため、日本では、キリスト教が民衆の宗教になりえなかった。そして、それが教職と平信徒という他の国にはほとんど見ることのできない大きな階級的な差別を教会内に生み出した。そもそも、この「平信徒」という言葉自体が、教会のありかたを歪めている。教職も一人の信徒である。そこには、何の違いもない筈である。しかし、そのような悪しき伝統のため、信徒たちが支配される側に身を置かされることになり、自ら伝道していこうという意欲を持たずに来てしまっていると。

そして、賀川豊彦先生の伝道論を紹介しています。日本のキリスト教は、最初それが士族の宗教となったため、知識階級の宗教となった。そのために、牧師たちが難しい神学議論に現をぬかし、キリストの十字架の贖罪の愛を実践しなくなっている。

賀川先生は次のように述べています。「教理や教条の懐疑を、幾百万回繰り返したところで、愛の実践方法を討議しないところに、どうして人間の血を湧き立たすような生命宗教を発見することができようか。いわゆる今日の宗教大学が、みんな死に学問を教えているのは、教理や教条の高等批評に没頭しているからである。教理や教条は着物であって、生命ではない。それだから、真の宗教は、職業的宗教家を排して、信仰の民衆化を唱導する時に初めて、発見することができるのである。信仰を職業的宗教家のみに委託するとき、いつも宗教の堕落が始まる。」

激しい言葉で書かれているので、注意が必要です。勿論、牧師たちを全員辞めさせろと言っているのではありません。キリスト教の先生、牧師先生、聖書の先生と呼ばれることに喜びを感じるようになるとき、難しい神学的な議論をすることに喜びを感じるようになったとき、また、そこに特権意識を感じるようになったとき、自分は特別だと感じるようになったとき、堕落が始まると言っているのです。

確かに、初めて聖書に触れ、キリストの福音を学び始めた時には、それを教えてくれる人が必要です。また、人に聖書を教えるようになっても、何時までも学び続けなければなりません。しかし、そのような指導者が忘れてはならないことは、今、自分が聖書を教え、またメッセージを語っている方々が、自分に繋がるのではなく、イエス様ご自身に繋がるための手助けをしているに過ぎないと言うことです。

イエス様だけが本当に導くことができるからです。永遠に握って放さないのは、この方だけだからです。お一人お一人がイエス様と直接の関係を持ち、自立した信仰を持つようになられるために、僕の役割を果たさせていただく、そのことを決して忘れてはなりません。

今の皇太子が幼稚園生か、小学校低学年の時、バイオリンのレッスンを受けている映像を見たことがあります。それは、日本のバイオリン界の第一人者であった江藤俊哉先生が皇太子にバイオリンを教えている姿でした。世界的にも名の知られた江藤先生が、皇太子の前で腰を低くしながら、教えている姿に感動しました。

お一人お一人は、私の神、私の王の子どもです。お一人お一人が私の王の王子様、王女さまなのです。私が聖書のメッセージを語るとするなら、私が仕える王の王子であり、王女であるお一人お一人に、腰を低くしてメッセージを語るということなのです。そのようにしてお仕えすることができるなら幸いです。

私たちの先生は、イエス様だけです。私も、メッセージを語る一日前、あるいは数日前に、イエス様に教えていただいたことを語っているに過ぎません。調べずに、勉強せずにメッセージを語ることはできないのです。それは、私自身が教えられる立場にあるものだからです。また、語りながら、教えられることがある。それを語っているのです。「元気の出る聖書の言葉」もそうです。聖書を読んで、少し調べ、また瞑想の中にイエス様に教えていただいたことを、書いて、祈りと共に送っているに過ぎないのです。私たちはみな、共に学んでいるのです。共に同じ方に教えていただいている兄弟なのです。姉妹なのです。

この方が絶対的に偉大なのです。この方の十字架の贖いによって、私たちは救われ、生かされ、祝福されるのです。この方が私たちを癒すのです。生かすのです。永遠に握ってくださるのです。このことを、このイエス様だけが本当に教えることができる。本当に私たちに中に啓示し、明らかにすることができるのです。

私たちの先生は、イエス・キリストだけです。私たちが語るメッセージは、何か自分の中から出てきた思想ではないのです。イエス様から教えていただいたことを、そのまま語る。イエス様の福音を聞いたまま、そのまま語る。それを聞いた人が、また同じように語る。それが引き継がれていきながら、全員がイエス様の福音を語るようになっていく。そして、そこに十字架の贖いの愛の実践が行われることを、イエス様はどんなに願っておられることでしょう。そこにおいてこそ、私たちは、真の教師であるイエス様に出会うことができるのです。

聖書の言葉。「30:20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 30:21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。」イザヤ書30:20-21.

祈りましょう。

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