「ルカの福音書」 連続講解説教

祈りを与え、祈りを聴かれる神

ルカの福音書講解(84)第18章1節~14節
岩本遠億牧師
2013年6月23日

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。 18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、 18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。 18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

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今、私たちに与えられている聖書の言葉は、イエス様が語られた祈りについての2つの教えであります。それぞれ譬え話と教えの急所が語られていますが、これらの2つの教えは2つで一つであると理解すべきものです。なぜならば、最初の教えだけに重点を置くならば、熱心に祈り求めることそのものが信仰であり、どれだけ祈っているかということが信仰を測る物差しになってしまいかねないからです。

イエス様は、この第一の教えの最後に「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とおっしゃっていますが、ここで「信仰」という言葉には定冠詞がついています。つまり「この信仰」というべき特定のタイプの信仰から出る祈りこそが、神様が聞いてくださる祈りとなるというのです。そして、その「この信仰から出る祈り」とは何かを第二の教えの中で教えておられるわけです。

第一の教えの中では、希望を失わずに祈り続けること、いつも祈ることを教えておられます。何を祈るのかというと、神の義が行なわれることを祈る、それがここでのポイントです。この先週の箇所で、イエス様はもう一度来るとおっしゃいました。それは、神の義を明らかにするためです。神の義を行なうためにやって来られる。それを祈るのです。主の祈りの中で「御国が来ますように。御心が天で行なわれるように、地でも行なってください」と祈れと弟子たちにお教えになりましたが、それを実現するためにもう一度やって来られる。言うならば、イエス様の来臨を求めて主の祈りを祈り続けること、希望を失わずに祈り続けることを求めておられるのです。

クリスチャンたちはイエス様を信じるという理由のために激しい迫害を受けなければならない時を経ました。このルカの福音書が編纂された時も、そのような迫害の中にあった。そのような中で希望を失わずに祈り続けよ。わたしは来る、とおっしゃっている。

不当な裁判官というのは、ユダヤを治めていた異邦人の裁判官のことです。神を信じないで、賄賂を取り、正義を曲げた裁判が横行していた。これは譬え話ですが、そのようなことは事実多かった。人々には良く分かる話しだったのです。そして、ここに現れるのは一人のやもめです。やもめは、社会的に最も弱い立場のもので、彼らの権利を守ってくれるものはいなかった。律法の中でやもめの権利を守ることが命じられ、教会の中でもやもめを大切にすることが命じられているのは、社会の中で彼らの存在が脅かされていたからです。ここでも、一人のやもめがその権利を侵害され、存在が脅かされています。そして神の義が行なわれることを求めて、異邦人である神を信じない不正な裁判官に訴え続けている。

不正な裁判官は、このやもめのことなどどうでも良いと思っているし、神の義が行なわれることなど全く関心がありません。しかし、あまりにしつこくやって来る。しかも、それが強烈で、5節の注に書いてありますが、直訳では「目の下を打ちたたく」ほどであった。実際にやって来ては訴えが聞き届けられるまで顔を打ちたたいたのか、あるいは、夜も眠れないほどしきりにやってきて、目の下に隈ができたのか、それは分かりませんが、何れにせよ、放っておくと自分が苦しいと思うほどの強烈さであった。だから、このやもめの権利を守るために、正しい裁判を行ってやろうというのです。

そして言われます。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」

神様は不正な裁判官ではありません。ご自分の選ばれた民を愛しておられるし、神の義がこの世に行なわれることを誰よりも願っておられるのが神様なのです。

あなたは今苦しみの中にあるかもしれない。しかし、神様はあなたを見捨てたのではない。あなたを握っておられる。だから、希望を失わずに祈り続けよ。信頼し、祈り続ける中で、あなたの人格が練られ、優れた品性が形作られて行く。あなた自身がイエス様の姿を映すものに造り変えられて行くのです。パウロは告白しました。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。」(ローマ人への手紙5:3-4)

希望を失わすに待ち続け祈る者たちの中に神の国が形作られて行く、それをイエス様は待っておられる。そして天の時が満ちるとき、地の時が満ちる時が一致するとき、イエス様はもう一度やって来られ、この地に神の義を行なってくださる。私たちは希望を告白して祈り続けたいですね。先ずこの中、この人格の中に神の国と神の義が行なわれることを求める、そこから始まるのです。

イエス様は、このように第一の祈りを教えておられるわけですが、これを表面的に捉えると、祈りというものが自己正当化の手段として用いられるようになってしまう。また、祈りが律法となってしまう。そうならないようにイエス様は第二の教えを述べておられます。

18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」

二人の人が祈るために神殿に行った。これは、日本の神社のように、自分の好きな時に、祠に行って、個人的な祈りを捧げて帰るというのではありません。神殿では、朝と夕に動物の捧げ物が捧げられていました。その間、民は立って祈りを捧げていたのです。二人の人がいただけではなく、大勢の人がいました。

そして、このパリサイ人は大勢の人の中に立ち、周りを見回し、自分とほかの人を比べて、自分を誇り、他の人を見下す。そして心の中で言う。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

パリサイ人は律法に熱心な人です。そして、このパリサイ人は、律法の基準よりもさらに自分は厳しい基準をクリアできていることを神に感謝している。断食は1年に1度命じられていましたが、この人は週に2度も断食している。十分の一の捧げ物も、穀物とぶどう酒の十分の一を捧げることが定められていましたが、この人は、律法で捧げることが求められていないものの十分の一も捧げていました。

私たちはパリサイ人というと、イエス様の敵、極悪非道の人間のことのように思ってしまう傾向がありますが、むしろ真面目な信仰者であったのです。彼の祈りを私たちが普段祈る言葉にしてみると次のようになるでしょう。「神様、わたしは今週一週間正しい歩みをすることができ、清く生きられたことを感謝します。今週も十分の一献金を捧げることができたことを感謝します。」

一見どこが悪いのか分からないのではないでしょうか。クリスチャン、特に日本人のクリスチャンは真面目な人が多いですし、真面目なクリスチャンによって教会が成り立っていると行って過言ではありません。多くの教会では、十分の一、あるいはそれ以上の献金をする人々によって教会の財政が守られ、牧師の生活が支えられています。また、不真面目な、社会的問題行動を起こす人ばかりが集まっていたのでは教会は成り立ちません。

しかし、そのことが自分の誇りとなる。そして、自分の基準に達していない人を見下げるようになることが問題なのです。クリスチャンの集まりでこのような話しを聞いたことがあります。「私は、神様に捧げるものが収入の十分の一では申し訳ない。私は、8分の一捧げることができるようにと祈り、そのようにできるようになりました。祈りは聞かれました。8分の一捧げると、十分の一捧げるよりも多くの祝福を神様から受けるようになりました。」もし、この人がこれを誰にも言わず、神様と自分の間だけのこととしていたら、この人は神様からの報いを受けることができたでしょう。しかし、人の前でこのように言ってしまったために、人からの賞賛を受け、あるいは、そうできない人たちを心の中で見下してしまったことにより、神様からの報いを受けることはできないのです。

また、祈りについても同様です。イエス様が希望を失わずにいつも祈るようにとお教えになった言葉を聞くと、それを律法としようとする人が現れるのです。勿論祈りはクリスチャンの基本です。祈ることなしにクリスチャンであることは不可能です。祈りとは、神様との対話であり、神様との関係を喜ぶことができる唯一の窓です。祈りによって、私たちは神様のいのちを受け、力と希望を回復することができる。

しかし、祈りを信仰深さの基準としようとする人が現れたりする。クリスチャンは1日に1時間は祈らなくてはならない。牧師や伝道者は2時間、3時間祈らなければならないという言葉を聞いたことがあります。勿論、人生の苦しみ、罪の苦しみの中で、心を注ぎ出して祈らずにいられない時があります。神様の前に泣き続けるということもあります。また、瞑想の祈りを続け、それが1時間、2時間と続くということもあります。そして、それが力となる。

しかし、それは人前で公言することではない。これも神様と自分の間だけのことです。イエス様は、自分が祈っているところを人に見られないようにせよとおっしゃいました。見栄のために長い祈りをするなとおっしゃいました。

ルカ20:46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。20:47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

祈りという神様との喜びの時、また、苦しみのため祈らずには生きて行けず祈る祈り、それがいつの間にか人を裁くための道具となる。ここに信仰熱心な人が陥りやすい落とし穴があるのです。

一方、取税人はどうだったでしょうか。取税人はイスラエルの敵である支配者ローマのためにイスラエル人でありながら徴税請負業をしていた人です。ローマ軍の権威を笠に着て、同朋のイスラエル人からむしり取っては、自分は豪奢に暮らしていたのが取税人です。同朋からは売国奴と言われた人々です。

しかし、何故彼は神殿に祈りに行ったのでしょう。礼拝に行ったのでしょうか。礼拝に行っても、このパリサイ人のような人々からは、「何しにきた。お前は関係ないだろう」という視線を浴びせかけられるのは分かっていた筈です。しかし、彼は神殿に礼拝に行かずにはいられなかった。罪の苦しみがあったからです。自分の罪を赦してくださる方を求めていたからです。

徴税請負業が彼の仕事でしたから、彼はそれをすぐに止めることはできなかったと思います。相変わらず売国奴と呼ばれ、罪人と呼ばれる生活を続けるのです。しかし、「神様、私を憐れんでください。罪をお赦し下さい」と祈るその心を神様は見ておられるのです。

18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

イエス様は、希望を失わずに祈り続けることを教えられました。そして、言われました。「人の子が来る時、この地にまことの信仰が見られるだろうか」と。イエス様が求めておられるまことの信仰による祈りとは、この取税人の祈りであるとイエス様はおっしゃっているのです。そして、この祈りこそが、希望に繋がる祈りであると。

私たちが希望を失わずに祈り続けることができるのは何故か。それは、この罪深い者を憐れみ赦してくださる方がいるからです。この方を知るからであります。こんな罪深い者を赦してくださる神様がいる。こんなどうしようもないものを握って放さず、わたしがあなたを選んだ。あなたはわたしの宝だと言ってくださる方がいる。だから私たちは祈れるのです。勇気をもって祈れる。神様、赦してくださいと祈れる。希望を失わずに祈れるのです。

人生の苦しみの中で私たちは祈りを失うことがあります。祈らなければならないと分かっていても祈ることができなくなることがある。そんな時、私たちは、自分は信仰を失った、もう駄目だと思うかもしれません。しかし、イエス様は、祈ることもできなくなった私たちを背負って歩いてくださっている。そして言われるのです。「あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選んで捨てなかった。」

そして、時間をかけてもう一度祈れるようにしてくださる。もう一度希望を与えてくださる。神様、罪深い者をお赦し下さいと祈ることができるようにしてくださるのです。

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」ヨナ書2章7節

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