「ルカの福音書」 連続講解説教

神の国は今ここに

ルカの福音書講解(82)第17章20節~21節
岩本遠億牧師
2013年6月2日

17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

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以前、大学の学生たちに「私は神様に出会って、人生の苦しみから解放された」と言うと、「神様って男でした?女でした?どんな格好でした?」と聞かれたことがあります。「神」という言葉に対して、自分のイメージを対応させようとするのが人間なのだと改めて感じました。同じように、「神の国」という言葉を聞いた時に思い浮かべるイメージも、自分の理想を投影したユートピア(理想郷)のようなものかもしれません。

皆さん、皆さんにとって、神の国とは一体何でありましょうか。神の国とは一体何かと問われたとき、何とお答えになるでしょうか。イエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と言われましたが、イエス様が私たちにお与えになっている祝福は、私たちが、「神の国は私たちの中にある。ここに神の国はある」と告白せざるを得ない、イエス様のご臨在なのであります。

イエス様の時代のユダヤ人たちにとって「神の国」と聞いて彼らが求めていたのは、彼らにとっての理想郷でした。支配者であるローマが駆逐されて、神様がお立てになる王による神権政治が行われる国でありました。

しかし、イエス様は言われました。「神の国は、目に見える形で来るのではない」と。ここで「目に見える形」と訳してある言葉は、英語訳の聖書ならば、オブザーブという言葉で訳してある言葉です。外から見るという意味です。オブザーバーという言葉があるように、あるものを外からは見るが、自分はそれに手を出さない、関わらないということです。イエス様がここで「神の国はオブザーブする形ではやって来ない」とおっしゃっていますが、これは神の国とは、そとから観察するものではない。あなた自身が実体験するものであるとおっしゃっているのであります。

イエス様は、この言葉をパリサイ人の質問への答としてお語りになりました。イエス様に敵対していたパリサイ人に対し、神の国を外から観察する者ではなく、実体験するものであれ、と招いておられるのではないでしょうか。そして、言われました。

「神の国は、実に、あなたがたのただ中にあるのだ」と。今、ここにあるもの、あなたがたのただ中にあるもの、それが神の国だ。イエス様は、この言葉によって何を意味しておられるのでしょうか。「わたしがいるところ、それが神の国なのだ。病に苦しめられている者たちが癒され、悪霊に苦しめられていた者たちが解放され、絶望していた者たちの人生か回復し、貧しい者たちが神の言葉、福音を聞いている。」「わたしがいるところ、それが神の国なのだ。ここに神の国があるのだ。」これがイエス様の存在の主張なのです。ここに神の子がいる。神の国、神の支配はここにあるのだと。

先ほど、主イエスこそ、王の王、主の主という賛美を歌いました。まさに、王の王、主の主であるイエス様がおられるところ、それが神の国なのであります。

ところで、この「あなたがたのただ中」という言葉の解釈については、議論があります。一つは、集団としての人々の中、すなわち、人々の間にあるという解釈、もう一つは、人々一人一人の心の中という解釈です。そして、注解書の多くは、集団としての人々の間という解釈が正しいとしています。何故かというと、イエス様がここでこの言葉をお語りになっているのは、イエス様に反対するパリサイ人に向かってであるので、パリサイ人たちの心の中に神の国があるという解釈は成り立たないというのです。また、ルターは、ここを人々一人一人の心の中と解釈してドイツ語に訳しているが、それは誤訳であったという指摘もあるということでした。

確かに、パリサイ人たちの心の中にという解釈には無理があると思います。しかし、イエス様がおられるところが神の国であると、イエス様自身が主張なさるとき、今、イエス様が聖霊としてやって来ておられるところが神の国であると理解することは許される解釈であるし、私たちはそのように受け取って良いのです。また、そのように受け取るべきなのです。

イエス様は言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイの福音書18:20。

今、私たちはイエス様の御名において集まっています。ここにイエス様がいらっしゃるのです。イエス様の御名によって集まる礼拝、また、祈祷会、また交わりの時、またイエス様の御名によって結び合わされた家庭や集団、ここにイエス様がおられる。ここに神の国があるのです。

そして、それを実体あらしめるものは、私たちの内に住んでおられるイエス様の御霊なのです。私たちの内にイエス様が住んでくださるということがなければ、私たちはイエス様の御名によって集まるということはない。まさに、イエス様は私たち一人一人の中に、そして、集団としての私たちの中におられるのであります。そして、ここに神の国がある。

そして、この神の国においては、神の言葉が語られる。神の言葉がこの集団を、集団に属する一人一人を守り、生かし、成長させる力となる。それが神の国の特徴なのです。神の言葉が語られることなしに、神の国は存在しないと言っても良いでしょう。

先週、ある方から「遠億さんが御言葉の奉仕者として、伝道者として神様から召されたとき、何か聖書の言葉が示されましたか」というご質問を受けました。私は答えました。「地は自ずから実を結ばせる」というマルコの福音書4章の言葉ですと。これは種まきの譬えです。種まきの譬えというと、道ばたに落ちた種、石地に落ちた種、イバラの中に落ちた種、良い地に落ちた種というのが有名ですが、私の心に強く入って来た言葉は、マルコの福音書にだけ残されている、あまり有名でない種まきの譬えです。次のように語られています。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

私は、今から21年前にオーストラリア留学から帰って来て千葉に住み始め、最初は近くにある長老教会に通い始めました。大学でも聖書を読む会を始めたのですが、そこで読んだのがマルコの福音書でした。そして、この4章の「地は人手によらず実をならせる」(新改訳)、「地は自ずから実を結ばせる」(口語訳)という言葉に触れた時、それが心の奥底に入って来ました。

丁度その時、私たちが通っていた長老教会には太平洋放送協会PBAというキリスト教伝道のための放送会社に勤めている方がいらっしゃって、羽鳥明先生がご担当になっている「世の光」というラジオ番組で紹介する「心に残った聖書の言葉」を書いてくれないかという依頼をもらいました。それは、私だけに頂いた依頼ではなく、礼拝後教会に残って奉仕をしていた人たち全員に向かっての依頼でした。

私は、この「地は人手によらず実をならせる」という言葉から短い文章をまとめました。次のようなものです。

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神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、始めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。マルコ4:26‐28

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私は、自分の欠点や失敗に意気消沈したり、人の欠点や失敗を見て憤ったりすることの多い人間です。そんな時、「地は人手によらず実をならせる」という言葉が、私の心を静めてくれます。

「地」とは人のこと、「種」とは神の言葉、聖書の言葉を意味します。神は、人を土の塵でご自分の姿に似せて造られました。土くれにすぎなくても、神の姿に似せて造られていることに人の尊厳があるのです。

しかし、罪によって神の姿は人から剥ぎ取られ、惨めな存在に成り果ててしまった。そんな土塊にすぎない私たちに聖書の言葉を与えて、もう一度、神の姿を結実させようというのが神様のご意思なのです。

私たちは、自分の中に植えられた聖書の言葉に信頼しよう。あの人の心の中に植えられている聖書の言葉に信頼しよう。人の心に植え付けられた聖書の言葉は、必ずその人の心の中で成長し、イエス・キリストの姿をその人格の上に結実させるからです。時間はかかるでしょう。しかし、私も、あなたも、あの人も、イエス様と同じ姿に変えられていくのです。

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私は、この文章をまとめることによって、神様が自分に与えてくださった働きは聖書の言葉という種を蒔くことなのだということを強く意識しました。そして、そこで教えられたことは、神様の言葉自体が人の心の中で自ずから成長するということです。指導者の叱咤激励によらず、指導という名の支配にもよらず、ただ、神の言葉そのものが持っているいのちのメカニズム、いのちのプログラムによってこのことが実現されて行く。

勿論、そのことを頭で理解するのと、ただ信じてそれをそのとおり行なうのとでは、天地ほどの違いがあります。この20年間は失敗と躓きを繰り返しながら、ただ神様の言葉の力と、神様が種を植え付けて下さった土地である自分とお一人一人に信頼するとはどのようなことか、それを学ぶ日々を歩いて来ました。

イエス様が、これが神の国だと言われる時、イエス様の言葉とイエス様の言葉が植え付けられた者たちの中に神の国があるということを意味しておられるのです。イエス様は、「神の国は外から見るような形で来るのではない」とおっしゃいました。神の国とは実体験するものなのだ。神の言葉がこの集団に、そして一人一人に与えられる時、そこに癒しが行なわれ、解放が与えられ、平安と希望が与えられる。いのちと力が与えられるのです。私たちの人格が作り変えられ、イエス様の姿が一人一人の中に現されて行くようになる。愛がなかった者が愛する者に変えられる。高慢だった者が謙遜な者に変えられる。自分の基準、自分の思いで行きていた者たちが、自分から離れ、神様の御思いに生きるようになって行くのです。「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われたイエス様が実現するのです。

神の国はどこにあるのか。神の国は今、ここにある。私たちがこれを喜びと確信を持って告白できるようにやって来られ、神の言葉を語ってくださったのがイエス様だったのです。

お祈りをしましょう。

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