「マタイの福音書」連続講解説教

神の子の自由に生きる

マタイの福音書第17章22節〜27節
岩本遠億牧師
2020年11月22日

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

ペテロの家の跡と言われる遺構

ペテロの家の跡と言われる遺構

Peter’s Fish

状況:あと1ヶ月でエルサレムに上り、十字架にかけられる。主イエスは十字架を見据えておられる。

エルサレムに上らなければ、十字架にかけられない。
エルサレムに上っても、この世の権力者に対峙しなければ十字架にかけられない。

なぜ、エルサレムに上のか?なぜ自分から十字架にかけられるのか?
その答えが、ペテロの魚の奇跡。

彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」

神殿税とは何か? 出エジプト記30章が根拠

30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。

30:11 主はモーセに告げて仰せられた。

30:12 「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。

30:13 登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。30:14 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。

30:15 あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。

30:16 イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」

律法に定められた罪の贖い
年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に大祭司が契約の箱の蓋に雄山羊の血を振りかける
→その年のイスラエル人の罪が覆われる=贖われる

神殿税(←元々はイスラエルへの登録税で、会見の幕屋(=移動式聖所)の用にもちいる)

自分自身の贖い金を支払う
=正式にイスラエルに登録されるために支払う
→罪の赦しを自分のものとして受け取るため
→貧富による差別はない

彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」彼は「納めます」と言った。

→イエスは定期的に納めていた
=イスラエル人としての社会の規範

イエスの真意は別のところに

「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」

ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。」

=王の子供たちは、王国の市民になるための登録料を支払う必要はない。

×神の子であるわたしは
○神の子供たちは

「しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
→人々に対する配慮のため。霊的原則ではない。

ピーターズフィッシュ(ペテロの魚)=テラピア
=イスラエル名アムノン (卵胎生、口の中で稚魚を育てる習性をイエスは知っていた。)
→二人分の神殿税に当たる銀貨をくわえていた

 スタテル銀貨1枚=4デナリ=4日分の日当
 神殿税=1/2シェケル=2日分の日当
 スタテル銀貨1枚=二人分の神殿税

ペテロの労働によらず、天からの恵による
→労働によって得た金を支払う必要はないことを示す

イエスの十字架の目的
=人の手によって捧げられる不完全な捧げものを終わらせる。
=十字架こそが完全な捧げもの。

イエスの十字架の血によって神の国の登録料は完全に支払われた。

ヘブル人への手紙第9章
しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。
→年に一度、イスラエルの民の罪の贖いのための生贄の血が捧げられていた。
この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。
→動物の血による贖いは不完全。
→毎年必要。

しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
→永遠に一度の贖い(=完全、付け加えるべきものはない)

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
→私たちをも完全なものとする

キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。

それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。

もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除く(=罪を十字架に上げる)ために現れてくださいました。

Horatio Spafford 「静けき川の岸辺を」「安けさは川のごとく」
My sin, O the bliss of this glorious thought,
  私の罪は、おお、この栄光ある喜びの教えよ、
My sin, not in part but the whole
  私の罪は、一部分ではなく、その全てが
Is nailed to His cross and I bear it no more:
  主の十字架に釘付けられている。
  私はもう自分の罪を背負ってはいない
Praise the Lord, praise the Lord, O my soul.
  主を讃えよ、主を讃えよ、我が魂よ
It is well with my soul
  私のたましいを脅かすものはない
It is well, it is well with my soul
  私のたましいを脅かすものはない

コロサイ人への手紙 2章13~14節
背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書(=罪)を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

ローマ人への手紙8:14〜17

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

8章33~34節
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

8章38~39節
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

関連記事