「マタイの福音書」連続講解説教

神の来臨を知る喜び

マタイの福音書第11章20節〜30節
岩本遠億牧師
2020年6月14日

それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイの福音書 11章20~30節

まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。マタイの福音書第11章11節

→神の国が到来した=神がやってきた
→全く新しい時代、世界における人の存在価値

イエスによるヨハネの評価
・権力とその暴力に屈しない男
・権力も富も求めない男
・預言者以上の者
・女が生んだ者の中で最大の人物
・旧約の時代を完成した者
・ヨハネこそ、預言者エリヤの再来

ヨハネの偉大さ
=全ての人に罪の赦しが必要であることを明らかにし、人を罪の告白と神への立ち帰りへと導いた。

神の国
=人に罪を犯させ、苦しみに縛り付ける悪魔と悪霊を打ち倒す神の支配
神の国における最も小さいものの偉大さ
=悪魔と悪霊を打ち倒す父なる神を知っていること

神の国における人の存在の価値を決定づけるもの
=父なる神を知っていること
=神の来臨を知っていること
→この世で無価値と評価されているものたち(「幼子」という言葉で表現)に父なる神が知らされている

すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。

父を知る
→父の業を行い、父に似る者となる

「あなた方の天の父が完全であられるよう、あなた方も完全であれ」(マタイ5:48)

「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」(ローマ人への手紙 8章29節)

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント人への手紙 第二 3章17~18節)

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」(ヨハネの手紙 第一 3章2節)

「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」

神の来臨を認めない罪が最も重い
=聖霊を汚す罪
→滅びの予告
=イエスの深い嘆き

一方、イエスの中に溢れる喜び
=神の来臨を知るものたちを発見した喜び

「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」

嘆きの中の湧き上がる喜び、嘆きと喜びの共存

滅ぶべきこの罪深さ、汚れ、苛立ちを嘆く心
しかし、神の来臨を知ることができた湧き上がる喜び

両者が共存する神秘

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(コリント人への手紙 第二 4章16~18節)

→神の来臨のもとへの招き

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

キリストと一対一の軛
→キリストと一体となる
→キリストの命が私の命となる
→私の弱さ、嘆き、苛立ちを、罪をキリストが一緒に背負ってくださる。
→つぶやきさえ、聞いてくださっている。
→同じところに向かって一緒に歩いてくださる。
→やがてキリストと同じ姿になるために

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