「マタイの福音書」連続講解説教

神はすべての人を招く

マタイの福音書 22章1~14節
岩本遠億牧師
2021年3月14日

イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」マタイの福音書 22章1~14節

キリスト教=喜びの宗教、婚宴の宗教
      神と人の合一の喜びを結婚に準える

神が人と一つとなるために人としてやって来られた=イエス・キリスト

わたしはまことの葡萄の木。あなたがたは枝である。ヨハネ15章

“また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。”ヨハネの黙示録 19章6~9節

“また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。”ヨハネの黙示録 21章1~2節

“また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。”ヨハネの黙示録 21章9~10節

エルサレム=神の民の比喩
エルサレム( =神の民)が神の子羊イエスの花嫁となる。
子羊の婚宴に招かれている者たち =神の民一人一人

招かれ、選ばれた者たちの集団が花嫁となる(比喩)

マタイ22章の「客」は、単なる客ではない。
神は彼らと一つになることを望んでおられた。

王=神
息子=人と一つになるために人となった神イエス
僕=預言者たち

僕を辱め、殺した者たち
=祭司長、民の長老、パリサイ人たち、 エルサレムの住民

結婚披露宴に来た人たち
=その他のすべての者たち、異邦人たち。良い人も悪い人も。

当時のユダヤの結婚式の招待
1.前もって僕を遣わし、一人一人に招待を伝える。2.準備ができたら、客を呼びに再び僕を遣わす。
いきなりの招待ではなかった。

意図的に、招きを無視し、僕を侮辱し、殺す
=神に対する意図的な侮辱、意図的な敵対

神はすべての人を招いておられる。
神の招きは、良いか悪いか関係ない。

ここを読む人の不安
=私は招かれていると思うが、選ばれているのだろうか?私は婚礼の礼服を着ているのだろうか?選ばれる人は少ないとある。

どのようにして神との婚宴の礼服を調達したら良いのか?

“主よ立ち上がってください。あなたの安息の場所にお入りください。あなたとあなたの御力の箱も。あなたの祭司たちが義をまといあなたにある敬虔な者たちが喜び歌いますように。”詩篇 132篇8~9節

“わたしは豊かにシオンの食物を祝福しその貧しい者をパンで満ち足らせる。その祭司たちに救いをまとわせる。その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う。”詩篇 132篇15~16節

詩篇 30篇1~12節

「あなたは 私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き 喜びをまとわせてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い 
押し黙ることがないために。
私の神 主よ 私はとこしえまでもあなたに感謝します。」詩篇30篇

神が与えてくださる義、救い、喜びが神の御前での礼服である。その礼服は自分で調達するものではない。

礼服を着ないで婚宴に臨む =神に対するあからさまな侮辱、敵対心

選ばれた人=神を侮辱しなかった人、意図的に敵対しなかった人

重要:神様は不寛容ではない。神様はケチではない。
    すべての人を救う計画を持っておられる。

イスラエルの指導者たちによるイエス拒絶
         ↓
イエスによるエルサレム滅亡の予告
         ↓
紀元70年にローマのティトォスによって実現。
神の子の到来を喜び祝わなかったから。
         ↓
しかし、このことによって救いは異邦人に広がった。
やがて、イスラエルも再び、回復され、すべての人が救われ、大きな一つの家族となる。

“それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。”ローマ人への手紙 11章11~36節

“ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。”エペソ人への手紙 2章11~22節

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