「マタイの福音書」連続講解説教

神は人を信じ抜く

マタイの福音書第10章24節〜33節
岩本遠億牧師
2020年5月10日

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。マタイの福音書 10章24~33節

今日、ここで聞いた聖書の言葉を、私たち一人一人はどのように聞いたでしょうか。信教の自由が保証されていない社会においてキリストの弟子として生きている人たちにとって、今日の言葉、そしてこれに続く言葉を聞くと言うことは、自分の生き方を左右するものであります。しかし、信教の自由が保証されている今の日本などの社会において、この言葉は私たちに何を語りかけているのでしょうか。私たちは、これを自分と直接関係のない話として、スルーして行くでしょうか。

ここでキリストが語っておられるのは、恐れと愛についてです。愛は、人間にとってもっとも尊いものです。真の愛に生きることこそが、神の姿に似せて造られた人間の最も尊い姿です。しかし、私たちは真の愛に生きることができなくなっている。聖書はそれを罪と言うのですが、恐れは、私たちを真の愛から引き離壮とする最も大きな力の一つです。悪魔は、恐れによって私たちを愛から引き離そうとするのです。

迫害のない社会においても、恐れは私たちから愛を奪い取ろうとします。例えば、健康上の問題を抱え、健康状態の悪化を恐れている時、それに配慮を示さない人がいたりすると、私たちは恐れにかられ、怒りに満たされ、愛を失ってしまいます。また、経済的な基盤を脅かすものや、社会的な地位を脅かすものについても、私たちは恐れを感じ、愛を失うのです。今コロナのなか、これは他人事ではなく私たちの社会における現実ではないでしょうか。

迫害のある社会においても、迫害のない社会においても、悪魔は恐れという手段を用いて私たちから愛を奪い取ろうとする。このことは心に覚えておいた方が良いと思います。

キリストは、私たちがこのような者であることを百も承知で、このように教えておられる。これは一体どういうことなのでしょうか。

結論を先に言うと、神は人を、キリストはご自分の弟子たちを信じ抜いておられると言うことです。恐れに襲われたら、身動きができなくなってしまう私たちを信じ抜いておられるお方がいると言うことです。

このお方が言っておられます。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」とおっしゃってくださっている。

恐れを超えた愛が私たちに注がれる。聖霊が注がれるときに、そのようになるから、自分の頑張りでできなくても大丈夫だと言うことを、キリストはおっしゃっているのです。ここだけを読んだら分からないかもしれませんが、福音書を最後まで読み、使徒の働きまで読み進めて行くと、このことは明らかになっていきます。

だから、自分を見て不安になる必要はありません。「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。」

キリストが私たちの心のうちに語られた言葉が、やがて花開き、身を結ぶ時がくる。それが外に向かって明らかにされる時が来るのです。

ニューギニアのこと

私たちは、この体をもって生きていて、神様以外のものを恐れるということから完全に自由になることは難しいと思います。イエス様のこの言葉を直接聞いたペテロをはじめとする弟子たちも皆そうでした。誰も、自分の決心で神様以外のものを恐れなくなることはできません。

「10:32 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

イエス様が言われたこの言葉を読んで、十字架を前にしてイエス様のことを知らないと言って否定したペテロのことを思い出した方もおられることと思います。ペテロは、イエス様に出会って、イエス様こそイスラエルの王となってイスラエルを外的ローマから救って下さる方、生ける神の子と信じて従ってきました。自分の家をイエス様の伝道の拠点として提供するほど、イエス様のすぐそばで、イエス様と行動を共にしていたのがペテロでした。

しかし、当時のイスラエルの宗教的指導者階級であった律法学者たちや祭司たちとの対立が深まり、イエス様は彼らに捕まってしまうのではないかという状況にまでなった時、ペテロは言いました。「他のみんなが躓いても、この私は決してあなたのことを知らないなどとは言いません。あなたとご一緒に死ぬ覚悟はできています」と。それに対してイエス様は言われました。「君は、今晩、鶏がなく前に三度、徹底的にわたしを知らないと言うだろう」と。

いよいよイエス様は捉えられ、大祭司の官邸に引かれていきました。ペテロも心配だったんだと思います。その後をついて行きました。しかし、女の子に、「あなたもナザレ人イエスの仲間でしょう」と言われたら、「いや、違う」と否定してしまうのです。彼は恐れに捉えられました。そして、とうとう、3度もイエス様を否定し、最後には、「もし、私があのナザレ人イエスと関係があるのならば、神が私を幾重にも罰して下さるように」と自分に呪いをかけて否定してしまったのです。ペテロは、それほど恐れました。

その時、彼は、イエス様のこの言葉を思い出さなかったでしょうか。

「10:32 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「自分がイエス様を知らないと言った。もうイエス様との関係は切れた。イエス様も私のことを知らないと言うと仰ったのだから。」彼は、絶望しました。全てを失ったのです。神様との関係を失いました。

しかし、十字架にかけられ、殺されたイエス様が復活して、そんなペテロのところに現れました。そして、ペテロに三度、徹底的に告白させて下さるのです。「あなたは、私があなたを愛していることをご存知です」と。今、自分の決心で「あなたを愛している」とは言えない自分がいます。彼は、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と告白しました。「主よ、あなたは、私のあなたに対する思い、愛も、申し訳なさも、また、私の弱さも、情けなさも全てをご存知です」と告白したのです。イエス様は、お答えになりました。「わたしの羊を飼いなさい。わたしの教会の世話をしなさい」と。

そして、イエス様は天に帰っていかれましたが、ペンテコステの日に、天から圧倒的な聖霊を注いで、ペテロを徹底的に造り変えられたのです。ペテロは、聖霊を受けて立ち上がりました。そして、エルサレム中にいた人々に宣言したのです。

「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを神は甦らせられた。このイエスこそただ一人の救い主。人間が救われるべき御名は、天にも地にも、このイエスの御名しか与えられていない」と。そして、どんなに捕らえられても、鞭打たれることがあっても、彼は、イエス様が死を打ち滅ぼしたこと、甦って今も生きていること、この方だけが真の主なる神様であることを語り続け、決して黙ることはなかったのです。

ペテロを変えたものは何だったんでしょうか。私たちは、ペテロを変えたものに生かされたいのです。自分の決意や意志などではどうすることもできない恐れを超えさせる方、いや、恐れを打ち砕く方、聖霊に私たちは、満たされたいのです。

聖霊は、イエス様が仰った言葉が本当に良く分かるように私たちを導いて下さいます。「10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

雀は当時の庶民の食卓に上るおかずだったそうです。1アサリオンとは16分の1デナリ。1デナリは、労働者の1日分の賃金と言われますから、決して価値の高いものとは思われていなかった。しかし、人の目には無価値に見える一羽の雀さえ、天の父は守っておられる。天の父のお許しがなければ地に落ちることはないのだ。また、やがて抜けていく私たちの髪の毛の一本一本さえ、神様は守っておられるのだ。

聖霊が与えられるとき、体も魂も全てのものを滅ぼすことができる方が、この髪の毛の一本も、またあの雀の一羽さえ愛し、守っておられる方なのだということが良く分かってくるのです。私たちがひれ伏し恐るべき方、しかし、この方は、私たちを背負う方なのです。私たちを決して見捨てない方なのです。

皆さん、どう思われますか。ご自分を否定し逃げて行ったペテロを赦し、聖霊を注いで立ち上がらせた方がおられます。本当に恐るべき方を知る時に、与えられる神の子の尊厳があるのです。世の中のものは、いろいろな方法で私たちの尊厳を汚そうとします。いろいろなことを言って私たちを呪い、私たちを脅し、恐れさせようとします。私たちは、恐れることがあるでしょう。しかし、イエス様を自分の神として信じ、この方に頼って生きて行きたいと願う人を一人も見捨てることなく、愛し、赦し、聖霊を注いで下さる方がいるのです。聖霊が、私たちの内側でイエス様を告白して下さる。イエス様は生きていると。この方こそ生ける真の神であると。そして、この方が、私たちを内側から支え、励まして下さるのです。「わたしは、あなたの髪の毛一本一本を守っている。わたしは、あなたを決して見捨てず、見放さない」と。

祈りましょう。

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