「マタイの福音書」連続講解説教

私たちもキリストと共に復活する

マタイの福音書第22章23節〜33節
岩本遠億牧師
2021年4月4日

“その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。”マタイの福音書 22章23~33節

なぜイエスの復活を私たちは祝うのか?
→イエスに連なる者たちは、イエスが復活したように復活するから。

コリント教会が混乱に陥った大きな理由
・ イエスは復活したが、復活はイエスに限られるとの主張が幅を利かせた
→コリント教会の信徒たちの信仰の土台が揺らいだ

キリスト信仰の根本
=イエスに連なる者たちは、イエスが復活したように復活する

復活にどのようなイメージを持っているか?

復活した後、もう一度人生をやり直す?
←輪廻転生思想の影響

復活した時には、仲の良い人々、親族、教会の仲間と至福の時を過ごす
←極楽浄土思想の影響

これらは、今のこの地上の生の継続という観点の上に復活を理解しようとするもの。

キリスト時代のイスラエルでも、このような観点に基づく復活論争が行われていた。

サドカイ派
祭司階級=貴族
律法(モーセ五書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを正典とする。
→復活についての言及はない
→復活はないと主張

パリサイ派
律法と預言者(預言書、歴史書、諸書)(=今の旧約聖書全体)を正典とする。
→復活についての言及
→死後復活するとの主張

サドカイ派とパリサイ派との間の復活論争
申命記25章5~6節を用いた議論
「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

現実にこのことで苦しんでいる人がいるわけではない。
空想上の仮定に基づく議論。

イエスの答え=サドカイ派にはモーセ五書から答える

「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

復活とは、現在の生の延長でも、やり直しでもない。
霊的存在として復活する。
現在の生における記憶は残っても、それに規定されない。自由な存在。

結婚、家族はこの世の生に限定された関係
この世の生は、親子関係、結婚によって縛られる。

しかし、復活した者たちはこの関係から自由である。
なぜなら、復活した者たちは、天の御使たちのような存在。霊的な存在。

イエスのさらに重要な根本的な主張
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
=「わたしは今アブラハムの神、今イサクの神、今ヤコブの神である」
×「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」
→永遠の神が握った者たちは永遠の存在である。
→イエスが十字架の上で「我が神、我が神」(詩篇22篇冒頭)と叫んだ理由もここにある。

コリント人への手紙第一15:35
しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
→キリストは復活したとしても、自分の復活がイメージできないから、復活はキリストに限定されると主張する人々がいた。

“しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。”コリント人への手紙 第一 15章35~49節

復活したイエスに導かれる経験、聖霊によって立ち上がる経験をこの世の生の中で経験していく
→復活の確実さを知る

復活のイエスを知る
→このお方と同じように復活することを知る

私たちに必要なただ一つのこと
天地を造られた神、イエス・キリストを甦らせた神に向かって、「私の神さま!」と呼びかけながら生きること。このお方が、「○○(一人一人の名)の神」と呼ばれることを恥となさらない、喜んでくださっていることを知ること。

ヘブル人への手紙 11章15~16節
「もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした(=喜ばれた)。神が彼らのために都を用意されたのです。」

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
               ルカの福音書 24章5~7節

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」
                ヨハネの福音書 5章25節

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