「マタイの福音書」連続講解説教

終わりの日

マタイによる福音書8章28節から34節
岩本遠億牧師
2007年4月29日

8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

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聖書は実に不思議な書物で、私たちの内面と肉体、生活、さらに人間関係の全てに光を照らす力があるものです。ここ数週間にわたり、私たちは山上の説教を終えられたイエス様のお働きの様子を学んできました。そこに、私たちは圧倒的な救い主の存在を見てきました。私たちの病を負い、私たちを癒す救い主、只一人で救いの業を完成なさる、近づきがたい只一人の神の姿を見ると共に、その方が嵐の中を行く私たちの舟に乗ってくださるということを学んでまいりました。しかし、単に学ぶだけでなく、そこにイエス様の姿が見えるようになっていくと、そこで働いておられたイエス様に今、私たちも出会えるという不思議な書物が聖書なのです。聖書を学ぶことを通して私たちの心の目が開かれ、今も私たちのすぐそばで、同じように働いておられるイエス様が見えるようになっていく、そこに聖書を学ぶことの醍醐味があります。

イエス様が多くの人を癒されたため、大勢の群集が集まり、湖の対岸に避難しなければならないほどになっていました。イエス様は弟子たちの舟に乗って外国人であるゲダラ人の地に着かれました。そこから今日の箇所が始まります。そこに悪霊につかれた二人の人が墓場から出てきイエス様のところにやって来ました。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであったと言います。イエス様はこれらの二人の人から悪霊を追い出されるわけですが、私たちは、この箇所を学ぶにあたり、注意しておかなければならないことがあるように思います。

それは、心の病に苦しんでいる人=悪霊につかれた人というような短絡的な考えをしてはいけないということです。確かに、悪霊は私たちの体を苦しめ、心を苦しめ、生活や人生を苦しめます。悪霊に苦しめられて心の病になることがあるでしょう。悪霊に取り付かれるということもあるでしょう。しかし、心の病=悪霊というような短絡的、無責任な言葉によって、癒されなければならない多くの病んだ方々が、かえって存在を否定され、更に大きな内的重傷を負わされているというキリスト教会の現実があります。聖書は、そのようなことをここで教えようとしているのではないということを、私たちは知る必要があります。

では、何と言っているのか?ここには、次のように書いてあります。「墓場から出てきた」「凶暴でだれもその辺りの道を通ることができなかった」とあります。「墓場」とは死者を葬るところです。死の世界、滅びの世界に住んでいるのが悪霊である。この悪霊が私たちの生活に入り込んで来て、行かなくてはならない道を塞いでいる。まさに死の世界からやってきて、滅びをもって私たちを脅かすものが悪霊であると聖書は言っているのです。

特定の病気の原因になっている場合もあるでしょうが、私たちには断定できません。また、病気という形だけではなく、様々な形で私たちを滅びに引きずり込もうとするのが悪霊であり、この方に勝利なさるのはイエス様只一人であることを私たちは知らなければならないのです。私たち祈りによってのみ、ここから救われていくのです。

イエス様は、このように悪霊が塞いでいる道を進んで行かれました。ここに戦いに向かわれるイエス様の姿を見ます。誰も通ることができなかった道を通れるようにするためです。天国への道を塞いでいるものがいる。それを排除するために立ち向かい、進んでいかれるのがイエス様なのです。

すると、突然悪霊たちは叫びました。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と。福音書の中で、イエス様に向かって、最初に「神の子」と呼びかけたのは悪霊です。霊は、イエス様の本質を知っていたのです。そして、この方が「終わりの日」に自分たちを滅ぼす力があるということも彼らは知っていました。彼らは、言うのです。「まだその時ではないではないか。今、あなたと私たちとの間に何の関係があるのか」と。悪霊と悪魔が滅ぼされる最後の審判の時はまだではないか、今はまだ好きにさせてくれというのです。

皆さんは、この言葉を聞いてどう思いますか?最後の審判の時までまだ時間がある。まだ大丈夫だと思うでしょうか。また、あるいは、最後の審判の時まで悪霊に苦しめられ続けなければならないのかと思うでしょうか?

悪霊が「その時」といった言葉は「カイロス」ですが、これは均質的に流れていく時とは区別される特別な時という意味です。実は、イエス様の到来と共にこのカイロスは始まったと聖書は言っています。イエス様は宣教の始めに、「時は満ちた神の国は近づいた。立ち帰れ!福音を信じなさい」と言われました。この「時は満ちた」の「時」がカイロスです。この他にも、旧約聖書の中に「終わりの日」に起こるべきこととして預言されたことが新約聖書の出来事として幾つも成就していますし、新約聖書の中にも「今は終わりの時だ」と宣言されています。

悪霊が滅ぼされる時は既にやって来たのだ。これが新約聖書の主張です。イエス様の到来と共に、それまでとは質的に違った時がやってきた。今、私たちはその時の中に生かされているのだ。悪霊は私たちを滅ぼすことはできないと言っているのです。

このことは、これに続く箇所を読むことによって確認することができます。悪霊たちはイエス様が自分たちをその人たちから追い出そうとしているのを知り、もし追い出すなら、豚の群れの中にやってくれと願います。そこから遥かかなたに豚の群れを飼っているところがありました。聖書の中で豚は汚れた動物です。ユダヤ人は飼うことも触れることもありません。そういう汚れたものの中へなら入っても良いだろうと言うのです。イエス様は、それを許され、「行け」と命じられ、この人たちは悪霊から解放されて癒されます。

すると、その豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んでしまいました。これはどういうことでしょう?悪霊たちが入ったために、豚が正気を失って群れごと水死したということでしょうか?そうではありません。これは、豚によって象徴されるその汚れと共にイエス様が悪霊を滅ぼしたということを意味しているのです。

聖書学者たちの中には、ここで用いられているギリシャ語の文法の中からその意味を見出すことができると考える人たちがいます。「すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」の「崖を下ってなだれ込んだ」というのは、文法的に単数で書かれています。これは豚の群れを一つの塊として捉えた表現となっていますが。「死んだ」という動詞は、複数形なのです。豚の群れが死んだということであれば、「崖を下ってなだれ込んだ」と同じように単数形のままであるのが自然なのに、わざわざ複数形で書かれているということは、死んだのは豚だけではなかったということを意味している、つまり、悪霊も一緒に死んだということだと言うのです。

イエス様は、悪霊に取り付かれて苦しんでいる人たちを解放し癒しただけではなく、この人たちを苦しめていた悪霊を、その汚れと共に滅ぼしたのです。イエス様の到来と共にやってきた「終わりの日」、これは、まさに悪霊が滅ぼされ、悪霊に苦しめられていた私たちが救われ解放される時です。私たちにとっては、希望の時であります。

私は、この日曜日の説教を準備するに当たり、いろいろな注解書や説教集を読んで参考にさせて頂いていますが、その中に、東京神学大学の教授をしながら横浜の雪ノ下教会を牧会してこられた加藤常昭牧師の説教集があります。今回も、それを読みましたが、その中に面白いことが書かれていました。それは、加藤先生の個人的な体験です。先生は、小さい時から病弱で、よく熱を出した。そんな時良く見る夢があった。6畳ぐらいの暗闇の中に自分が寝かされていて、身動きができない。そして自分がその暗闇に押しつぶされていく。それは、死と滅びが自分を押しつぶす夢だった。しかし、今そこから救われたと書いてありました。

それを読みながら、「私と同じじゃないか」と思いました。私も小さい時がずっとそれと同じ夢を見ていました。死と滅びが私を押しつぶし、虚無の中に落ち込んでいく。自分が死ぬという夢だったのです。特に、大学生になってから信仰が分からなくなり、イエス様を否定し、自分を愛してくれている人を否定して生きようとしていたときには、毎日のようにその同じ夢を見ていました。そして、悪夢の恐ろしさのために眠ることができなくなり、心も体も病んで行き、私は絶望しました。それは単なる悪夢ではありませんでした。まさに、悪霊が死の世界から私の前に現れ、私の行く道をさえぎり、死と滅びの中に私を引きずり込もうとしていたのです。

しかし、私のために祈り、私をイエス様のところに引き戻してくれた人がいました。東京で牧会をしていたT先生が私の頭に手を置いて祈ってくださいました。「天のお父様。どうぞこの兄弟をその名前のように導いて下さい」と。その時、圧倒的なイエス様の御霊、聖霊が私に注がれ、私は生まれ変わりました。そして、その時まで小さい時から何度も見、イエス様から離れている時には毎日のように見ていたあの死の夢は、その後20数年間二度と私のところに戻ってはきませんでした。私を縛っていた悪霊は、私から出て行っただけではなく、イエス様によって完全に倒されたからです。イエス様の御霊、十字架の血潮が私に注がれたときに、私を縛っていた悪霊は滅ぼされました。

イエス様に癒された人たちは、悪霊に縛られていました。しかし、それは、まさに私ではなかったでしょうか。暴力を振るうことはありませんでしたし、所謂正気を失っていたわけではありません。しかし、死と滅びの世界からやってきていた悪霊に縛られ、人を否定し傷つけ、自分を否定し傷つけていました。しかし、そんな私を愛し、祈ってくれた人がいたのです。彼らの祈りによって、私はイエス様のところに立ち帰ることができ、彼らの祈りをとおして、イエス様の御霊を注がれたのです。私を縛っていた悪霊は滅ぼされました。

だから、私たちも苦しみの中に縛られている人々のために祈りたいのです。互いのために祈りたいのです。愛し祈る時に、働いて下さるイエス様がいる。愛し続け、祈り続ける時に、必ずイエス様が働いて下さるからです。今は、終わりの時、恵み時、救いの時だからです。2000年前にゲダラ人の地で苦しむ人たちを癒され、彼らを苦しめていた悪霊を滅ぼされたイエス様は、今も私を癒し、私を苦しめていた悪霊を滅ぼしてくださいました。今もイエス様は生きて、同じように働いておられるのです。

今は終わりの時、神の御子イエス様が勝利なさった時、イエス様の時です。イエス様は働いて下さる。イエス様は、今も勝利して下さる。熱く愛し合い、熱く祈り合っていきましょう。イエス様は、私たちの期待を裏切ることは決してありません。イエス様は私たちを見捨てません。必ず、お約束を果たして下さるのです。

祈りましょう。

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