「マタイの福音書」連続講解説教

罪から救う方

マタイの福音書1章18節から25節
岩本遠億牧師
2007年12月16日

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセ
フの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖
霊によって身重になったことがわかった。 1:19 夫のヨセフは正しい人
であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせよう
と決めた。 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢
に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤ
を迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 1:21 マ
リヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、
ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 1:22 このすべての
出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はイ
ンマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、と
いう意味である。) 1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられ
たとおりにして、その妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれる
まで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

+++

クリスマスが近づいています。今日は、イエス様の養父ヨセフについて
書かれているマタイの福音書から学びたいと思います。イエス様は、救
い主としてこの地に来られました。しかし、生まれた時は他の赤ちゃん
と変わらず、世話をされなければ生きていくことのできない弱く小さな
存在でした。イエス様を守り、育てる者が必要だったのです。そのため
にヨセフが選ばれました。ヨセフはどのようにして救い主の養父となる
ことを受け入れていったのでしょうか。そして、そのために神様は、ど
のような導きをヨセフにお与えになったのでしょうか。

当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同じだけの法的な効力がありまし
た。婚約すれば、結婚式を挙げて一緒に暮らしていなくても、夫婦と看
做されました。ですから、婚約中に婚約者が死ねば、やもめとして登録
されました。また、神様が与えられた律法には、姦淫を禁ずる規定があ
り、これを破れば死刑と定められていました。結婚しているものだけで
なく、婚約している者が他の者と肉体的な関係を持てば、それは姦淫の
罪であり、死刑と定められていたのです。それは厳しすぎると感じるで
しょうか。性の乱れた社会に生きる者たちは、神様の与えられた律法よ
りも、自分の都合を第一にします。しかし、神様が駄目だと仰ることは、
駄目なのです。それほど厳しい規定を神様は人間にお与えになっていま
す。

ですから、婚約者のマリアが妊娠したという事実は、マリアにとっては
勿論のこと、ヨセフにとっても重大なことでした。当時のイスラエルは、
ローマの支配下にありましたから、勝手に人を処刑することはできませ
んでした。従って、姦淫の罪を犯すと必ず死刑になるというわけではあ
りませんでしたが、その危険性はいつもあったのです。

マリアは、聖霊によって身篭りますが、そのことを婚約者のヨセフに言
っていませんでした。信じてもらえないという思いもあったでしょう。
主の御心がなると信じていたからでしょうか。まかり間違えば死刑に処
せされるという状況の中、マリアは何もヨセフに言わないのです。何れ
にせよ、何も言わない婚約者のマリアのお腹が大きくなっていくという
状況の中で、ヨセフは自分がどうすべきか思い巡らしていました。

決して若い男ではなかったようですが、それにしても心穏やかでいるこ
とはできないようなことです。しかし、ヨセフは、自分の心の中にある
怒りや憤りに振り回されることなく、むしろ、婚約者であり妻であった
マリアをどのように救うかということに心を遣っていました。

「1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなか
ったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。「正しい人」とあ
りますが、これは、神様の律法に従う人、神様の御心を求めて生きる人
という意味です。自分の思いではなく、神様はどうするかということを
第一にする人、それが義人です。彼は、神様ならどうするかということ
を思い巡らしていた時、彼女をさらし者にしないのが神様の御心だと考
えたということです。さらし者にするとは、「私の妻が私といっしょにな
る前に妊娠した。彼女は姦淫の罪を犯した」と公にすることです。しか
し、そうすると、マリアは死刑になる可能性がありました。

ヨセフは、どうしたらマリアを救うことができるか、姦淫の罪を犯さな
かったことにすることができるだろうかと考えていたのです。その結論
が、元々自分とマリアとの間には婚約そのものがなかったことにすると
いうことだったのです。婚約がなければ、マリアが妊娠しても、姦淫の
罪とはなりません。「内密に去らせようと決めた」とはこのことを意味し
ます。

ヨセフが神様の御心だと考えたのは、罪を裁き、罰を与えることではな
く、どうしたら罪の罰から救ってやることができるかということだった。
ここに神様がヨセフを選んで、イエス様をお委ねになった一つの理由が
あるように思います。神様は、人の罪を罰するためではなく、罪を赦し、
罰を免れさせるためにイエス様をこの世に送り、十字架にかけることを
決めておられたからです。私たちも、どうしたら人が罪の罰を受けなく
てすむようになるかということを第一に考える人間になりたいですね。
それこそ、神様の御心、神様の思いを第一にする義人の心です。

ところが、ヨセフがこのことについて思い巡らしていた時、主の使いが
夢でヨセフに現れて言います。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなた
の妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方
こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
ヨセフはダビデ王の血統と継ぐものでした。しかし、今は貧しく身分も
低い大工として生きています。そのヨセフに「ダビデの子ヨセフ」と語
りかけた主がいたのです。自分の思いを実現するための人生ではない。
父祖ダビデが為しえなかった神様の業のために神様が自分を召しだして
くださったことをヨセフは知るのです。「ダビデの子ヨセフ」という呼び
かけは、どんなにヨセフの中に眠っていた尊い実存を呼び起こすものだ
ったことでしょう。

御使いは告げます。マリアが聖霊によって懐妊したこと。彼女が男の子
を産むこと。その名をイエスと付けるべきこと。「イエス」とは「主は救
い」という意味ですが、ヨセフにとって、「この方こそ、ご自分の民をそ
の罪から救ってくださる方です」という言葉は、ヨセフのその後の生涯
を導き、照らし続けたに違いありません。

ヨセフは、罪を犯したのはマリアだと思っていました。自分はその罪の
罰を免れさせてやらなければならないと思っていた。しかし、聖霊によ
ってマリアの中に宿った神が、自分に託される。この方が、神の民を罪
から救う方となる。いや、この自分を罪から救ってくれるのがこの方な
のだ。自分こそが罪を赦していただかなければならない者だということ
を彼は知るのです。その方が自分に委ねられる。ヨセフは夢から醒める
と、主の使いが言ったとおりに、妻マリアを迎え入れます。

イエス様が生まれると、すぐにヘロデ大王がイエス様を殺害しようとし
ているとの知らせを夢で受け、母マリアと共にイエス様をエジプトに連
れて逃げます。ヘロデ大王の死後、エジプトからイエス様を連れ帰り、
ナザレという小さな村で育て、躾けます。

しかし、彼は、イエス様が伝道の生涯をお始めになる前に、死ぬのです。
命がけで守り、育て、愛したイエス様の祝福の言葉を一言も聞くことな
く、イエス様の癒しの業を一回も見ることなく。その偉大な業を経験す
ることなく、彼の地上の生涯は終わるのです。

ヨセフは、「この方こそ、ご自分の民をその罪からお救いになる方です」
という御使いの言葉、主の言葉に全生涯を捧げたのです。しかし、自分
の目でイエス様の働きを見ることができなくても、その祝福に溢れる言
葉を聞くことができなくても、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救
う方です」という言葉は、ヨセフの中に確信を与え、希望の光を照らし
続けたのです。このヨセフがいたからこそ、イエス様の中に、あの気高
いご人格が形作られたのです。

ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信
させるものです。

皆さんは、「救い」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょ
うか。私たちは何から救われたいでしょうか。健康に不安を感じていら
っしゃる方は、健康の回復を救いと感じるでしょう。また、社会生活の
中に苦しみを感じていらっしゃる方は、社会生活がスムーズにできるよ
うになることが救いと感じるでしょう。経済的に困窮している人にとっ
ては、経済的な問題が解決することが救いと感じるかもしれません。確
かに、私たちは、これらの問題、自分の直面する問題に対する解決を必
要としています。

しかし、聖書は、その根本に罪があるといいます。罪とは、的を外すこ
とを原義とする言葉で、神様との関係が正しくないことを言います。罪
が解決していない時、私たちは、自分が一体何のために存在しているの
か。自分が一体誰なのか。自分の存在の意義は何か、その価値は何かを
知ることができないのです。それは、罪が、私たちの存在を私たちの創
造者であり、私たちを誰よりも愛し、誰よりも大切に思い、支えてくだ
さっている神様から引き離しているからです。

罪とは何かというと、それは、神様の御思いよりも自分の思いを第一に
することです。自分の存在が神様に依存していることを認めようとしな
いこと。神様の存在を認めたとしても、自分の思いをとげるために神様
を自分の召使のように使いたいと思うこと。また、神様だけが決めるこ
とができる善悪の判断を自分勝手に自分の都合に合わせて変えようとす
る。すなわち、高慢が罪の源です。高慢は、神様の前にへりくだること
をしないため、神様との関係が壊れるのです。そして、存在の意味を失
い、穢れと悪にそまり、人は絶望します。人は、永遠の存在である神様
との正しい関係の中に永遠の命を与えられるか、それとも罪に留まり続
け、永遠の死の中に落ちていくのか、二つに一つだと聖書は言います。

私たちは神様との永遠の絆の中に生きて行きたいですね。神様が永遠に
この存在を握ってくださる、そのような関係の中にいたいのです。しか
し、そのためには、私たちの罪の問題が解決しなければならないと聖書
は言います。罪の赦し、罪からの救いが必要なのです。

それは、罪なき神の御子イエス様が全人類の罪をその身に負って十字架
に架けられ殺され、地獄にまで落ちることによって成し遂げられる神の
業でした。そのことによって罪の赦しが完成したのです。また、十字架
によって最も卑しめられ、低められたイエス様が地獄の底にまで落ちる
ことによって、高慢が打ち砕かれました。ここに高慢の罪に対する勝利
があるのです。そのイエス様が三日目に蘇り、死を打ち破って永遠の王
座にお付になりました。この方が、私たちを呼んでくださる。この方が
私たちを握ってくださることが私たちの救いなのです。

ヨセフは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」
という言葉を聞いたとき、それが意味することを全て知ることはできな
かったでしょう。十字架と復活の意味をその時知ることはなかったでし
ょう。しかし、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方
です」という言葉を聞いたとき、自分の全てを、この方のために捧げる
決心をしました。目には見えない神様のご計画に自分自身を委ねたので
す。

クリスマスは、待つということを学ぶ時であります。信じて待つことを
学ぶのです。イエス様は、救い主としてお生まれになりました。しかし、
「ご自分の民をその罪から救う」救い主としての業を為されるようにな
るまで、30年もの間、イエス様は何もなさらなかった。救い主であっ
ても、神様の時がやって来るまで何もできなかったのです。ヨセフにと
ってもそうです。彼の人生は、信じて待つ生涯でした。そのために命を
懸けた生涯だったのです。

私たちはどうでしょう。イエス様を信じたとき、イエス様が心の中にや
ってきて下さいました。心の中に光が灯る経験をしました。確かに、イ
エス様が罪から救ってくださる方であることを知りました。しかし、私
たちの心の中のイエス様は、まだ小さく、飼い葉おけに寝かされていて、
世話をしてもらわなければ生きていくことのできないほど、弱い存在で
あるということを知るのがクリスマスの時期なのです。弱い私たち、小
さな私たちよりも更に弱く小さくなってくださった。私たちの心の中に
入ってくださるためです。大きな強い方が私たちの心の中にそのまま入
ったら、私たちの心が壊れてしまうからです。私たちの汚れた小さな心
が受け止められるほど、小さくなって、汚い家畜小屋で生まれてくださ
ったのです。

私たちは、家畜小屋にも劣る、汚い心の中に生まれてくださったこの救
い主を守り、育む必要があるのです。イエス様が大きくなってくださる
のを待つのです。イエス様を守り、育みつつ待つ間に、私たちの中に強
く、大きなイエス様が立ち上がって下さる準備がなされていきます。思
うに任せぬ状況の中で、私たちはこの心の中にやって来てくださったイ
エス様と共に行きながら、信じて待つことを学ぶのです。

そして、この方が力をもって立ち上がる時がやってくる。罪からの救い
の業を大きく押し進めてくださるでしょう。いつかイエス様の十字架の
意味を知る時が来るでしょう。十字架の血の圧倒的な力を体験する時が
来るでしょう。自分の存在が罪の子から神の子に造り変えられることを
知る時が来るでしょう。新しい存在として新たに創造されるのです。そ
して、その時、私たちにまつわり付く多くの問題にも解決が与えられて
いくでしょう。


私たちは、「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です」と
いう言葉を聞いてどう思うでしょうか。何を感じるでしょうか。弱く、
小さく生まれたこの方を心の中に迎え入れようとは思いませんか。何か
がすぐに起こるわけではないかもしれません。しかし、ヨセフがこの言
葉を聞いて、それを信じ、目に見えないものを待ち望みつつ、この方を
育てたように、「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です」
という言葉を心の中に育んで見ませんか。私たちは待たなければならな
いでしょう。しかし、この言葉があなたの心の中に植えつけられ、この
小さな弱い救い主があなたの心に住み始めるなら、この方は、必ずあな
たの中で大きくなって、救いの業を行い、あなたを完成なさるのです。

祈りましょう。

関連記事