「マタイの福音書」連続講解説教

罪人を招くために

マタイによる福音書9章9節から13節
岩本遠億牧師
2007年5月13日

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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今日、私たちに与えられている聖書の箇所は、この地上でイエス様に直接お会いすることのできない私たちにとって、非常に重要なことを記録しているところです。ここには、今私たちが学んでいるマタイによる福音書(あるいは、その元となるアラム語原本)を書いたマタイの召命が書いてあるからです。この人が召されなかったら、「幸いなるかな。霊の貧しき人たち。天の御国はその人たちのものである」で始まる山上の説教を私たちは聞くことはなかったでしょう。また、四大福音書の一つとして新約聖書の巻頭を飾るこの福音書が伝えるイエス様を知ることもなかったのです。そのような意味で、マタイの召命は、その後の福音伝道に決定的とも言える大きな意味があるものでした。

マタイとはどのような人だったのでしょうか。彼は、収税所に座っていた徴税請負人でした。当時のローマ帝国は、地方における税の徴収を被支配民に請け負わせていました。イスラエルでは、ユダヤ人の徴税請負人がユダヤ人から偶像を礼拝するローマ帝国のために税を取り立てていたということです。また、駐留ローマ軍の権威を笠に着て、ローマに献上する以上の金を取り立て、それを着服することが可能でした。ですから、彼らは、売国奴と呼ばれ、同胞のユダヤ人からは憎まれ、罪人と呼ばれていたのです。

カファルナウムは、エジプトからメソポタミアを繋ぐ交通の要衝でしたので、ここでマタイが座っていたのは、交易のために運ばれる物品に課税する収税所であったと考えられています。律法では、汚れた物とされる様々な物品が通るため、律法を守るユダヤ人たちからは汚れた者と言われ、二重の意味で軽蔑されていたのです。

このマタイにイエス様が「わたしに従いなさい」と言われました。すると、彼は、立ち上がって従ったとあります。「立ち上がった」とは、それまで自分を縛っていたものから立ち上がったということです。彼がなぜローマのための徴税請負人になったのかは、分かりません。しかし、清さとか汚れとか、そのような感覚が麻痺してしまう仕事をし、金のために、自分の心を売っていたのがマタイだったのです。彼を縛っていた金に対する執着、彼はここから立ち上がりました。そして、イエス様に従うのです。

マタイが編集した山上の説教は、「幸いなるかな、心(霊)の貧しきものたち。天の御国はその人たちのものである」というイエス様の祝福の言葉で始まります。マタイは、この山上の説教の場にはいませんでしたが、何度も同じ言葉をイエス様から聞いていたはずです。それは、どんなに彼の存在を満たす言葉だったことでしょう。金によって自分を満たそうとしていた。そのために清さも汚れも分からなくなるような生活をし、礼拝とは全く関係もなく、すっかり、心も霊も、枯れ果ててしまっていた。まさに心の貧しい者、霊の貧しい者とは、彼自身であったのです。その彼の前にイエス様が現れて言われました。「わたしに従いなさい」と。彼は立ち上がりました。これからの人生のことを計算して立ち上がったのではありませんでした。立ち上がらせずにはおかないイエス様の言葉の権威があった。彼を縛っていた鎖が断ち切られたからです。

私たちも、イエス様に出会って、イエス様について行こうと思うとき、これからの人生の損得を考えて、計算してついていくことはありません。勿論、これは皆が牧師や伝道者になるということではありません。イエス様を信じて、イエス様と共に生きていくということです。

「わたしに従いなさい」と言われるイエス様の言葉には、私たちを縛る鎖を断ち切る力があるのです。マタイと同じように金に縛られている場合もあるでしょう。憎しみに縛れている場合も、悲しみや自己憐憫に縛られている場合もある。また、汚れや罪に縛れている場合がある。そんな私たちに、「わたしについてきなさい。わたしに従いなさい」とイエス様が言われる時、私たちは自分を縛る鎖が解き放たれるのを経験し、罪の牢獄から立ち上がり、イエス様について行くようになるのです。ここに、「幸いなるかな、心の貧しき者たち。霊の貧しき者たち。天の御国はあなたがたのものである」という祝福の世界が開かれていくのです。私たちは、これを経験したいのです。いろいろなものに縛られている私たち、そんな私たちに「わたしに従いなさい」と言われるイエス様がいる。この方のこの言葉を聞きたいのです。これを経験したいのです。マタイは、誰よりも、これを経験した人ではなかったかと思います。山上の説教をまとめるにあたり、この言葉を最初に持ってこざるを得ない思い、それは、このイエス様との出会いによるものでないかと私は思います。

イエス様が家で食事をしておられたときのこと、多くの徴税請負人や罪人たちも弟子たちと同席していたとあります。この家が、マタイの家を指すのか、それともイエス様が活動の拠点としていたペテロの家を指すのかについては、意見は分かれますが、何れにせよ、イエス様が食事をしていた時、弟子たちと一緒にマタイとマタイの仲間たちである罪人と言われる人々が同席していました。

それを見た、パリサイ派の人たちが弟子に言いました。「なぜ、あなたがたの先生は徴税請負人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と。一緒に食事をするとは、もっとも親しい関係にあることを表すものです。パリサイ派の人々とは、所謂宗教的特権階級ではありません。宗教によって収入を得る人々ではなく、自分は仕事をしながら、旧約聖書を学び、律法にかなった正しい生き方、清い生き方をしようと思っていた人々です。新約聖書では、イエス様の仇敵のように書かれていますが、決して極悪非道の悪人ではありませんでした。まじめな人々です。礼拝に行くだけではなく、聖書を勉強して、正しく生きたいと思うという点では、現在における多くのクリスチャンと同じなのです。

もともと、パリサイとは、「聖徒」と同じ意味で用いられ,彼らは、さまざまの汚れから自らを分離して、きよく身を保とうとしていました。サドカイ派が,エルサレム神殿を中心に生活する世襲の特権的な祭司階級に属する者であることを誇示したのに対し,パリサイ派の者は,身分は一般に高くなく,手工業などに従事する中流階級の者で,律法への服従の生活を何よりも大切なこととする個人の自覚に基づいて幾つかのグループを形成していたと言われます。このようにパリサイ派形成過程におけるパリサイ人の意識と活動は決して非難されるようなものではなく、立派な敬虔な意識で生きていた人たちでした。

ところが、イエス様の時代になると、彼らはブルジョワ化し、自分が清くあれば良い、また清くない者は価値がないという意識を持って、貧しい人々を見下し、さらに精神的支配階級として自己満足的な欺瞞に陥っていました。そこにイエス様との対立が生じたのです。

彼らがイエス様を非難する言葉を弟子に言ったのは、二つの理由があります。一つは、偶像崇拝者ローマに心を売って、神の民イスラエルから税金を徴収するような神の敵とイエス様が食事をなさったからです。もう一つは、マタイをはじめとする徴税人たちが律法的に汚れていたからです。汚れた物に触れると汚れる。それが律法の原則です。ですから、異教徒の国々を結ぶ道で物品から税金を取り立てていたマタイやその仲間は、汚れており、彼らと一緒に食事をするということはイエス様も汚れるということになる。パリサイ人たちには、それが理解できなかった。神様に仕えるためには、清くなくてはならない。それなのに、何故自ら汚れるようなことをするのか。それは、律法と神様を蔑ろにするものではないのか。そこに彼らの疑問と論点がありました。それを、イエス様に直接言うのではなく、弟子たちに言いました。その言葉は、マタイの耳にも、その仲間の耳にも入りました。パリサイ人たちは、人を軽蔑し、その価値を否定する中傷の言葉を人々に聞こえるように言ったわけです。

イエス様は、それを聞き逃さず、お答えになります。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様は、彼らの罪人という言葉は否定なさいませんでした。確かにマタイやその仲間たちには、罪があるからです。しかし、罪人は病人だと言って、彼らを弁護なさいました。誰も病気になりたいと思って病気になる人はいない。彼らは癒されることを待つ人々なのだ。彼らには医者が必要だ。わたしは、その医者なのだと。

医者は、血が流れている患部に触れて血を止めます。病人は下血したり、血を吐いたりします。また、漏出がある場合もあります。しかし、律法によると血に触れると汚れます。漏出に触れる者も汚れます。汚れた者は、民の中に住むことができず、礼拝を捧げることもできません。献げ物をし、清めの儀式を受けなければなりませんでした。医者は、病人の汚れを自らの身に受けるものなのだとイエス様は言っておられるのです。イエス様は思い皮膚病を患っている人にも触れ、その汚れをお引き受けになりました。

ここにイエス様とパリサイ主義者との決定的な違いがありました。パリサイ主義者たちは、自らが汚れないために、汚れた者や汚れた人に触れないように細心の注意を払っていました。彼らは、自分を汚れから守れると思っていました。彼らは、苦しむ人々や助けを必要とする人々に対して自分の目を閉じ、彼らから遠ざかることで自分を汚れから守っていました。そこに欺瞞と高慢があったのです。自分の祭儀的な清めを第一にするために、血を流し倒れている人を見捨てることは、決して律法の教えることではないのです。イエス様なら、「そのような人がいたら、介抱しなさい。自分が血によって汚れたら、その人と共に清めの儀式を受けたら良い」とお教えになるでしょう。さらに、イエス様は、「わたしが十字架の血で、その穢れを清める。恐れなく、彼らを介抱しなさい。彼らと共に行きなさい。わたしが全責任を負うから」と仰るでしょう。自ら人の汚れを自分の身に受け、そのことによって人を癒し、清めていかれたのがイエス様です。イエス様の十字架は、全人類の汚れと罪をその身に引き受け、全ての人を清め、救われたのです。

イエス様はパリサイ人たちに言われます。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とは、旧約聖書のホセア書6章6節の言葉です。「わたしが喜ぶのは、愛(hesed)であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」とあります。旧約のホセアの時代には、神様に対する不従順や裏切りが横行していました。イスラエルの人々は、いけにえを捧げ、全焼の献げ物を捧げれば赦されるとして、心のない献げ物をしていました。偽りの悔い改めです。ホセアは、イスラエルを糾弾します。神様が喜ばれるのは、真の愛、正しい神認識であって、形式的な礼拝ではないのだと。

イエス様は、パリサイ主義者たちに、この言葉がどういう意味か行って学んで来いと言われました。これはどういうことでしょうか。彼らにこの言葉の意味を神学校やバイブル・スタディで学んで来いと仰ったのではありません。彼らはそれを頭では分かっていたのです。体験的に学べと仰ったのです。体験的にしか学べない意味があるからです。

それは、神様との関係が壊れ、切れてしまって、嘆き、苦しんでいる人の友となることによってのみ知ることができる意味です。律法によっては汚れているとされる人の友となるためには、自分も一緒に汚れなければ友となることはできない。自分を捨てることによってしか愛することができない愛がある。それは、自分の力では愛せないことを知るということです。自分は汚れから遠ざかっていれば良いなどと言えない世界の中に飛び込む時、自分の清さ、自分の義などと言っていられない世界の中で、「神様!」と叫ばずにいられない、神様にしか与えることができない愛を求める者となると仰っているのです。

また、そのような生き方を始める時、外的には汚れていなかったけれども、心の中は汚れで一杯だったということを私たちは知るようになる。自分自身が汚れからの清めを必要とする者、イエス様の助けが必要な者だったということを知るのです。

もう数年前ですが、私が大学で持っていた聖書を読む会に毎週やってきてくれていた女子学生たちがインドのマザー・テレサのところにボランティアに行きました。他のボランティアの人たちと同様、彼らも、最初は「死を待つ人々の家」に配属されますが、そのあまりに過酷な現実に彼らは務まらず、すぐに「親に見捨てられた子供たちの家」に移されました。それでも愛に飢え乾く子供たちを受け止めることができず、逃げて帰りたいと思ったと言います。また、そんなことなら邪魔になるからすぐに帰れとも言われたそうです。先ずは、子供たちを抱き締め、抱きかかえることが基本となりますが、そうするうちに皮膚病を移されます。彼らは、毎朝早朝にもたれていた祈祷会に参加するようになりました。祈らなければ、愛することができない。自分の愛では愛することができない。この愛に飢え乾く子供たちを愛するためには、神様の愛が必要だったと彼らは語りました。そして、彼らは祈りに祈って子供たちの世話をし、帰ってきた彼らの顔は輝いていました。

律法は素晴らしいものです。律法がなければ、私たちは礼拝の意味を知らなかったでしょう。罪の赦しや、清められなければならないということも知ることはできませんでした。しかし、自分だけ清められていれば良い、自分が汚れていなければ良い、自分だけ礼拝が捧げられれば良いと思う心の中に神の愛はないのだ、とイエス様は仰るのです。

「確かに、あなたは、律法に従い正しい人だろう。しかし、もし、あなたが、自分だけの正しい世界から飛び出して、苦しんでいる人々の友となり、彼らのために生きようとするなら、あなたは、自分の力では彼らを助けることができないこと、彼らを救うことができないことを知るだろう。また、自分自身の心が自己中心で、汚れに満ちていることを知るだろう。そこから神様に向かって声を上げることが始まるのだ。自分の義によってではなく、神様の愛と義を乞い求め、それによって全ての者が生かされる世界を知るようになるだろう。わたしは、自分で自分を清くできず、罪に泣く者の友となるため、彼らを癒すため、彼らを本当に真の礼拝者とするために来たんだ。彼らを招いて神の子にするために来たのだ。あなたを招いて神の子とするために来たのだ。わたしは汚れた者と共に生き、彼らの汚れを身に受ける。そして彼らを十字架の血で清める。わたしは十字架にかけられるために来たのだ」と仰っているのです。

律法を守っている者たちも、律法を守れず虚しく罪の中に落ち込んでいる者も、同じく神の子なのです。マタイは、山上の説教の中で、これまた有名なイエス様の言葉を残しています。

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

極悪非道の神を神とも思わぬ徴税人、それはマタイ自身でした。しかし、イエス様は言われました。「天の父は、悪い者にも良い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくないものにも雨を降らせて下さる」と。その愛がマタイを救ったのです。マタイを癒したのです。マタイは、声高らかにこのイエス様の言葉を語らずにはいられませんでした。自分は完全ではなかった。傷だらけだった。汚れ果てていた。自分を自分でどうすることもできなかった。しかし、こんな自分を完全なものとするのがイエス様だった。マタイは、そのことを告白しているのです。

「わたしに従いなさい」という一言で、マタイを縛っていた罪の鎖を断ち切ってくださったイエス様。彼を罪の塵から立ち上がらせ、従うことができるようにして下さったイエス様が今私たちに言っておられるのです。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしは、義人を招くためではなく、罪人を招くために来た。わたしは、あなたを癒すために来た。わたしは、あなたを招くために来たのだ」と。

祈りましょう。

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