「マタイの福音書」連続講解説教

羊を狼の中に

マタイによる福音書10章16節~25節
岩本遠億牧師
2007年7月1日

10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 10:17 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。 10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

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イエス様は、弟子たちを伝道にお遣わしになるにあたり、伝道のための心得をお与えになります。今日、私たちに与えられている箇所は、迫害の予告でありますが、どのようにお感じになったでしょうか。「イエス様を信じること=迫害される」ということなら、キリスト教なんかに関わったりしないほうが良いのではないかと感じる方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、何故迫害されることになるのか、と疑問に思う方もおられることと思います。また、一生懸命信仰したら迫害されるのなら、そこそこ、救われる程度には信仰しても、迫害はされないよう、目立たない生き方をしたほうが良いのではないかと感じる方がいないとは言えないかもしれません。

しかし、もう一方で、私たちは、このキリストの平和教会の仲間の中に、迫害を受けながら信仰を守っておられる方がいることを知っています。迫害されることについて、神様を恨めしく思ったりなさらずに、むしろ、内的に神様との関係をさらに強められ、輝いているお姿を拝見するにつけ、信仰は理屈ではないということを、学ばせられます。圧迫する状況を超えしむる力、その中にあってさらに強い希望を与える力、死を打ち破る力があることを私たちは、遠い世界のこととしてではなく、私たちの仲間の中に見ているのです。

イエス様は、ご自分の全権大使として伝道に遣わそうとする12人の弟子たちに、このことをお語りになりましたが、この時の伝道旅行では、彼らは全くと言って良いほど迫害を受けていないのです。「神の国は近づいた」と宣言し、病気を癒し、悪霊を追い出すだけの働きをしている間は、迫害されなかったのです。むしろ、迫害を受けるようになったのは、イエス様の十字架と復活の後、ペンテコステにおいて聖霊を受けてからです。そして、その迫害は、その時から、現在に至るまで続いています。イエス様の十字架と復活の後の聖霊による伝道は、それ以前のものとは質的に異なるものだったからです。ですから、イエス様がここで語っておられるのは、イエス様が復活し天にお帰りになった後に起こることを、預言的にお語りになったと理解されています。

ペンテコステの後、弟子たちが語ったのは、イエス様の十字架と復活でした。イエス様の十字架と復活を語ることが人々の間に反発と敵対心を引き起こしたのです。これは、反社会的な行動を取ることによって問題視されるカルト宗教に対する社会の反応とは全く違ったものです。カルトは、その反社会性の故に社会から攻撃されます。しかし、正統的なキリスト信仰が迫害を受けるのは、そこに反社会性があるからではありません。人間の持っている罪そのものが、イエス様の十字架と復活という事実に敵対するものだからです。

イエス様は、ヨハネによる福音書で次のように言っておられます。

16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

「弁護者」とは聖霊のことですが、聖霊は罪と義と裁きについて、世の誤りを明らかにすると言っておられます。つまり、人間は誰一人例外なく、罪人であり、自分の修養努力では、神様の前に正しい者とは認められない。つまり、どんなに頑張って善行を積んでも、献金しても、あるいは布教活動をしたとしても、罪そのものが解決していなければ天国にいけないということです。では、どうすれば罪が解決するのか。イエス様が私の罪を全部背負って十字架に死んで下さったことを信じることによってのみ罪がキャンセルされる、罪がなかったことにされると聖書は言うのです。

そして、イエス様の復活によって、罪の呪いである死そのものを打ち砕き、信じる者に神の子としての立場を与える。これを「義」と言います。また、裁きとは、信じない者が罪ののろいの元に留まるということです。そこには神様の命から断絶した滅びしかありません。これが、聖霊が教えるイエス様の十字架と復活なのです。

しかし、人間は誰一人例外なく、こういう話は聞きたくないのです。誰も、「あなたは、本質的に罪人であって、神様の御思い従った正しい生き方をすることができません。それはあなたが罪人だからだ」と言われて、ムカッと来ない人はいません。それは、私も同様です。良いことと悪いことを、自分が決めたいという心を人間は誰一人例外なく持っており、それが罪の本質だからです。

ディール・カーネギーという人が『人を動かす』という本を書きました。数十年前に初版が出た本で、世界中で翻訳され、今も売れ続けています。その中に、人を動かそうと思ったら、相手の問題点や欠点を指摘してはいけないという下りがあります。何人もの人を殺した凶悪殺人犯でさえ、自分は悪くなかったと思っているという例が出されており、人に問題や罪を指摘されたら、そこには怒りや反発が生じるだけで、人の心を動かすことはできないというのです。ですから、人には罪があると指摘し、イエス様の十字架と復活を証する者たちは迫害を受けるのです。

また、仮に罪を認めたとしても、自分の方法で罪を解決したいと思う傾向が人にはあります。慈善活動をする。努力して良い人間になる。修行する。罪滅ぼしの善行を行う。自分で頑張ったことのご褒美として、天国に行けると言ってもらいたい。「あなたは、良い人間ですね。それだけ頑張っているんですから天国にいけますよ」と言われるのが好きです。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、このことをさらに突き詰めています。カンパネルラは、親友のジョバンニが学校で苛められているのを見ながら、助けることができず苦しんでいました。賢治は、十字架を表す北十字星(白鳥座)から南十字星を通ってさそり座まで行く銀河鉄道にジョバンニとカンパネルラを乗せて語らせます。イエス様の十字架の救いを信じて天国に行くことよりも、自分自身が友のために命を捨てることができる人間になることが救いなのではないかと。若い時キリスト教に触れ、宣教師と語り合いながらも、イエス様の十字架を受け入れることができなかった賢治の思いがここに書き表されています。

しかし、聖書は言うのです。どんなに良い人間になったとしても、罪そのものは残ると。それがどんなに犠牲的な行為であったとしても、自分の行為によっては、罪はキャンセルされない。いや、あなたの命は、自分の罪のために滅びなければならない。他の人のために捨てることができる命は、あなたには残っていない。罪は、それほど根深く、深刻なのだ。イエス様の十字架以外に救いはないと。

私たちが、「主よ、私は罪人です。どうぞ、私の罪を赦して下さい」と祈れるということは、聖霊による奇跡であって、私たちの思いから出たものではありません。聖霊が私たちに罪を認めさせ、イエス様の十字架によって罪が赦されていることを確信させ、イエス様の復活によって永遠の命の中に生かされていることを告白させて下さるのです。

イエス様は、「それは、狼の群れの中に羊を送り出すようなものだ」と言われましたが、私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、イエス様の羊となったのです。自分の弱さを認め、水や草のあるところに導いて下さる主が自分には必要だと告白する者となったのです。自分勝手な道に彷徨い出てしまうような愚かな自分を知って、「主よ、私を探しに来て下さい。私を見つけてください」と祈る者となった。こんな愚かで馬鹿な自分のために、命を捨てて下さる羊飼いイエス様がおられることを知る者となったのです。これこそ聖霊の働きなのです。イエス様は私たちの羊飼い、私たちはイエス様の羊なのです。

しかし、イエス様を認めようとしないこの世は、まさに狼の群れです。私たちは、そのような世界に生きており、そのような世界に遣わされているのです。聖書は、はっきりと、この世の権力を支配しているのは悪霊であると言っています。

エフェソ2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

勿論それは、永遠にこの世を支配するわけではありません。イエス様がもう一度やってこられる裁きの日まで、猶予が与えられているだけですが、今、私たちは、この世が罪に満ち、人々が自分の欲望を満たすために罪の赴くままに人を利用し、あるいは押さえつけ、傷つけて、高慢な思いを満たしている現状を見ています。

この世は、イエス様に敵対しているのです。ですから、イエス様を信じ、イエス様に従おうとする私たちに圧迫を加えようとすることがあっても、それは、私たちがイエス様の羊となっているからなのであって、私たちがこの世に属していないからです。

フィリピ3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

皆さん、どうぞ忘れないで頂きたい。私たちの存在の基盤は、罪に満ちたこの世、狼の世界にあるのではないのです。私たちの国籍は天にあります。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたイエス様の国に私たちは属しているのです。この世が私たちに悪意を働く時に、どうぞ、必要以上に落胆しないようにしましょう。私たちは、この世に生きていますが、軸足は天国にあるのです。この世が私たちの存在を支えているのではありません。そのことが分かってくると、私たちは本当に強くなれるのです。私たちを強くする方がおられるからです。

今日の箇所で、イエス様は、弟子たちに対して迫害の予告をなさった訳ですが、イエス様の言葉の端々に、弟子たちに対する迸る愛を見ることができます。イエス様は、頑張って迫害に耐えなければならないと仰っているのではないのです。かつては、自分自身が狼のような存在だった。しかし、イエス様に出会い、イエス様の羊となったのが私たちです。この世に生きている限り、狼の攻撃を受けることは避けられないでしょう。しかし、この羊を愛し、ご自分の命を捨てられる方がおられるのです。

「10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」

このイエス様の言葉は、伝道者パウロの上に実現しました。パウロは、迫害を受け、捕らえられ、ローマ総督フェスト、ヘロデ王の前に引き出された時、復活のイエス様に出会った時のことを語りました。それは、彼の最も大切にしていた個人的な体験でした。「イエス様は生きている。」彼の内に住んでいたイエス様が語られたのです。「わたしは、十字架に殺されたけれど、甦り、生きているぞ」と。私たちは、そのような限界状況で自分が何を言い出すか分からないと、不安に思うことがあるでしょう。しかし、その必要はないと仰っている。何故かというと、私たちが自覚しているよりも、私たちの内に住んで下さっているイエス様は遥かに強いからです。私たちは、自分の信仰は儚い、弱いものだと思うかもしれない。しかし、イエス様ははっきり言っておられるのです。「あなたがたの中で語って下さる父の霊がいる」と。私たちの内側に住み、内側で生き、内側から生かすイエス様がいる。父なる神様の霊がおられるのです。

「10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とありますが、これは迫害に耐えて、頑張り抜かなければ救われないという意味ではありません。「10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と言われているからです。「迫害されたら逃げなさい。逃げて良いんだ」と仰っている。むしろ、逃げて行って別のところでイエス様の十字架と復活を語る。そのようにして初代教会時代の伝道は進んでいきました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、「逃げて行くことができるのであれば、逃げて行きなさい。わたしも逃げる君たちと一緒に行く。そのようにして、わたしと一緒に生きていきなさい。逃げながら信仰を守りなさい」という意味です。勿論、逃げて行くことができない状況もあります。家族の中で迫害を受ける場合などがそうですが、「逃げて行きなさい」と言われたイエス様は、逃げ出して行くことができないそのような状況の中に、休み場を備えてくださらないでしょうか。

そして、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言っておられます。これは、「わたしは、君たちを見捨てない」というイエス様のはっきりした約束を語っておられるのです。「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに」という言葉については、学者によって見解が分かれますが、これは、イスラエルの人々が全てイエス様を救い主として受け入れるようになる前にという意味で、この迫害の時が永遠に続くわけではない。イエス様がもう一度戻って来られ、この罪の世を裁かれ、迫害の時が終わると仰っているのです。毎週、「使徒信条」を告白していますが、「かしこより来たりて、行ける者と死にたる者とを裁き給わん」というのは、このことを意味しています。

イエス様との命の関係、それは、私たちの主体的な「信じている」という感覚で測れるほど弱いものではありません。イエス様が握って下さっている。そこに私たちの希望があるのです。私たちは、羊のように弱いでしょう。しかし、羊のために命を捨てて下さる方がいるのです。

私たちは、できれば迫害など受けたくはありません。迫害されないような生ぬるい信仰では駄目だという人もいますが、イエス様は、そのようなことを仰っているのでもないのです。イエス様の十字架と復活によって生かされる者と、そうでない者との間には、決定的な命の違いがあるのだ。君たちは、私に属するものだとイエス様は仰っているのです。迫害を受けることがあるだろう。しかし、お前はわたしのものだ。お前は、この世に属しているのではない。いや、この世は過ぎ去るものだ。天にはもっとしっかりした、永遠の御国がある。お前は、そこに属する者だ。たとい、この世がお前に敵対することがあっても、お前の存在の基盤は揺れ動かない。このわたしが、お前の存在の基盤だからだ。イエス様は、そのように仰っているのです。

祈りましょう。

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