「マタイの福音書」連続講解説教

義に飢え渇く者は幸い

マタイによる福音書講解説教5章6節
岩本遠億牧師
2006年9月17日

義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。

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私たちは、幸いと祝福を求めて生きていると言っても良いかもしれません。ただ、何が幸いで、何が祝福なのかということについては、人によって理解も、あるいは感じることも違うでしょう。神様は、人をご自分の形に創造されたと聖書は言います。神様が私たちに与えようとしておられる祝福に満たされる時、私たちは、神様の形として神様の姿を映すものとなることができるでしょう。イエス様は、8つの幸い、祝福について語っておられます。今日は、その4番目、「義に飢え渇く者の幸い」について共に学びたいと思います。

1.まず「飢く渇く」ということについて考えてみましょう。今私たち日本人は飽食の時代に生きており、「飢える」ということを知りません。また喉が乾くことがあっても、水道を捻れば水が出てくるこの社会では「渇く」ということも分かりにくいことです。イエス様が生きておられたイスラエルの地には乾燥した砂漠のような荒野がありました。そのような地で水もなく食料もない「渇いた」「飢えた」状況というのは経験したことでなければ分からない、死と隣り合ったようなものなのでしょう。

詩篇42篇に「鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます」という言葉があります。これは、喉が渇いた鹿が川にいって水を飲みたいと思うといことではありません。喉が渇くのではなく、体全体が渇くのだということです。イスラエルに留学していた人から聞きましたが、「バケツ一杯の水を飲んでも癒されない渇き」を経験したということです。

以前動物を扱ったテレビでイスラエルの荒野にいる鹿のことを放映していました。雨の降らない荒野に生きる鹿が求める川の水は断崖絶壁の下にありました。水を求めて断崖を降りていくのは命懸け、経験の少ない子鹿などは足をすべらせ落ちて死ぬこともあるとのことでした。それ程までに渇く、水がなければ動物は生きていけないからです。詩篇の詩人は「生ける神を慕いあえぐ」と言いました。生ける神との間が断絶されているということは、この詩人にとっては死に等しい絶望を意味していたからです。

イエス様が「義に飢え渇く」とおっしゃるとき、このような飢え渇きを意味しています。つまり、自分自身の存在が保たれるか、それとも失われるかということに「義」ということが関わっているということなのです。

2.「義」とは何でしょうか。日本語には「正義」という言葉はありますが、「義」という言葉は馴染みがない言葉だと思います。「正義」とは、倫理的に間違っていないこと、法律的に正しいことを意味していると一般には考えられています。法的・倫理的なある基準をもとに、それに達していれば正義、達していなければ不義という人間の行為に対する評価を表わすというのが一般的な理解です。

一方、聖書の中における「義」とは、関係が正しいことを意味しています。神との関係が正しいとき、「義」であるというのです。「義」と訳されているこのヘブライ語の言葉はtsedeq で、「義」とか「公正」とも訳されますが、「救い」という語と対の概念です。つまり、「義」があるところ「救い」があり、救われているとき「義」と認められているということです。口語訳聖書ではtsedeqが救いと訳されているところもあります。神との関係が正しいとき、そこに救いがあるのです。

神様との正しい関係を自分の力で得ようというのを「人の義」と言います。一方、神様のほうから私たちに与えてくださる神様との正しい関係を「神の義」と言います。「人の義」とは、人の行為がある基準に達していることを言い、この基準とは「律法」です。いくら自分で自分を良い人間だと思っても、また、どんなに人に「あなたは良い人ね」と言われたとしても、そのことによっては「義なる者」と看做されません。律法の要求をすべて満たすことができるとき、「義なる者」と看做されるわけです。

 イエス様は、おっしゃいました。一番大切な律法は「聞け、イスラエルよ。主なる神は、唯一の神である。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。私たちは、自分の全存在で主なる神を愛したいと願っていますが、私たちが自分の力で神を愛そうとしても、私たちの思いのなかに、知恵のなかに、力の中に、神に対する完全な愛があるかというと、そうではありません。また、自分自身の隣人、家族や友人を本当に愛したいと願っています。しかし、その愛の中に欠けがあります。神が人間に与えられた律法の基準に達していない自分を認めざるを得ません。ですから、私たちは、自分の力で神の律法の基準に達しようとしても、そこに大きなギャップがあることを見るのです。このギャップのことを聖書では「罪」と呼んでいます。人間の努力による「人の義」で神の基準を満たすことは不可能なのです。

 「神の義」とは何でしょうか。これは、「人の義」によっては神の基準に達しない人間、罪深い人間を神の一方的な愛と憐れみによって免責し救うことを意味しています。「正義の神」という言葉が表わす、裁きを下す神の厳正さではありません。神が救うに値しない人間を一方的に憐れんで救う、この神の行為を「神の義」というのです。先程紹介したヘブライ語のtsedeq「義」が「救い」の対概念として用いられるというのはこの様な理由からです。

 旧約聖書の詩篇には第2代のイスラエル王ダビデが歌った賛歌がたくさんありますが、ダビデは「神の義」による救いということを乞い求め、それを声高らかに歌った人でした。

「あなたの義によってわたしを助け出してください」(詩篇31:1)

神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。(詩篇51:14)

ダビデは、羊飼いから身を起こし、王位にまで上り詰めた人でしたが、自分の失敗、自分の罪を素直に認めることのできる人でした。自分の罪を自分で消すことができないことを知っていました。自分の性的な欲望を満たすために自分の忠実な部下の妻を奪い、その部下を殺害しました。そのことを神から遣わされた預言者に指摘されたとき、「わたしを殺人の罪から救ってください。わたしを救えるのはあなたの義だけです」と祈ったのです。どんな罪を犯した者でも神の義が覆って下さるとき、救われる。これがダビデの信仰であり、聖書の主張なのです。

イエス様は、罪深く、自分では神の基準に達しない、自分の力では自分を救えない人間を「神の義」によって救うため、「神の義」による救いを完成するためやって来られた方でした。「神の義」とは、罪のない神の子イエス様が、私たち罪にまみれた人間の代わりに十字架について下さったことです。イエス様の十字架によって、私たちは罪なきものとして神の御前に立つことができる。神との豊かな祝福の関係に入れていただけるのです。「神の義」は、このイエス様の十字架と復活によって完全なものとして人間に与えられているのです。

「義に飢え渇くもの」というのは、「人の義に飢え渇くもの」という意味ではありません。「神の義に飢え渇くもの」、「私は罪あるものです。神よ、あなたの義で私を覆ってください。滅んでしまうしかない私をあなたの義で救ってください」と祈るものという意味です。そのように祈るとき、神の義がその人を覆うのです。「ああ、何と祝福されていることだろう」とイエス様が叫ばずにいられなくなるような状況がその人に臨むというのです。イエス様の「義」によって満たされる者となる。イエス様の救いによって満たされる者となるのです。

4.私は、ここで一つの例話として、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げたいと思います。神の義に飢え渇く者と、自分の義によって生きようとする者の対比がはっきりと書いてあるからです。

貧しく、父親がいない家に育つジョバンニは、病気の母の看病をしながらアルバイトをしています。弱い立場の彼は、学校で友だちにいじめられますが、親友のカンパネルラも彼を助けることができません。

ある日、彼は不思議な経験をします。銀河を駆け抜ける銀河鉄道に乗っているのです。前の席には親友のカンパネルラがいます。二人は北十字星(白鳥座)から南十字星を越えてさそり座に向かう列車に乗り降りする人々との会話をとおして、人生の意味と死の意味について考えていきます。

北十字星と南十字星はキリスト教的な死と救いの考え方を表しています。タイタニック号の沈没で命を落としたクリスチャンたちは、南十字星で列車を降り、イエス様をとおして天国に行っています。しかし、ジョバンニとカンパネルラの二人だけは列車を降りず、さらに、さそり座にまで向かって行こうとするのです。仏教徒でありながらキリスト教も学んだ賢治が、キリスト教と自分の考えを鋭く対比させているのが分かります。

聖書は、「イエス様が全ての人のために命を捨てた。だからあなたは彼を信じれは救われる」と言います。しかし、賢治は「自分が友のために死ぬことが救いではないのか」と主張するのです。

カンパネルラはさそり座の手前で姿を消し、ジョバンニは一人取り残されてしまいます。そこで銀河鉄道の旅は終わり、彼は目を覚ますのですが、町では大変なことが起こっていました。カンパネルラが友だちを助けるために死んでしまったというのです。

カンパネルラは、十字架をもとめず、友を助けるために死にました。ジョバンニを助けることができず、内心苦しんでいたカンパネルラが、溺れる子供を助けるために、死んだ。人を助けることができる人間になれることが彼にとっての救いでした。そしてそのようにして彼は自分で自分の救いを手に入れたというのが賢治の主張です。

そのような生き方はとても尊い生き方です。賞賛されるべきものです。しかし、人のために自分の命を捨てることが私たちの救いではないのです。良い人間になっても、自分の命を差し出すようなことがあっても、それは救いをもたらさないと聖書は言うのです。パウロは、言いました。「13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」1コリント13:3。

自分の命をどんなに人のために自分の命を捨てても、イエス様の愛、イエス様の義を受けなければ、私たち自身の罪は罪として残るからです。その罪によって私たちは滅びてしまう。私たちの行為は、私たちの罪を消し去ることはできない。罪はそれ程、根深いのです。神様と私たちとの間を引き裂いてしまっているのです。

イエス様の十字架だけが、私たちの罪を消し去ることができる。私たちは、十字架の御許に降り立たなければなりません。謙遜になって、十字架のイエス様に、よろしくお願いしますと言わなければならないのです。

勿論、友のために自分を捨てることができるような尊い生き方をしたいと願います。聖書も、私たちもそのように生きるようにと勧めています。また、イエス様との交わりの中で、私たちもそのような者に変えられていくでしょう。しかし、救いということと、そのことは切り離して考えなければならないのです。人のために自分を捨てることができなくても、イエス様を信じたときから、私たちは救われているのです。人のために自分を捨てる人が救われるのではなく、イエス様の十字架に頼る人が救われるからです。

しかし、その時から、聖霊が私たちの人格に強く働きかけ始め、私たちはイエス様の姿に似たものと変えられていくのです。人に仕えたイエス様の御霊が私たちを謙遜にしていくでしょう。全人類のために命を捨てられたイエス様の御霊が私たちに満たされる時、私たちも、人のために自分の持っているもの、あるいは自分自身を差し出す人間に変えられていくでしょう。

神の義に飢え乾く者は、イエス様の義に満たされ、イエス様が私たちの全てとなって下さるからです。

4.イエス様は、「ああ、何と祝福されていることだろう、義に飢え渇く人は。その人は満ち足りるからだ」と言われました。自分の力では自分を救えない、罪深い性質を変えることができない人、「神様、あなたの義で私を覆ってください、私を包んでください」と祈る人は幸いです。十字架の御許に降り立つ人は幸いです。神の義があなたを包むからです。イエス様が満たしてくださる。私たちは、イエス様の御顔を仰ぐ者とされていく。私たちはイエス様の見上げていくうちに、イエス様と同じ姿に変えられていきます。自分の力では律法の要求を満たすことのできなかったものが、イエス様の姿に変えられ、満たされて行き、この地上に神の御心を表わして行くことのできるものに変えられていくのです。何という幸いでしょうか。何という祝福でしょうか。

 今日、この聖書のみ言葉を聞く一人一人に、聖霊様が親しく働いて下さり、イエス様の十字架を求めるものとしてくださいますように。神の義にまったく覆われ、罪が赦され、聖なる神の御顔を仰ぎ見ることができますように。霊の目が開かれ、イエス様の御姿とイエス様が備えて下さっている豊かな祝福の世界を見ることができますように。イエス様の御姿に満たされる者と変えられていきますよう、心から祈ります。

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