「マタイの福音書」連続講解説教

自分の基準を捨てて

マタイによる福音書7章1節~6節
岩本遠億牧師
2007年3月4日

7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

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キリストの平和教会には、特に決まったことはありませんが、一つだけ、集われる方々にお願いしていることがあります。毎週の週報と一緒にキリストの平和教会の基本的な姿勢を書いたプリントをお渡ししていますが、そこに「人を批判しない」ということを書いています。今日の聖書の箇所は、まさにそのことについての教えですので、私たちは、今日、それを確認しながら、そのことを通して与えられる神様の大きな恵みを受けたいと思います。

イエス様は、「人を裁くな。自分が裁かれないためだ」と言われましたが、その意味を取り違えると、社会生活も、また教会生活もできなくなってしまいます。裁判官はどうしたら良いのだろうと思う人も出てくるかもしれません。また、教会では、教会員が重い罪を犯しても悔い改めようとしない場合、除名などの処分を与えるようにとも教えています。

イエス様は、「7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と仰っています。つまり、自分の思いを善悪の判断基準とした裁きということを禁止しておられるのです。神様が赦し、愛している人を、自分の思いで断罪することです。

人間の罪の根本問題は何かというと、自分自身を善悪の判断基準とすることです。創世記によると、神様は、人を創造なさり、園のどんな木からも実を取って食べて良いと仰せになりましたが、善悪の知識の木の実だけは食べてはならない、とお命じになりました。これは、善悪を決定するのは、ただ一人の主権者である神様だけの権限であって、人間のものではないということです。神様は、「それを食べる時必ず死ぬ」と言われましたが、神様との命の関係が切れるという意味です。しかし、人は神様の命令に従うことを欲せず、これを食べました。善悪の決定権を自分のものとしようとしたのです。

イエス様が、ここで「7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」と仰っていますが、この「丸太」というのは、その罪の心の最も根本的な部分ということです。私たちは、人の問題に気が付くと、「あなたにはこんな問題があるから、こうしたほうが良い。そうしたらもっとよく見えるようになる」と言いたくなる。しかし、イエス様は、「そういう心の中に、人を自分の基準で裁き、罪に定めようとするもっと根本的な問題があるのだ。その内的な問題の解決こそが重要だ」と言われるのです。

復活のイエス様に出会ったパウロは、イエス様の十字架と復活、そしてイエス様こそが真の王であることを地中海世界に伝える伝道者となりました。そして、伝道は大成功を収めるのですが、そこには、信徒たちの間で大論争となることがありました。それは、偶像に捧げた肉を食べることは良いか悪いかという論争でした。

当時地中海世界では、食用の肉は、必ず一度偶像の神殿に捧げた後で、市場に下げられ売買されていました。肉食反対派の人たちは、偶像に捧げられた肉は偶像によって汚されているから、それを食べる人も汚されると主張しました。一方、食べても良いと考える人たちは、偶像なるものには人を汚すような力はないと主張しました。食べる人は食べない人を信仰の弱い人と言って非難し、食べない人は食べる人を偶像礼拝容認主義者と言って非難しました。そのような事態がギリシャのコリント教会でも、ローマの教会でもあったようです。パウロは、このことについて両教会に書き送っていますが、ローマの信徒への手紙には、次のように書いています。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

パウロは、食べる人も食べない人も、主の召使だ、主の僕だと言っています。そして、この方が、食べる人のためにも、食べない人のためにも十字架にかかって死に、その罪のすべてを贖い赦して下さったのだ。一体、他人の僕を裁くあなたは何者か。僕を立たせるのも、倒すのもその主人の心次第だ。しかし、この僕は立つ。なぜなら、主は彼を立たせることができるからだ、と言いました。私を立たせ、あなたを立たせ、あの人を立たせるイエス様がいるのです。

そして、食べるのも主のために食べ、食べないのも主のために食べない。クリスチャンとなった私たちは、もう自分のために生きているのでも、自分のために死ぬのでもない。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。私たちは生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものである、と言いました。イエス様とイエス様を信じている人の間に土足で入り込むなと。

最後の部分、新改訳聖書では次のように訳しています。

「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」

イエス様は、あなたのために命を捨てられたように、この人のために命を捨てられたのです。あなたの罪をすべて赦すため、あなたの不足を全て補うために十字架にかかって蘇られたイエスさまが、この人の罪を全て赦すため、この人の足りないところをすべてカバーするためにも十字架にかかって復活なさったのです。イエス様が命を捨てたほど価値ある方を自分の基準で滅ぼしてはならないと。

このように対立する主張がある場合もそうですが、別の場合もあります。クリスチャン生活が長くなると、「クリスチャンとはこうあるべき」というイメージが出来てきます。それは自然なことですが、自分のイメージで他の人を裁くということもあります。

たくさん献金している人が持ち上げられ、そうでない人が肩身の狭い思いをするということや、一生懸命伝道する人が、伝道の得意でない人を裁くというようなことが、これまでの教会の歴史の中でなかった訳ではありません。あの人は信仰的、あの人は信仰的でない、あるいは、あの人は霊的、あの人は霊的でない、などというような、人を裁く言葉、今日のイエス様の言葉と正反対の言葉を聞くことがないとは言えません。私も若い時、そのようなことを言う人々のグループにいたことがあります。ある意味で熱心であればあるほど、そのようになる傾向があります。

しかし、このキリストの平和教会では決してそのような言葉が聞かれてはなりません。言ってはなりません。私たちは、人の言葉ではなく、イエス様の言葉に従うものでありたいのです。

また、実際の社会生活においても、いろいろと人を批判したくなる状況に私たちは毎日のように遭遇します。そのような中にあっても、私たちは人を批判しないことによって、むしろ、その人たちのために祈ることによって、世の光、地の塩になって行きたいのです。イエス様は、そのことを私たちに期待しておられます。

では、人は成長しなくても良いのかと訝る人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。成長させるのは、神様なのです。人ではありません。イエス様は、人の内的な成長のメカニズムを次のように教えておられます。

マルコによる福音書4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

ここで、土というのは人のこと。ヘブライ語で土はアダマー、人はアダムと言います。人は土の塵で造られているからです。また、種とは神の言葉、聖書の言葉のことを意味します。また、実というのは、聖書では聖霊の実と言って、イエス様のような人格が私たちの人格の中に形作られることを言います。ガラテヤの信徒への手紙の中に次のようにあります。

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

イエス様がここで言っておられるのは、人の心の中に聖書の言葉が蒔かれると、それは夜昼寝起きしている間に、芽を出して成長する。そして、その中で発芽し、根を伸ばし、双葉から、大きな葉へ、茎が伸びて、つぼみができ、花を咲かせていく。一気に実がなるなどということはない。少しずつ、少しずつ成長して、やがてイエス様に似た人格が私たちの中に結実する。それが、外からの働きかけなしに、ひとりでに行われると言っているのです。「ひとりでに」と訳してある言葉は、オートマトスですが、これは、外からの働きかけなしにという意味です。人に言われてではない。強制されてでもない。人の心と聖書の言葉は、土と種のように理想的な関係です。土のために種があり、種のために土があるように、神様の言葉のために人の心があり、人の心のために神様の言葉がある。神様は、私たちの心をこのように創造してくださっている。やがてひとりでにイエス様の姿が結実するようなものとして、私たちの心を造って下さっているのです。神様は、その成長の過程を、毎日見守り、人の目には見えないような、毎日の成長をみて、喜んでくださっている。豊かな実がなるまで、決してあせらず、せかさず、見守り、待って下さっています。

だから、私たちも信頼し、希望を喜びをもって、待とうではありませんか。内的な生活や信仰生活については、人からの強い指導や強制は、決して良い結果をもたらしません。人から強く指導されている時や、強制されている間は、成長しているような気持ちになっても、その人がいなくなったり、指導がなくなったりすると、一方に引っ張られていた振り子が反対側に振れるように、精神生活がガタガタになってしまうのです。中には大きな罪を犯してしまう場合もあります。それでは真の意味での成長とは言えません。

聖書の言葉、神の言葉だけがイエス様の姿を私たちの中に結実していくのです。だから、私たちは、そのことに信頼したい。一人一人の心の中に蒔かれている種を大切にしよう。あの人の心の中に蒔かれている聖書のことばに信頼しよう。私の心の中に蒔かれている聖書のことばに信頼しよう。そして、神様が私たちをイエス様の姿を結実させることができるものとして創造してくださっていることに信頼し、希望を告白しましょう。時間はかかるかもしれませんが、いつか必ずイエス様の姿が結実すると。

イエス様は言われます。「人を裁くな。自分も裁かれないためである。」あなたを命がけで弁護し、私を命がけで弁護し、あなたの味方になり、私の味方になられる方が、あの方をも命がけで弁護し、あの方の味方でもあられるのです。イエス様は、裁かない。私も裁かない。あなたも裁かない。あの方も裁かないのです。十字架にかけられたイエス様が祈っておられるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。イエス様はすべてを生かす。すべてを生かすのがイエス様の十字架であり、復活なのです。

イエス様は今も私たちに語っておられます。「すべてを生かすわたしの十字架の血を受けよ」と。すべてを赦しすべてを生かすイエス様の十字架の血をわたしたちが受け、わたしたちも赦すもの、裁かない者となっていく時、私たちの周囲にキリストの平和が実現していくのです。

イエス様の言葉「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

祈りましょう。

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