「マタイの福音書」連続講解説教

見よ!あなたの王を

マタイの福音書第27章27節〜56節
岩本遠億牧師
2021年8月22日

“それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。”
マタイの福音書 27章27~56節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イエスの十字架刑の箇所
ここのテーマ=「イエスはイスラエル(ユダヤ人)の王」
         「イエスは神の子」

聖書は、イエスの肉体的苦しみについては何も語らない。

×イエスの肉体の苦しみが私たちに救いをもたらす。
×十字架のイエスの肉体的苦しみを思い、感傷的な気持ちになることが私たちの救い。

○イエスがイスラエルの王(=全人類の王)、神の子であることが私たちの救いなのである。

ローマ総督の兵士による愚弄、嘲弄
「ユダヤ人の王」を嘲る

王に見立てた格好をさせる
緋色のローブ(兵士のもの)←ローマ皇帝は紫のローブ
茨(棘の長さ10cm)の王冠←ローマ皇帝は金の王冠
葦の棒←ローマ皇帝は金の笏
跪いて見せる
葦の棒で頭をたたく

道行く人々による愚弄、嘲弄
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

ユダヤ人指導者たちによる愚弄、嘲弄
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

共に十字架にかけられた者たち(ローマに対する反逆罪、強盗=反逆者の意味で用いられている)による罵り。

悪魔に支配されている者たちによる「ユダヤ人の王」否定、「神の子」否定
      ↓
イエスが「イスラエルの王」「神の子」であることを示す。

なぜイエスは何の反応もしないのか?
→イエスは悪魔と戦っている。人は戦いの相手ではない。

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」

エリ=我が神
エリヤ=旧約の大預言者、メシア到来の前に現れるとの預言
「エリヤを呼んでいる」・・・ヘブライ語とアラム語を理解しないローマ兵士による勘違い

詩篇第22篇 
前半:神の助けがない中で攻撃を受ける苦しみ
後半:喜びと感謝の叫び

イエスが神を呼ぶときの言葉=アバ(お父さん)

イエスはここで神に恨み言を言っているのではない。神に見捨てられた絶望を吐露しているのもない。詩篇22篇を朗詠している。死によって中断させられたか、あるいは、最初だけが記録されたか。

イエスの戦い=父なる神様の助けがない中、ただ一人で悪魔と戦う。

この戦いを戦っていること。これが詩篇22篇の預言の成就であることを明らかにしている。

イエスがこの戦いの意味と目的を明確に意識してこられたことを詩篇22篇冒頭の朗詠は示す。

何の罪も犯さなかった方が、誰も責めず、誰も否定せず、反論せず、自己弁護せず、自己主張せず、鎮痛のぶどう酒を受けず、ただ悪魔の全ての攻撃を受け切った。

「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」

イエスの死は十字架による刑死ではなかった。
通常は、数日間十字架上に晒され、渇きと痛みで消耗して死ぬ。

イエスが十字架上におられたのは長くて6時間。

イエスご自身がご自分の霊を父なる神にお返しになった。

十字架をコントロールしていたのは悪魔ではない。
王であるイエス・キリストが十字架をコントロールしていたのである。

ユダヤ人指導者たちによる裁判でも、ピラトによる裁判でも、十字架刑の執行においても、そこを支配していたのはイエス・キリスト。

全人類の王として悪魔に支配された者たち(彼らはイエスの敵ではない)の裁判を受け、十字架において悪魔の全ての攻撃を受け、屈しなかった王。

ご自分の意志で霊を父なる神にお返しになった。
→しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

ヘブル人への手紙 9章11~14節
 “しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋(ご自分の体)を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。”

百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

百人隊長とその部下
=ローマ皇帝を神の子と崇拝する者
→イエスの裁判以降、鞭打ちと十字架刑の全てを執行し、その全てを目撃した。
→「この方は本当に神の子であった」
=ローマ皇帝に勝る者、真の世界の王者であった。
=ローマ皇帝の神性を否定。
=イエス・キリストを最初に告白→義とされた。

マタイの福音書が明らかにするイエスの十字架
=イエスがただ一人で悪魔と戦って勝利した全世界の王、十字架の死をもコントロールして、罪の贖いを成し遂げた永遠の大祭司である。

キリストの血の力
・悪魔に完全勝利した王の血
・十字架の死をもコントロールし、罪の贖いを成し遂げた永遠の大祭司の血
→この血を私たちに振りかけてくださる。注いでくださる。
→私たちを永遠に聖める

1.み恵みあふるる インマヌエルの
  血潮の泉に 罪を洗え
  十字架の上なる 盗人すら
  この泉を汲み 喜びけり

2.我らも泉を 深く潜り
  紅(くれない)の罪を みな拭われん
  神の小羊の 流せる血の
  清むるちからは 限りあらじ

3.主に頼る民の みな等しく
  清めらるるまで 流れ絶えじ
  我生ける時も 死にてのちも
  インマヌエルの血を 讃え歌わん
                アーメン

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