「マタイの福音書」連続講解説教

誓ってはならない:神様の真実

マタイによる福音書5章33節から37節
岩本遠億牧師
2006年11月12日

5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

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マタイの福音書を連続で学んでいます。イエス様が山上の説教で語られた教えの多くは、それを表面的に読むならば、守るのが難しいと思えるようなものばかりです。しかし、イエス様は、私たちに果たすことのできない新しい律法を与えて、私たちの罪の意識を高めようとしておられるのではありません。私たちが表面的に律法を遵守して満足している段階から、さらに神様と私たちとのより祝福された関係とはどういうものなのかということを教えようとしておられるのです。

最初にイエス様は、「誓うな」と教えておられます。ただ、これを字義通りに取ると、私たちは社会生活に必要な契約を何もすることができなくなり、生きていくことができなくなります。「誓い」を破ったときには罰則が与えられることが明確に規定されている場合は、誓いが有効です。ですから、誓いが法的な拘束力を持つ場合は、誓いには意味があります。しかし、そうでない場合は、意味がないのです。当時、誓うということがあまりにも卑しめられていた状況があります。イエス様は、そのような無意味な誓いについて仰っているのです。

イエス様のこの言葉は、旧約聖書の中の律法を記したレビ記19:12、民数記30:3、申命記23:22-24のまとめです。レビ記には、次のようにあります。

レビ19:12 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

モーセの十戒に、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という規定がありますので、主の御名そのものを唱えて誓うということは行われていませんでした。そこで、では、誓いを果たさなければならないのは、何にかけて誓った時かという問題が論じられていました。イエス様ご自身がマタイによる福音書23章16節以下でご説明です。

マタイ23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。23:17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。23:18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。23:19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。23:21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。23:22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

また、このような議論があったということは、詭弁を弄して偽りの誓いをする人間がいたということを意味します。

イエス様は、言われます。何にかけても誓ってはならないと。むしろ、「然り。然り。否。否」とだけ言いなさいと。本当のことは本当。違うことは違うとだけ言いなさいと仰るのです。なぜかというと、神様は、私たちの言葉のすべて、言葉にならない心の中もすべてご存知だからです。私たちは、それが外に向けた誓いであろうとなかろうと、自分の言葉、心の中にある真実を神様は喜んでおられるのです。誓う、誓わないという以上に、神様の前で、また人に対して真実であれと教えておられるのです。

何故か、それは、神様ご自身が真実な方であり、ご自分の言葉に責任を持ってくださる方だからです。

イザヤ55:11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

イエス様は、自分の言葉に対して真実であれ、自分の心の思いに真実であれと仰います。神様が真実だからです。神様は、私たちに対する約束を決して取り消したりなさらないからです。だから、あなたもあなたの隣人に対して真実でありなさい。あなたの真実によってあなたの隣人が生かされるのですと。

また、できないことを無理してやろうとしてもいけないのです。できないことは「否。否」と言えばいいのです。できないからといって、神様は私たちを裁いたりなさいません。むしろ、できないのに、できる振りをして誓う。これは悪い者から出ると仰る。高慢があるからです。私たちは謙遜でありましょう。できないと思うとき、「できません。ごめんなさい」と言える謙遜な者でありましょう。

詩篇139:23 神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 139:24 御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。

私は、高校生のとき、阿蘇に集まったクリスチャンの友人たちと神様の働きのために自分を捧げる誓いをしました。しかし、私の足は躓くばかり、私の心は揺れ、私は、大学生のとき、信仰が分からなくなり、信仰を捨ててしまったのです。私の誓いは、もろくも崩れ去りました。私は、絶望し、病気にもなり、立ち上がることができなくなりました。そんな時、クリスチャンの友人がくれた手紙がきっかけで、私はもう一度神様の所に戻らなければならないと思いました。礼拝に出席するようになりましたが、信仰の喜びは帰ってきません。毎晩のように悪夢を見、体の調子も悪いし、ノイローゼ状態で、自分が信仰を持っているという自覚もありませんでした。

1981年の夏、当時属していた教団の夏の大会が水上温泉で行われ、私は何となく、参加を申し込み、熱を押して、電車に揺られて行きました。しかし、その水上の集会で、イエス様のほうから私のところにやってきてくださったのです。当時東京で牧会をしておられた先生が私の上の手を置いて、「天のお父様。この兄弟をその名前のように導いてください」と祈ってくださった。その時、圧倒的なイエス様の血潮、圧倒的なイエス様の御霊が私に注がれ、私は、まったく新しく造り変えられたのです。私は祈りました。「イエス様、エノクがあなたと共に歩んだように、私もあなたと共に生きる生涯でありたい。」

その後も、多くの失敗を繰り返しました。しかし、私を見捨てないイエス様がおられました。私がイエス様と共に歩いたのではなく、イエス様が私と共に歩いてくださったのです。私が倒れて歩けなくなったとき、背負ってくださったのです。

以前、自宅で教会をしていたこともありますが、自分の問題のため、閉鎖しなくてはならなくなりました。今、もう一度、このようにキリストの平和教会を始めることができました。これは、私が高校生のとき誓ったからでしょうか。絶対にそうではありません。イエス様が私と共にいてくださったからです。イエス様が、私に謙遜を教え、愛とは何かを教え、私を作り変えて、ご自分の業を行おうとしておられるのです。

ピリピ2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(新共同訳)

2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)

私は、救われていました。しかし、謙遜を知りませんでした。イエス様に愛されていることは知っていました。イエス様を感じながら生きていました。しかし、愛するとはどういうことかを知らなかったのです。しかし、失敗をとおし、挫折を通し、またクリスチャンの先輩や友人を通し、毎日「元気の出る聖書の言葉」を書き続けることをとおして、また、こんな私を信頼してくださる方々を通して、決して見捨てない神様の方法を知るようになりました。周りにいてくださる方々や、家族を大切にすることの意味を知るようになってきたのです。

私は、誓ったからこの働きをしているのではありません。イエス様が真実だったからです。イエス様の真実が私たちの中に実現して行き、私たちの誓いではなく、イエス様の約束が私たちの中に、私たちの外に実現していくのです。

イエス様は、「誓ってはならない。『然り、然り。否、否』とだけ言いなさい」と言われました。神様の言葉が常に真実であるように、あなた方の言葉も真実であれ。神様の言葉が一人ひとりを生かすように、あなたの言葉も人を生かすものであれと仰っているのです。そして、私たちは、自分というものを深く知るようになると、また誓うとはどういうことなのかということを知ると、「神かけて誓う」などということが決してできないことがわかっていきます。「神かけて誓う」とは、誓いを破ったら、神に滅ぼされても良いということです。私たちは、そのような言葉を口にすることができるようなものではありません。

ペテロは、イエス様が十字架にかけられるために捕らえられる前、「あなたとご一緒に死にます」と言いました。しかし、イエス様は、鶏が鳴く前に彼がイエス様を3度否定することを予告されます。イエス様がカヤパの官邸に連行されたとき、ペテロもこっそりと着いていきまますが、人々に「あなたもナザレ人イエスと一緒だった」と言われたとき、「あなたが何を言っているのか分からない」といって否定するのです。そして、とうとう3度目には「もし私があのイエスという男と関係があるのなら、神が私を幾重にも罰してくださるように」という呪いを込めた誓いの言葉を発してしまうのです。その時、鶏が鳴きました。

イエス様のために命を捨てる覚悟だった。その思いは偽りではありませんでした。しかし、自分も捕まりそうになったとき、神かけてイエス様を否定する誓いをしてしまったのです。彼は、自分の存在が崩れていく経験をしました。そして、イエス様との3年間はなかったことにして、ガリラヤでの漁師生活に戻るのです。

しかし、復活したイエス様は彼をガリラヤ湖で待っておられたのです。彼にご自身の真実を示し、言われました「ヨハネの子シモン、この人たちがわたしを愛している以上に、わたしを愛しているか」と。ペテロは答えます。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「愛しています」ではなく、「あなたがご存知です」と答えたのです。イエス様は3度お聞きになりました。「わたしを愛しているか」と。ペテロは答えます。「主よ。あなたは全てをご存知です」と。

誓うことによってではなく、「主よ。あなたが全てをご存知です。わたしのあなたに対する愛も、弱さも、全てをあなたがご存知なのです」と告白するところに、ペテロとイエス様との新しい関係が始まったのです。イエス様は言われました。「わたしの羊を養いなさい」「あなたは、わたしに従いなさい」と。

私たちも、何かをイエス様に約束することも、誓うこともできない存在です。イエス様に向かって、「主よ、あなたを愛しています」とも言えないかもしれない。しかし、そんなわたしたちにイエス様は言われるのです。「愛しているか」と。わたしたちの答えは、「主よ。あなたがご存知です。あなたは、わたしの全てを知っておられます。」これで十分なのです。イエス様の真実がわたしたちを生かすからです。

祈りましょう。

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