「マタイの福音書」連続講解説教

誰のための人生

マタイの福音書19章1節から12節
岩本遠億牧師
2008年4月13日

19:1 イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。 19:2 すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。 19:3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
19:7 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」 19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。 19:9 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」 19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。 19:12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」

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マタイの福音書を学び続けてきましたが、ついにイエス様がガリラヤの地を去って、エルサレムに向かっていかれる19章に入りました。この旅はゆっくりしたものであったようですが、そこでいろいろな人々がイエス様にアプローチします。試そうと思って質問する者、祝福を求める者、永遠の命を求める者。このようにそのような人たちが、イエス様の様々な側面に働きかけます。
加藤常明先生という有名な説教者、神学者がいますが、その先生のマタイの福音書の説教を読むと、面白いことが書いてありました。このようにイエス様にアプローチする人たちはイエス様を試している。イエスという男が律法に関してどのような考えを持っているか試す、あるいは、祝福を与えることができるか試す。また、永遠の命を求める心に応えることができるか試す。しかし、実は試した人間自身が、自分の本性が明らかにされる。人の目には良く見えるような衣を着て自分を隠していても、イエス様にアプローチすると、そのようなものが役に立たなくなる。自分自身が試される。自分自身に向き合わせるような方がイエス様なのだと。
確かに、そうだと思います。イエス様にアプローチするとは、私たち自身が自分の心を探られることです。自分の罪を知ります。しかし、それだけではない。自分と向き合わなければならない私たちを支えてくださる方がイエス様ご自身であるのです。伊藤サアナ先生というルーテル教会の先生がいますが、彼女は難病を患い、自分で自分の世話をすることもできず、話すことも自由にできない状態の中で、教会の副牧師に任ぜられました。伊藤先生の語る言葉の中に、「イエス様は、私が向き合わなければならない自分自身よりもさらに私に近いところにいてくださり、私を支えてくださる方だ」という言葉がありました。向き合うべき私自身よりも近くにいてくださる方、そこで私を支えてくださる方、この方がイエス様なのだと告白しておられます。
今日、私たちに与えられている聖書の箇所は、それを聞く人によっては、胸の痛む言葉だと思います。期待と希望をもって結婚したのに、離婚せざるを得なかった方々にとって、「離婚するな」と言われるイエス様の言葉は厳しく聞こえるでしょう。しかし、そのような中で、向き合うべき自分自身よりも更に近いところで語られるイエス様の言葉に耳を傾けたいと思うのです。イエス様は、何を語っておられるのか。イエス様は、私たちを裁いておられるのではありません。
聖書の言葉は、前後の文脈や時代背景を無視して解釈すると極端な理解に繋がるので、そのようなことを注意しながら読む必要があります。

「19:3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。』」
当時、ユダヤの世界では、男性には女性を離婚する権利がありましたが、女性にはその権利はありませんでした。ですから、ここでは男性の都合による一方的な離婚ということが問題になっています。
申命記24章に「24:1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせる」という箇所がありますが、恥ずべきこととは、何かということが議論されていました。そのことをもとに、イエス様を陥れようとしていたのです。
当時の女性は社会立場がないに等しく、奴隷や家畜のように、少しでも気に入らなければ簡単に捨てられていたという状況がありました。例えば、料理を失敗したとか、夫の知らない男と口をきいたというだけで、簡単に離婚することができた。そのようにして良いと教えるパリサイ人の一派がありました。もう一つの派では、妻が不品行の罪を犯した場合は離婚しなければならないが、それ以外の離婚は許されないと考えていました。そして、ユダヤの男性のほとんど全員が、妻を簡単に離縁できるという立場を支持していたので、イエス様から厳格な律法理解の答えを引き出すことで、イエス様に対する民衆の反発を引き起こそうとする意図がこの質問にはあったようです。
このような悪意のある質問に対して、イエス様は、創造者の御心、人が創造された時の本来的な姿という観点から、真理をお語りになります。
19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
男と女、夫と妻で一つなのだというのです。一つになるために神様が創造なさった。出会いのきっかけはいろいろあるだろう。しかし、一つとなるために創造し、二人を結び合わせたのは神様ご自身だ。夫は自分自身のものではなく、妻も自分自身のものではない。神が結び合わせたものを、人は引き離してはならない。別れてはならないと言うのです。
当時の女性は、社会的地位がないに等しく、離婚されたら生きていくことができません。ですから捨てられたら、次の結婚相手を探すことになります。気に入らないところがあるからといって妻を離別する夫は、妻に姦淫の罪を犯させることになり、その妻を娶る者も姦淫の罪を犯すことになるというイエス様の言葉は、立場の弱かった女性の立場を擁護するものでありました。男と女は、神様の前に等しいのだ。一方が他方を一方的に捨てるようなことがあってはならない。二人は一つなのだ。一つのものを引き離すことはできないのだ。そんなことをしたら、その存在が引き裂かれ、倒れてしまう。そんなことをあなたの妻に対して行ってはならないというのがイエス様のお答えだったのです。

すると、それを聞いた弟子たちがボソッと言うのです。「そんなことなら結婚しないほうがましだ」と。イエス様の弟子たちがこんなことを言うのですから、当時どれほど女性が卑しめられ、蔑まれていたかが想像できます。当時の男性は、経済力があれば二人でも三人でも好きなだけ女性を妻にし、気に入らなくなったら簡単に捨てていました。そういう権利を持つことができないのなら結婚なんかしないほうがましだというのです。
今の日本では、こんなことはありませんが、でも、離婚することはできないと言われたら、結婚などという冒険はしないほうが良いと思う人はいるかもれません。
それに対してイエス様はお答えになりました。
19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。 19:12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」
「結婚しないほうがましだ」と言った弟子たちに言われました。結婚しないで生きるということは、神様からギフトとして頂く事なのだ。それが与えられた者だけができると。どういうことでしょうか。
ここで「独身者」と訳されている言葉は、「去勢された者」というのが元々の意味です。生まれた時から結婚できない体で生まれて来た者がいる。神様がそれを与えたからだというのです。また、人から去勢された宦官として生きなければならない者もいる。それも神様がそのような人生を与えたのだ。そして、天の御国のために、自分から結婚しない道を選んだ者もいる。この最後の部分は、自分で自分を去勢したという意味ではなく、結婚しない道を選ぶというのが一般の理解です。それも神様が賜物として与えたものなのだとイエス様は仰る。
だが、これは当時のユダヤ社会においては驚くべき発言です。生まれながら結婚できない身体の人や宦官のように去勢された人は、主の会衆に加わることができなかったからです。申命記にそのように規定されています。礼拝できない者として差別され、軽蔑されていました。また結婚しない男は議員になる資格を得ることができなかった。結婚していないと社会的に認められなかったのです。しかし、イエス様もついに結婚なさらず、そのような人生を選び取ってくださった。そのような人生、人が差別し軽蔑するような人生を神様から与えられたギフトであるとイエス様は宣言なさった。神様は、これらの人々にしか成し遂げることができない尊い人生を与えておられるのです。イエス様はそう宣言しておられる。人に蔑まれるような人生、しかし、イエス様は「尊い人生なのだ。尊い神様からのギフトだ」とおっしゃっている。

イエス様は、何を言おうとしておられるのでしょうか。人間は、自分の人生を自分の思い通りに生きているのではないと仰っているのです。私たちは、自分に関することで、最も重要と思えることに関しては、自分で決定することができません。
自分が男に生まれるか女に生まれるか自分で選ぶことができず、自分の親を選ぶこともできませんでした。自分の名前、容姿、体つき、健康、基本的な性格、生まれた国と時代、自分が自分であることの基本となっているこれら全てのことを私たちは自分で選ぶことも決定することもできなかったのです。
イエス様が去勢された者たちと仰った時、それらの人たちも、まさにそのような人たちでした。天の御国のために自分ら結婚の道を選ばなかった人たちでさえ、神様からの、言うならば、強制的とも言うべき強い促しと召命によってそのようにさせられているのです。
何故、私たちは自分の最も大切なことに関して自分の思い通りにすることができないのか。車や家、自分の部屋、髪型などは、自分の好きなものを買い、好きなように変えることができます。しかし、自分の本質に関わるもの、最も大切なことに関しては、私たちは、それを取り替えることも、変更することもできない。自分が自分自身の所有物ではないからです。
結婚に関しても同じなのだとイエス様は仰っている。あなたの妻は、あなたの所有物ではないと仰っているのです。あなたの自由にはできないのだと。神様から与えられた賜物なのだ。あなたが命をかけて守り、命を懸けて支え、命を懸けて愛する世界でただ一人の、あなたにとって最も大切なものなのだと。あなたは、命を懸けて自分の妻を愛せよと仰っている。また妻は、自分の全存在をかけて夫を生かし、これに従えと。

私は、このメッセージを準備しながら、一人の若い伝道者のことを思い出していました。「天の御国のため、自ら進んで独身者となったものもいる」という言葉を読んで思い出したのです。その人は、高知出身の吉井純男先生と言います。私はお会いしたことはありません。もう50年以上前に亡くなった方ですが、27年間の生涯を精一杯生き、ついに結婚することなく、伝道者としての生涯を全うしました。
若い時から無教会に触れて、信仰を持ちましたが、熊本で始まった無教会の中の聖霊運動に感化を受け、高知から道を求めて熊本に出てきました。そこで指導者の先生から薫陶を受け、聖霊に満たされて、出身地である高知に伝道に出て行きました。しかし、戦後のことで十分な栄養を取ることもできず、身体の弱い吉井先生は肺病を患っていました。自分の身体を顧みずに、あまりにも一生懸命伝道している姿を伝え聞いた熊本の先生が吉井先生を休養のために熊本に呼び返しました。
しかし、熊本でもじっと休んだりせず、結核の治療薬で耳の聞こえなくなった学生のために学校に同行し、授業の筆記を取ってやったり、自分も肺病なのに、肺病の人を自分の借りている家で世話をしたり、ギリシャ語研究会を主催して聖書を学ぶ人たちのグループを作ったりしました。
吉井先生は、熊本でもそのように人々を支えていましたが、高知の人々からは「早く帰ってきて欲しい」との手紙が届きます。そのことを思うと居ても立ってもおられず、冬の寒い最中に、水前寺公園のプールに入って水垢離をとり、冷たい水の中で、高知の愛する人たちのために祈ったというのです。それを伝え聞いた先生がすぐに中止を勧告しましたが、吉井先生は聞かず、次の日も水前寺公園のプールに入り、そこで倒れてしまった。心配して見に来た信者の方に助けられて一命は取り留めましたが、熊本の人々、高知の人々への愛は止まることを知りません。
ついに高知に帰る許可が下りて、彼は帰りますが、渇き、弱ってしまっている人たちのところを連日訪れては聖書を語り、病人のために祈り続け、祈りによって癒していったといいます。しかし、彼は、高知に帰って間もなく、ある信者の家で持たれた家庭集会の後、倒れ、そのままその信者の方の家で動くことができなくなり、入院の準備をしていましたが、そのまま天に帰ったのです。暗誦していたヨハネの福音書を語りながら息を引き取りました。
この人が、熊本に帰っていたとき、長崎の私の祖父の家を訪ねてくれたそうです。そこに私の曾祖母が同居していましたが、70年近く熱心な浄土真宗の信者でした。ところが吉井先生が曾祖母に向かって、「おばあちゃん、神様は愛ですね」と言ったその一言で、彼女は浄土真宗を止め、クリスチャンになる決心をしたといいます。そのような圧倒的な神様の臨在に満たされた人でした。彼の追悼文集には、彼に一度しか会っていない人が何人も追悼文を寄せています。たった一度の出会いで人生が変わるほどの、神様の輝き、イエス様の香りに満ちた人だったのです。
彼は、結婚せず、ボロボロになっても自分の身体と心を愛する者たちのために差し出しました。彼は伝道しなかったら死ぬことはなかった。愛さなければ死ぬことはなかったのです。伝道し、愛する者を生かすため、イエス様に近づくことを求めました。清くあることを必死で求め、主の御霊だけによって生きることだけを求めた人生でした。私は、高校生の時、家にあった吉井先生の追悼文集を読んで強い衝撃を受けました。そして、いつか吉井先生のようにと思いながら高校生活を送り、大学生になりました。しかし、その思いはいつの間にか消えていました。
そして、このメッセージを準備しながら、会ったこともない吉井先生のことを思い出した。そして、自分は何か、とても大切なものを置き忘れてきたと思ったのです。
それは、自分は自分のものではないということです。聖書の言葉を語りながら生きていますから、そのことは頭や感情では分かっていました。しかし、頭や感情で分かっていることと、この実存が本当にそのように生きることとは全く違ったことです。本当に自分自身を自分のものとしてではなく生きてきたか。神様のものとして生きてきたか。
そんな私に、そして皆さんお一人お一人に、主が語っておられるのです「お前は、お前のものではない。お前は私のものだ。お前が愛する者たちも私のものだ。わたしがお前に託した者たちがいる。命を懸けてこれを愛せよ。そのために、清さを求めよ、聖霊に満たされることを求めよ」と。

イエス様は、この箇所で、離婚せざるを得なかった方々を責めておられるのではありません。むしろ、包んで一緒に泣いて下さっている。そして、お一人お一人の呻きの声に耳を傾け、「うん、うん」と言って聞いてくださっている。
しかし、イエス様は永遠に聞いておられるのではない。イエス様は十字架に架かられたからです。十字架に血を流し、それを私たちに注ぐことによって癒し、生かそうとしておられるのです。止まることを知らない私たちの苦しみと呻きの繰り言。しかし、それを止めるものがある。イエス様が十字架で流された血です。この血潮を受ける時に私たちの呻きが賛美に変えられるのです。私たちは新しく造り変えられるからです。イエス様は言っておられる。「わたしの十字架を見上げよ。わたしの十字架の血を受けよ」と。
自分のための人生ではない。神様のものとしての人生が始まるのです。イエス様の十字架の血が、私たちに新しい人生を与える。神様のものとしての人生を創造するのです。パウロは告白しました。
「14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」ローマ人への手紙14章7-8
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