「マタイの福音書」連続講解説教

預言者よりすぐれた者

マタイの福音書11章7節~19節
岩本遠億牧師
2007年8月5日

11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。 11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。 11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。 11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。 11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。 11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。 11:15 耳のある者は聞きなさい。 11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、 11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』 11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

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昨年の8月6日にキリストの平和教会としての初めての礼拝を御茶ノ水クリスチャンセンターの1室で始め、今日が1年目の礼拝となります。あの日の礼拝は、私を含め3名の出席でした。今も少人数ですが、主は少しずつ、共に礼拝を捧げ、同じ聖書の言葉によって養われる方々を集めてくださっていることを心から感謝します。この人数でも1年前にはお会いしたことのなかった方々のほうが遥かに多いのです。そして、足りないところ、不足するものだらけで、何も持っていない教会ですのに、聖書の言葉を求めて集まり、祈り合い、励まし合ってくださった皆様、私のために祈ってくださったお一人お一人に心から感謝いたします。

今日私たちに与えられている聖書の箇所は、イエス様がバプテスマのヨハネについてお語りになる箇所です。先週の箇所では、ヘロデ王に捕らえられ牢に入れられているヨハネが、弟子たちをイエス様のところに遣わし、「来るべき方は、あなたですか。それとも他の人を待つべきですか」と問わせたのに対し、イエス様が弟子たちに「あなた方の聞いていること、見ているものを伝えよ」とお答えになり、「幸いなるかな!わたしに躓かない人」とヨハネに対する伝言を託されたところを見ました。イエス様の宣教の言葉、祝福の言葉を聞くことがなかったヨハネに、神の国の祝福の言葉を与え、神がやって来たことの証である癒しの有様をヨハネに伝えさせたのです。牢の中で弱っているヨハネ、いつ殺されるかわからないような状況の中で呻いていたヨハネに福音の言葉を伝えることで、その存在に光を照らそうとなさったのがイエス様だったとわたしたちは学びました。

今日の箇所は、それに続く箇所です。イエス様は、ヨハネの弟子たちが帰ると、ヨハネについて群衆に語られます。群集は興味津々、耳をそばだててその会話を聞いていたことでしょう。もしイエス様が「そうだ。わたしが来るべき者、キリストである」とお答えになったら、ローマの圧制に苦しんでいた群衆は蜂起して、イエス様をイスラエル王として担ぎ上げようとしたかもしれません。イエス様は、そのような状況になることを避けるため、この質問にイエスともノーともお答えになりませんでした。イエス様の福音の言葉と癒しの有様をヨハネに伝えさせれば、ご自分がキリストだということがヨハネには分かるとお考えだったのです。ですから、そのようにお答えになりました。

一方、群集たちの中には、ヨハネがキリストなのではないかと思っていた人もいました。また、牢に捕らえられたヨハネがどうなるか心配していた人もいたことでしょう。ヨハネとは一体何者だったのか、キリストの到来を告げるエリヤなのか。イエス様との関係は一体どうなっているのか。群集はそれを知りたがっていました。ですから、イエス様は語られるのです。

「あなたがたは、何を見に、荒野に行ったのか」と。イエス様について来ていた群衆の多くは、恐らくヨハネのところでバプテスマを受けていたのでしょう。仕事もそっちのけで、水もなく、食料も手に入らない荒野に出て行ったのには、余程の理由があったはずです。何を見に行ったのか。イエス様はお続けになります。「風に揺らぐ葦か。」人のいろいろな声に自分を失ってしまい、右往左往するような人間か、という意味です。いや、そうではないだろう。ヨハネは、そのように芯のない人間ではなかった。あるいは、物質的な富を求め、着飾り、欲望を満たすことを第一にする人間か。いや、そうでもない。そういう人間は、宮殿にいる。

では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、預言者より優れたものだ。あなた方が荒野に見に行ったものは、まさに預言者よりすぐれた者、女が産んだ最大の人物だったと。それは、イエス様の来られる道を備えたからです。「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」と言われています。ヨハネの宣教は神の国の到来、神の支配の到来を現実のものとして告げ知らせるものだった。ヨハネは、人間には赦されなければならない罪がある、解決されなければならない罪がある、その人の罪を根本的に解決する方がすぐにやってくる、人の存在を全く新たにする方がやってくる、それが神の国の到来だと言って、人の心を整えたのです。

イエス様は、ヨハネの時から、神の国は激しく攻められているとおっしゃいました。この「激しく攻められている」と訳されている言葉には、別の解釈もあって、「ずっと激しくやって来ている」とも読める言葉です。つまり、「神の国が近づいたぞ」というヨハネの言葉を聞いて、罪を解決されたいと願う人々が神の国を激しく求めているとも解釈できるし、いや、それ以上に、神の国、神様の恵みの支配が、この地上に激しくやって来ているのだ。神の国がやって来た。神様の恵みの支配がやって来た、だから人々がそれを求めるようになった。今まで嘗てこのようなことは歴史上存在しない時がやってきたのだ。

皆さん、どうでしょうか。神の国、神の恵みの支配と言われても、ピンと来ないとお感じでしょうか。神の国、神の恵みの支配とは何か。それは、罪が赦されると言うことです。人は、自分の罪によって滅んで行かなければならないそういう存在です。神様を神様とも思わない。欲望に従って生き、心の悪を指摘されても、かえって逆恨みするような存在、それが人ではないでしょうか。自分で物事の良し悪しを決めて、自分の悪に目をつぶり、人を裁く者、それが人です。そんな滅ぶべき者に向かって、「あなたの罪は赦されています」と宣言する。それが、只の気休めではなく、現実的な力として罪を赦す神様の恵みが私たちを支配する。それが神の国なのです。

何度もお話していますが、私はキリスト伝道者の家に生まれ、小さい時から信仰をもって育ちました。しかし、大学生になった時、信仰の基準に従って正しく生きなければならないことに反発を感じるようになりました。聖書の基準、神様の御心に従うことではなく、自分の欲望を基準にして、良し悪しを決定して生きたいと思いました。そのために地獄に行かなければならないのならそれでも良いと。それが一個の自立した存在だと。そして、神様を否定し、愛を否定し、人を否定し、信仰を捨てました。何という罪でしょう。神様に対する反逆でしょう。しかし、わたしは毎晩のように悪夢を見るようになって、眠れなくなりました。自分が虚無の中に死んで行くという夢です。生きる意味も希望も喜びも全てを失い、ただ恐怖と虚しさの中で、毎晩、酒を飲みながら夜の長い時間を過ごすようになりました。そして、心も体も病んでいきました。胸に二つの影ができるような病気になり、道を歩いていても気を失いそうになったりします。ただ、絶望が私の存在を押しつぶそうとしていました。地獄に行かなければそれで良いと嘯いていたのは一体誰だったのでしょう。全く不遜で高慢で自己憐憫の塊になっているのが私でした。そんな時、私を神様のところに引き戻してくれる人がいました。私は、1981年の夏、水上温泉で行われた大きな集会に行き、そこでイエス様に出会いました。イエス様は、私の罪を指摘なさいませんでした。罪をお責めになりませんでした。ただ、「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という聖書の言葉を与え、私の罪が全て赦されていること、これからも赦され続けて行くことを、私の存在の全てに鳴り響く大鐘の響きのように、語りかけてくださったのです。肺にあった二つの影もその場で癒され、跡形もなく消えてなくなりました。その後、あの悪夢は二度と私のところにやってこなくなりました。私は、全く新しく作り変えられたのです。

神の国の到来、神の恵みの支配とは、「あなたの罪は赦されている」と宣言し、それを現実の力として得させる力なのです。福音とは、全て信じるものに救いを得させる神の力であるとパウロは告白しました(ローマ1:16)。どうぞ、皆さん、心に覚えていただきたい。あなたの罪は赦されているのです。あなたの罪は、イエス様の十字架の購いによって、全て、完全に赦されたのです。あなたは、神様の恵みの支配の中にいるのです。神の国が激しく、私たちのところにやって来たからです。

だから、イエス様は言われるのです。神の国を求めなさいと。私たちも求めようではありませんか。祈ろうではありませんか。主よ、罪を赦してくださいと。あなたのところに帰らせてくださいと。

イエス様は、更に言葉を継いでお語りになります。「11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。 11:15 耳のある者は聞きなさい。」エリヤというのは、旧約の預言者で、全イスラエルが偶像礼拝と極度の不道徳に陥っている時に、一人で大宗教改革を断行した人です。人々の心を神様に立ち帰らせた人です。旧約聖書の最後にマラキ書という預言者の書がありますが、その最後に、次のような言葉があります。「4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

マラキは、神様の全く新しい時代がやってくる前に預言者エリヤがもう一度やって来て、人々の心を神様に立ち帰らせると預言しました。「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」というのは、人間関係の最も基本である親子の関係にさえ、反目と断絶があるような状況、人が自分を良しとし、自分のことだけを考えている状態を愛によって回復させる働きだと言っています。

ここでイエス様が、「もしあなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです」と言って、バプテスマのヨハネこそ、神の国の到来を準備するエリヤだった。旧約聖書の預言はここに実現したのだと述べておられます。注意しなければなりませんが、イエス様は、ヨハネはエリヤの生まれ変わりだとか、前世云々というようなことをおっしゃっているのではありません。「あなたがたが進んで受け入れるなら」と仰っているように、ヨハネこそ、預言されたエリヤの働きを行うものであって、それは、聞く者が信仰によって受け止めることなのだ。ヨハネの働きの偉大さは、信仰の耳によってしか聞き分けることができないということです。そして、信仰によってヨハネの働きをエリヤの働きと看做すならば、その後に来ているイエス様ご自身を誰と言うのか、それも信仰によってのみ告白することなのだとイエス様は言っておられるのです。

しかし、この時代と宗教家たちはヨハネを受け入れませんでした。このような偉大な働きをし、人々に罪の赦しを説き、イエス様の道備えをしたヨハネは時代の反発を食らいました。イエス様は、そのことを痛んでおられる。

「11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、 11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』 11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

イエス様は、その時代、そして、この時代のことを、わらべ歌に擬えて語っておられます。「笛吹けど踊らず」という言葉がありますが、これは、この聖書の言葉から来た諺です。元々、「結婚式ごっこをしようと言ったのに、無視された。お葬式ごっこをしようと言ったのに無視された」という童歌があったのではないかと言われています。

イエス様は言われます。人々はヨハネに「そんなに断食ばかりしているのは悪霊につかれているからだ。罪を悔い改めよとばかり言わずに、もっと心地よい話をしてくれ」と言ったが、ヨハネは人の言葉に耳を貸さずに、「罪を悔い改め、赦して頂きなさい」と迫った。また、イエス様には、「そんなに罪人たちに良い顔をしてどうするつもりだ。もっと律法主義に従って厳しく教えなければだめだ」と求めたけれども、イエス様はそれに耳を貸さず、罪人と呼ばれる人々と飲んだり食べたりして楽しみ、神様の恵みの喜びを伝えたというのです。

ヨハネの伝えた悔い改めのバプテスマによる罪の赦し教えと、イエス様による十字架の贖いによる罪の赦しは質的に異なるものですが、しかしイエス様はヨハネの働きを大いに評価しておられたのです。それは、罪は解決されなければならないものだということを明確に人々に教え、罪の赦しついての渇望を人々の中に起こさせ、イエス様を迎える準備をさせたからです。しかし、時代はヨハネを受け入れなかった。ヨハネは捕らえられ、殺されていく。イエス様は、痛み、嘆いておられます。

人々、いや、私たちは、自分の思い通りの方法で神様に救ってもらいたいと思う、そういう傾向があります。「別に法律破っているわけでもないし、何でそれで駄目なんですか」と言いたくなる。しかし、私たちの中には、心の中の罪、心の中の汚れがある。また、律法によって教えられなければ、心を正すことができない。そういう神様に背く本来的な罪があることから目をそらそうとします。これだけ献金したから、これだけ布教活動したから、また奉仕したから、また、1年間欠かさずに礼拝に来たから、それで救われることにしてください。それが、私たち人間の持っている心の傾向です。

しかし、イエス様は、人間が自分で作った基準で救われるのではなく、神様の方法で赦され、救われるのだと仰っているのです。罪の赦しと救いを得させる神の国がやって来た。人の行いによるのでもなく。決心によるのでもない。ただ、圧倒的な権威と力によって、イエス様の十字架の贖いによって罪を赦す神の国がやって来た。「あなたの罪は赦されている。神様に立ち帰りなさい。」

先ほど、「バプテスマのヨハネの時以来、今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」のところには幾つかの解釈があると言いましたが。もう一つ別の解釈もあります。それは、「ヨハネの出現と共に激しくやって来た天の御国を、暴力的に攻撃する者たちがいて、それを略奪している」と言うものです。それは、ヨハネが時の権力者によって暴力的に捕らえられ、暴力的に殺されたことを指しています。また、イエス様も時代の権力者によって暴力的に捕らえられ、暴力によって殺されるのです。悪魔は自分の思い通りに動かなかったヨハネとイエス様を捕らえて殺し、神の国を奪い取ったと思ったでしょう。自分たちが勝ったと思った。

しかし、ヨハネの時からやって来た神の国は、この地から消えてなくなることはありませんでした。誰が奪い取ろうとしても、イエス様を十字架に殺して奪い取ったと思っても、しかし、イエス様は復活し、この地に実現した神の国を確かなものになさったのです。復活したイエス様が仰っているのです。「あなたの罪は赦されている。あなたの罪の全てを赦す神の国は、ここにあるのだ。あなたの存在を新たにし、造りかえる神の国は、決して壊れることはない。これこそあなたの国、あなたはこの国の市民権を持つ者。さあ、今帰ってきなさい。共に喜ぼう」と。

祈りましょう。

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