「マタイの福音書」連続講解説教

鶏が鳴くたびに

マタイの福音書26章57節から75節
岩本遠億牧師
2008年11月9日

26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。 26:58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。 26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。 26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、 26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」 26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」 26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」 26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」 26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。 26:66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。 26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、 26:68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」

26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」 26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。 26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」 26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。 26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。 26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。 26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

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今日、私たちは十字架を前に大祭司カヤパの官邸に連行され、裁かれるイエス様のお姿、イエス様を打ち、なぶり者にする人々の姿、そしてイエス様を否定するペテロの姿を書き記した聖書の言葉を聞きました。

ここに、私たちは礼拝者の道とは何か、私たちを礼拝者とする主イエス様の取られた十字架の道とは何だったのか、イエス様を否定し、どん底に落ちた者に注がれるイエス様の愛を見ることができます。

祭司長たちと全議会はイエス様を死刑にするための証拠を求めたとあります。この会議は夜中に緊急に招集されたもので、会議としては無効でありました。無効の会議で、死刑にすると決めてから偽証を求めるという全く不法な裁きが行われました。

しかし、イエス様は何もお答えになりません。一つ一つの偽証に反論なさらない。預言者イザヤは、このイエス様について次のように預言いたしました。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

神の小羊は黙って人の罪をその身に負うのです。偽証をする者たちの罪、妬みと恐れによって罪なき人を死刑にする者たちの罪をも背負い、十字架に向かわれる。

ペテロは、大祭司の中庭まで群衆に紛れて入っていき、成り行きを見ようとしていました。おそらく、ペテロはその偽証の言葉を聞いて、とても悔しい思いをしたに違いないと思います。「どうして先生は黙っているのか。なぜ反論しないのか。全部嘘じゃないか。パリサイ人やサドカイ人を黙らせた先生の言葉なら、この議会を黙らせることも出来るはず。なのに、何故黙っているのか。何故言われっぱなしなのか。」

しかし、イエス様は、黙って聞いておられるのです。何故か。人の嘘の証言が自分を十字架に付けるのではないからです。ただ、最愛の父なる神様が「十字架に死んで地獄に落ち、全人類の罪の贖いをなせ」とお命じになった。だから十字架に向かわれるのです。もう議論は必要ない。ここにあるのは、父なる神様に対する愛、そして、罪深い人間に対する愛です。沈黙の中に表されたイエス様の愛だけがここにあるのです。

イエス様が教えられたことや、安息日に病人を癒されたこと、宮清めを行われたことがイエス様を処刑するための口実ともなりませんでした。最後に二人の証人が現れ、26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」との証言を行います。これは偽証ではありませんでした。イエス様は、「この神殿を壊しなさい。わたしはそれを3日で立て直す」と仰り、神殿の崩壊とご自分の十字架を重ね合わせて語り、さらに復活の預言をなさったのでした。それを聞いた人が、意味も分からずに証言者として出てきたのです。律法では二人の人の証言によらなければ人を死刑にすることはできませんでした。ここで初めて二人の証言があったということです。しかし、これも人を死刑にできるような罪状ではありません。

業を煮やした大祭司がイエス様に答えさせます。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」 26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

「あなたの言うとおりです」というのは、「あなたがそう言っているのです」というのが元々の意味です。勿論、これは責任を大祭司に押しつけるものではなく、メシヤは自らをメシヤと自称しないというユダヤの伝統的理解の上に立った発言でありました。しかし、イエス様は、「人の子、すなわちメシヤ、キリストが、これから後、力ある方の右の座に着き、天の雲と共にやって来るのをあなたがたは見る」と言われ、十字架に殺されても復活し、この世の救い主としてやって来ると宣言なさるのです。

これが大祭司や議員たちには冒涜と聞こえました。そしてイエス様を死刑する決定をし、唾を吐きかけ、目隠しをして殴ります。「言い当ててみよ。打ったのは誰か。」預言者なら分かるはずだというのです。勿論、イエス様はご存じだったのです。霊の目で見ておられたのです。しかし、お答えにならず、打たれるままにされておられました。

ここにあるのは、人々のイエス様に対する恐れです。恐れたから排除しなければならないと考えたのです。なぜ恐れたのか。イエス様が正しく、自分が正しくないことを知っていたからです。イエス様が真理を語っていたことを知っていたからです。イエス様が神の愛に生きている事実が、自分の立場を危うくすることを知っていたからです。なぜ目隠しをして打ったのか。怖かったからです。イエス様の目を見てイエス様を打つことができなかったからです。まさに恐れが憎しみとなり、一気にイエス様に向かったのです。

そして、恐れに囚われた人がもう一人いました。それは、ペテロです。ペテロは、イエス様が捕らえられたとき、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その耳を切り落としてしまいましたが、イエス様に「剣をもとに戻しなさい。剣を取るものは剣で滅びる」と命じられ、恐れて逃げてしまっていたのでした。しかし、彼は、イエス様を捕えにきた多くの群衆に紛れて、大祭司の官邸にまでついて行きました。心配で仕方がなかったのです。ペテロは、本当にイエス様を愛していたのです。

しかし、官邸の女中に「あなたもイエスと一緒でしたね」と言われたとき、言下にそれを否定してしまうのです。恐れたからです。またほかの女中が「この人はあのイエスと一緒にいた」と言うと、「そんな人は知らない」と否定し、「26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。 26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた」のです。呪いをかけて誓うとは、「もし私がナザレのイエスという人と一緒にいたのが事実なら、神が私をどんなに罰してくれても構わない」と言って誓うことです。3度否定しました。3度というのは徹底的に、存在をかけてという意味です。ペテロは、徹底的に、自分の存在を賭けてイエス様と一緒にいたということを否定したのです。

ペテロにとってのただ一つの望みは何だったでしょうか。それは、イエス様と一緒にいるということではなかったでしょうか。彼は、イエス様に向かって「たといあなたとご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して言いません」と大見得を切っていました。イエス様と共にいる。それが彼のただ一つの希望だったからです。それが彼の光だったからです。

しかし、今、ただ一つの希望だったイエス様を全身全霊で否定してしまった。その時、鶏が鳴きました。ペテロは、「『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」

鶏の鳴き声が主の言葉を思い出させてくれた。彼は鶏の声で我に帰りました。しかし、イエス様を否定した事実は取り消すことができない。彼は、恐れのために自分の最も大切なものを否定し、愛していた方を否定し、実存が引き裂かれてしまったのです。

彼は激しく泣きます。イエス様との関係を自分から壊してしまった。しかし、彼の存在を握っていた方がいました。彼は、イエス様が自分のことを全て知って愛して下さっていたことを知るのです。「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないという」と預言なさった方、この私の弱さ、なさけなさを全て知っていた方が、最後のゲッセマネの園の祈りの場所にまで連れて行って下さり、そして、「私のそばにいてくれ。私と一緒に祈っていてくれ」と言われた。ご自分を否定することが分かっている者をなお信頼し、信じ、共にいて、共に祈ることを願って下さった。この時、ペテロは、自分がどんなにイエス様に愛されていたかを知ったのです。自分を否定することが分かっている者を愛し続ける愛、信頼し続ける愛。ペテロはそれを知りました。しかし、今、自分からイエス様を否定した。もう自分では回復することができないこの関係。イエス様は殺されてしまう。ペテロは、絶望するのです。

しかし、イエス様はペテロの心のそばにいたのです。「鶏が鳴く前にあなたは私を三度知らないと言う」と言われたイエス様の言葉は、決してペテロの心の中で消えることはなかった。鶏は、一度だけ鳴いたのではありません。最初の鶏が鳴くと、それに続いて次々に鶏は鳴きます。そして、日中も鳴き続け、夕暮れに寝るまで鶏は鳴きます。それを聞くたびにペテロは主のお言葉を思い出すのです。それはペテロにとっては辛いことでした。しかし、このイエス様の言葉がペテロを握っていたのです。もし、イエス様がこの言葉をペテロに語っていなかったら、ペテロには立ち直りの機会は訪れなかったのです。今、ペテロはイエス様を否定したという事実と共に、それを思い出すたびに、イエス様の言葉を思い出すのです。そして、そんな情けない者をなお信頼し、共にいることを願って下さった主の愛を思い出すのです。

自分の情けなさは地獄の底のよう。しかし、主の愛はさらに深い大きな大きな愛です。そのことを彼はいつも思い出すことになります。彼は自分に絶望しました。しかし、イエス様の愛を否定することはできなかった。否定することのできないイエス様の大きな愛がそこにあったのです。イエス様は、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という辛い辛いお言葉をペテロにお掛けになりましたが、その言葉の背後から包み込むイエス様の愛がペテロを握り続けたのです。

恐れによって引き裂かれる私たちの実存を支え続ける方がいるのです。それは、ご自身も実存を引き裂かれた主のお言葉です。しかし、主が引き裂かれたのは恐れのためではありませんでした。愛の故に、父なる神様に対する絶対の愛の故に、私たち恐れる者、罪深い者に対する絶対の愛の故にイエス様は引き裂かれたのです。この絶対的な愛の故に引き裂かれたお方の実存が、恐れによって引き裂かれた者の実存を救うのです。この方の実存はもう一度復活し、罪と恐れによって死んだ私たちの実存をも蘇らせるからです。

主のお言葉は、私たちにとって優しいばかりのものではないかも知れません。実存の底を突かれるような、胸を射抜かれるようなものでもあるでしょう。しかし、その言葉が私たちの実存を支えるのです。倒れても、なお引き上げて下さる主の愛がある。私たちを礼拝者としてくださる主の愛があるのです。

祈りましょう。

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