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神は語る

ヘブル人への手紙第1章1節〜3節

岩本遠億牧師

2018年4月8日

神は語る
ヘブル人への手紙第1章1節〜4節
岩本遠億

1:1神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 1:2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 1:3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

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今日から、「ヘブル人への手紙」を連続で学んでいくことにします。日曜日は、イエス・キリストが死者の中から復活した日です。そのため、これを「主の日」と呼びます。ですから、日曜日、主の日の礼拝では、イエス・キリストを語る、これが基本中の基本であります。イエス・キリストが語られる、これがキリスト教会の礼拝の中心である。ですから、このキリストの平和教会でも、日曜日は福音書からメッセージを語るということを基本としています。

すでに、マタイからヨハネ、ルカ、マルコと4つの福音書のメッセージを終え、次に何を語ろうかと思いましたが、やはり、日曜日はイエス・キリストを語るというところから自分は離れるべきではないと考えます。(途中、ルカの後に使徒の働きを読みましたが、それは、ルカと使徒の働きが一続きのものと考えられるからです。)メルマガでは、福音書以外の様々な書からメッセージを送っておりますので、聞いてくださっている方々、読んでくださっている方々にとっても、バランスよくメッセージはお届けできているのではないかと思います。

それならば、今回、何故「ヘブル人への手紙」を取り上げるのか?それは、新約聖書に収められている手紙の中で、これだけが、イエスとは誰か、イエスの十字架の血とは何だったのかということを中心テーマとして取り上げた書だからです。ローマ人への手紙は、救いとは何かをテーマにしています。コリント人への手紙は、混乱した教会を立て直すための具体的な指示が書かれています。ガラテヤ人への手紙は、律法主義との戦いがテーマですし、エペソ人への手紙は信仰の成長、教会論がテーマとなっています。ピリピ人への手紙は信仰の喜びが語られ、コロサイ人への手紙は、新しい生き方、テサロニケ人への手紙は、清い生活、地に足のついた信仰生活を送ることを教えることがテーマです。その他、テモテやテトス、ピレモンといった弟子たちに宛てた手紙、信仰と行いが一つであることを説くヤコブの手紙、苦しみの中にあるものに希望を語るペテロの手紙、愛に生きることを説くヨハネの手紙があります。ユダの手紙は堕落に対する警告です。どの手紙も、イエス・キリストを軸とし、基盤とし、目標とした教えが語られていますが、ヘブル人への手紙ほど、イエス・キリストとは誰かということを中心に語っている手紙はありません。

実際には、これは手紙ではなく、説教だっただろうと言われています。宛先も、差出人が誰かも書かれていないからです。イエス・キリストとは誰か、イエス・キリストの血とは何かを語る長い、壮大な説教です。旧約聖書が数多く引用され、旧約聖書についての知識がなければ、分かりにくいと言われるのがこの書です。しかし、旧約聖書の背景から、イエス・キリストとは一体誰だったのかを明らかにしているため、何故イエス・キリストの血が私たちの救いとなったのかが非常に分かりやすく語られているのです。ですから、これを共に学ぶことにより、旧約聖書についての理解も深まるだろうと思います。

私たちは、信仰生活に行き詰まったり、疲れを感じたり、あるいは、信仰の停滞を感じている時、弱さを感じている時、後戻りしたいと感じている時、どうしたら良いと思いますか。あるいは、そのような人がそばにいる時、どのようにすべきだと思いますか。

励ましたり、鼓舞したり、叱咤激励したりするのが良いのでしょうか。徹夜祈祷会に行く、断食祈祷に行くなどと答える人もいるかもしれません。誰か有名な先生に祈ってもらったら良いと考える人もいるでしょう。

しかし、この「ヘブル人への手紙」の非常に優れた、そして重要な解き明かしである『至聖所』という本を書いたアンドリュー・マーレーは、イエス・キリストを知ること、このお方がどのような存在なのかということを知ることだけが、これらの問題の本質的な、そして、唯一の解決であると明言しています。

私は、若い時からアンドリュー・マーレーの著作を読み、大きな影響を受けて来ました。そして、私が語るメッセージは、ただイエス・キリストを告白することだけに意識を集中して来ました。メルマガも同様です。何故か?イエス・キリストを告白するとは、真理の御霊である聖霊だけが行われる御業だからです。ヨハネの福音書で「真理の御霊はわたしを証する」とイエス・キリストは語っておられます。聖霊なしにイエス・キリストを告白することはできない。キリストを告白する時、それは、聖霊がご自身の業を行っておられるのです。

私も、心がうつむき、キリストを告白できないなあと思うときがあります。週に何度もあります。大学の中で大きなプレッシャーのかかる業務をしなければなりません。そんな中で人の問題を見たりすると、それに反応して自分の中からも悪い思い、悪意が湧き上がってくることもあります。そんな者がどうして、人に正しく生きることを教えることができるでしょうか。

しかし、そんな私のところにも、聖霊がやって来てくださる。イエス・キリストを知る御霊を満たしてくださるのです。そして、イエス・キリストを告白させてくださる。罪と悪意から立ち上がらせてくださる。心を燃え立たせてくださる。喜びと希望を満たしてくださるのです。これは、自分がなそうと思ってもできない聖霊の働きです。だから、私は、イエス・キリストを告白することだけを求めるのです。このことに心を向ける時、聖霊がやって来てくださる。

ヘブル人への手紙は、まさに、イエス・キリストを告白する書です。イエス・キリストを本当に知るところに、全ての問題の解決がある。皆さんと共にイエス・キリストを知り、共に告白したい。

最初から読んでいきます。

神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

神は語られたとあります。神は語る存在である。「語る」とはどういうことでしょうか?まず、第一に、伝えたい思いがあるということです。神様は、私たちに語ることによって、神様の思いが聞く私たちの中に形作られることを願っていらっしゃるということです。その思いとは何か?それは、神様がどれほど私たちを愛しておられるかという思いです。
 罪を犯して神様の顔を避けたアダムに、神様は呼びかけて言われました。「人よ、アダムよ、あなたはどこにいるのか?」神様を否定する者を探し求める神様の思い、それは、人を慕い求める神様の愛です。否定されても否定されてもなお、慕い求める神様の愛、これが神様のみ思いであり、その思いを「人よ。アダムよ。あなたはどこにいるのか」という言葉によって神様は伝えようとなさったのです。

そして、「語る」とき、わかる言葉で語るのです。わかる言葉で語る時、聞く者たちが聞いて理解できるということを前提としています。神様は、私たちが分かるということを前提として語っておられます。私たちを信頼しておられるのです。そのように造ってくださったのです。

そして、何よりも重要なのが、「語る」と訳されている言葉です。このヘブル人への手紙はもともとギリシャ語で書かれたのか、それともヘブライ語で書かれたものがギリシャ語に翻訳されたのかは分かりませんが、今あるヘブライ語訳を見ると、ディベールという言葉が使われています。これの名詞形「ことば」という意味の言葉は、ダバールと言います。ダバールは、「出来事」とか「こと」という意味もあります。つまり、言葉と事は同じ言葉なのです。

日本人にはこれは分かりやすいかもしれません。言葉というのは言の葉、言葉のことは出来事の事です。つまり、日本語では、言葉と出来事には密接な関係があると理解されているわけです。ヘブライ語も同様です。神が語ったことが出来事となるということは、創世記の初めから語られています。「光あれ」と神は言われた。すると光があった。これは、光ができたということではなく、「光あれ」と神が言われたことと、光があるということが同じであったということです。

神が語られる。するとそこに神の出来事が存在する。神様は、人間を救済するにあたり、まずは、預言者たちをとおしてユダヤ人の先祖たちに語りかけられたというのです。なぜ、ユダヤ人の先祖たちに語られたのか?それは、彼らが他のどの民族よりも弱く小さかったからです。この弱く小さい、この世の王が捻り潰そうと思えば簡単に捻り潰すことができるユダヤ人の先祖たちに語ることによって、人類の救いの業を始められたのです。人の力、勢力によらず、これが神様ご自身の業であることを明らかにするためです。

そして、預言者たちをとおして、様々な方法を用いて語られた。これは不完全な方法であったと言います。何故かというと、神の言葉を、不完全な人に委ねたからです。旧約の時代にも真の預言者と偽の預言者がいました。語っているのが真の預言者をとおした神の言葉か、それとも偽預言者による人の言葉、あるいは悪魔の言葉なのか、簡単には見分けがつかないような状況の中で、神様は語り続けられた。神様は、人を信頼なさったのです。しかし、人は預言者の声に耳を傾けず、神様に背を向け続けます。人が何度失敗しても、神様は預言者を送り続けられました。神様は、ご自身の形に作られた人をとことん信頼し続けるのです。これが旧約聖書に見られる神様のお姿です。

そして、ついに、終わりの時がやって来た。神様がご自身を完全に現される時がやってきたというのです。準備の段階から完成の段階が来たということです。なぜ最初から完全な方法で語られなかったか、それは、長い準備の段階がなければ、完全なものを理解することができないからです。準備の段階とは、律法によって導く段階です。人には罪の赦しが必要であること。罪の赦しは、神が決めた方法によってのみ与えられるということを先ずは示す必要があったのです。このことが律法によって教えられ、実行されることなしには、イエス・キリストの十字架がどのような意味を持つかということも、キリストの血が絶対的な力を持つことも明らかにされることはできなかったのです。

それは、私たち一人一人がイエス・キリストに出会うまでに、準備の段階があったのと同様です。私たちはこの世に生まれ、親によって育てられます。親は子供を自分が良いと思う方法で育てますが、そこには限界があります。親の愛にも限界がある。また、子供を躾ける親の基準はけっして一貫しているとは言えません。気分によって子供に対する対応が違ってくる。このような中で、子供は、親を慕いながら、真の愛、真の正しさとは何か、完全とは何かを探し求めるようになるのです。そして、ついに真の愛、真の正しさ、完全な方と出会うようになる。

神は、御子を万物の相続者として定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高きところで、大いなる方の右の座に着かれました。

御子が語られる。これは、神ご自身が語られるということです。
ことばは出来事であるということを先ほどお話ししました。イエス・キリストがその口をとおしてお語りになったことは、そのまま出来事として実現しました。しかし、それだけでなく、イエス・キリストが行われたこと自体が、神のことばだったのだ。そして、イエス・キリストの存在そのものが神のことばであったというのが聖書の思想です。

イエス・キリストの十字架の出来事、これこそ、まさに神のことばであった。この出来事が、全人類に与えられたことばなのだ。これが私たち一人一人に語りかけているのです。

ヘブル書は「御子によって私たちに語られた」と言っています。「私たち」とは誰を指しているのでしょうか。イエス・キリストがこの世におられた時に、その口から出る言葉を聞いた人たちでしょうか。このヘブル書は、紀元60年から100年の間に書かれたと言われます。イエス様に直接出会ったペテロたちの世代から見ると、その次の次の世代の人たちです。直接イエス様の肉の声を聞いた人たちではありません。また、ヘブル人への手紙とありますが、この手紙には、ユダヤ人に宛てたものだとは書かれていない。むしろ、旧約聖書という基盤の上に、イエス・キリストとは誰だったのかを明らかにしているのがこの書なのです。

ですから、「わたしたちに」と言う時、それは旧約聖書の上に立つ全ての者たち、いや、これから旧約聖書について知ることになる、全ての者たち、神の言葉を聞きたいと願う全ての人たちを指しているのであります。

このお方によって世界は造られた。このお方が全てを所有しておられるというのです。私たち一人一人も、このお方によって造られ、このお方のものである。このお方は、御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高きところで、大いなる方の右の座に着かれました。

神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れであった。このお方を見れば神が分かる。このお方の声を聞けば、神が分かる。神と出会える。このお方の十字架を知る時、神の完全なお姿を見ることができる。

このお方が、私たち一人一人に今、語りかけておられるのです。このお方の声を聞く時、それが私たちの中で現実的な出来事となる。イエス・キリストを知る時、イエス・キリストがこの罪深いものの中に住むようになる。これがイエス・キリストが語るということである。

だから、私たちはイエス・キリストの言葉を聞きたいのです。イエス・キリストを知りたいのです。語る方がいる。ご自身を表すお方がいるのです。


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