「ルカの福音書」 連続講解説教

内に燃える火

ルカによる福音書24章13節~35節
岩本遠億牧師
2007年4月8日

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

今日は、このようにして共にイエス様の復活をお祝いできることを心から感謝します。

聖書の福音は復活の福音であります。人間にとっての最も重大な問題は死ですが、その問題に復活という答えを与えるのがイエス様の福音です。十字架の後、死を打ち破って復活なさったイエス様こそ、私たちの存在の根源的な問題に解答を与える方です。

新約聖書の主張を一言で言えば、「イエス様は、十字架に殺されたけれども、神様はイエス様をよみがえらせ、死そのものの力を打ち破られた。イエス様こそ、全ての王、全ての主だ。この方を信じる者には、死の力は及ばない。」これが私たちに与えられている福音です。勿論、これは私たちが肉体の死を経験しなくなるということを意味するものではありません。イエス様は、復活なさった時、それは私たちのもっている肉でも、また幽霊のようなものでもなく、復活の体といわれる栄光の体をもっておられたと聖書は語ります。二度と死が触れることができない体です。私たちも、何れ肉体の死を経験します。しかし、イエス様に結ばれた者たちは、決して死によって支配されることなく、肉体の死を越えて、永遠にイエス様と共に生き、復活の日に、イエス様と同じように復活の体を頂くようになると聖書は言っているのです。

使徒言行録を読むと、初代教会時代の使徒たちの宣教の中心は、イエス様こそ死の力を打ち破って蘇られた神だという教えでした。今日は、復活のイエス様に出会った二人の経験が記してあるルカの福音書から学びたいと思います。

イエス様の蘇られた日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。エマオというのは、エルサレムから11kmほど離れた村でした。彼らは何をしに行っていたのでしょうか。彼らはイエス様の弟子でした。恐らく、その一週間前、イエス様がエルサレムに入城なさった時、ご一緒にエルサレムに入った弟子たちの中にいたと思われます。彼らは、イエス様が反対勢力を抑え、ローマ軍をエルサレムから駆逐して、イスラエル王として即位するのを期待していました。イエス様にはその力があり、望みさえすれば、それができることを知っていたからです。しかし、彼らの期待に反して、イエス様は自ら十字架の道を選び取って、磔にされ、殺されました。

彼らは、全ての希望を失いました。イエス様が蘇ったと言う女性たちの言葉を聞いていましたが、もうイエス様とのことはなかったことにして自分の町に帰ろうとしていたのです。十字架の死という圧倒的な現実の前に、復活の証言は絶望を希望に変える力はなかったのでした。

彼らはエマオに向かって歩きながら、語り合っていました。失望を語り合っていたのだと思います。エマオはエルサレムの西にありますが、日暮れが近づく時間でしたから、彼らは沈み行く太陽を見ながら歩いていたのです。まさに暗闇に向かおうとしていたのが彼らでした。

そこにイエス様が近づき、一緒に歩き始められました。しかし、彼らにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。イエス様の姿が以前とは違っていたからかもしれません。イエス様は、ご質問になります。「その話は、何のことですか」と。クレオパという弟子が逆に質問します。「エルサレムにいながら、あなただけがこのことを知らないのですか」と。イエス様は、彼らから更に話を聞きだされます。「それはどんなことですか」と。

二人は答えます。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

イエス様は、お嘆きになります。「何と物分りの悪い者たち!心の鈍い者たち!旧約聖書を理解していないのか。キリストは、必ず苦しみを受け、そして復活の栄光に入ることが記されているではないか!」と。

私たちも、イエス様に、「何と物分りの悪い者たち!心の鈍い者たち!」と言われるかもしれませんね。でも、お叱りを受けても良いのです。イエス様はお叱りになっても、分かるまでご説明くださるからです。この後、イエス様は、「24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」とありますが、モーセというのは、モーセ五書と呼ばれる、創世記から申命記までを指します。ここで言われているのは、旧約聖書全体から、ご自分について書かれていることを説明なさったということです。

創世記には、アダムとエバの創造と高慢による堕落が書かれます。神様は、アダムに善悪の知識の木の実を食べてはいけない、これを食べる時、お前は必ず死ぬと言われました。罪が神様と人との間に絶対的な壁を作り、神様との命の関係が断たれるということです。ですから、神様との関係の回復、永遠の命の回復は、罪の問題の解決なくしてありえないというのが創世記の最初に提示された問題提起なのです。そして、モーセの律法には、罪の贖いのための動物の献げ物の規定、それによる礼拝の回復、神様との関係の回復が教えられています。血を流すことによってのみ罪の赦しが与えられるという原則が示されます。

そして、ユダの子孫からダビデ王が出、ダビデの子孫として、全世界の永遠の王が生まれると言う預言がなされますが、預言者の時代に入り、いよいよ、この永遠の王こそ、苦難の僕として人の罪を背負って地獄にくだり、復活なさる方であるという預言がなされるのです。

聖書は言います。罪が神様と人との関係を隔てた。それによって人は死に支配されるものとなった。従って、神様と人との隔ての壁である罪の本質そのものが打ち倒されたら、人はもう死に支配されることはなくなると。イエス様の十字架は、罪の本質を罰し、罪そのものの力を無効にしました。そこに死の支配は終わりを告げたのです。イエス様の十字架が罪と死を打ち砕いたとはそのような意味です。ですから、イエス様は、必ず復活するはずだったのです。これは、霊的な必然だったのです。イエス様は、「人の子は苦しめられ、十字架につけられ殺されるが、三日目に甦らなければならない」と仰いましたが、これは、必ずそうなる。それは、聖書に表された霊的な原則なのだという意味だったのです。永遠の大祭司イエス様の十字架によって、罪と死が無効となった時、そこに永遠の命が現れ、イエス様は復活させられたのです。イエス様は、このことを彼らに解き明かしていかれます。

すると、彼らの心は燃え立ってきました。確かにイエス様は蘇ったのだ。彼らから恐れが取り除かれ、イエス様が復活なさったということが、彼らの中で確信に変わっていきました。イエス様が心の中に明らかにされ、イエス様のことが分かっていくとき、イエス様の臨在が心に満ち、心が熱くなっていくのです。

その時、彼らはエマオに到着しましたが、イエス様はさらに進んでいかれるご様子でした。他に失われた弟子たちを捜し出すためです。彼らに復活のご自身を現すためです。しかし、彼らは、無理に自分たちのところに泊まってくれるようにと頼みます。食事の席に着いたとき、イエス様はパンを裂かれました。パンを裂き、彼らに渡された時、彼らの目が開かれて、それがイエス様だと言うことが分かったと言います。彼らは、イエス様が食事を祝福し分け与えられるところに居合わせたことがある人たちだったに違いありません。すると、イエス様の姿は見えなくなりました。イエス様が霊の目で見えるようになった彼らには、もう肉の目でイエス様を見る必要がなくなったからです。彼らの中にイエス様が生き始めました。

彼らは語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。暗闇に向かって歩いていた我々の心に光が照らされ、心が熱く燃えたではないか。イエス様の火が彼らの心に燃えついたのです。イエス様は言われました。「わたしは火をこの地上に投げ込むために来た。この火が既に燃えていたならとどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならない試練のバプテスマ(すなわち十字架)がある。成し遂げられるまでは、どんなに苦しい思いをするだろうか」と。イエス様の十字架をかけた願いが、今、彼らの中に始まったのです。これこそ、復活のイエス様の臨在の証でした。

彼らは、夜暗くなっていましたが、すぐにエルサレムに引き返して、復活のイエス様に出会った次第を話しました。すると、そこには、他にもイエス様に出会った人々が集まっていたのでした。

イエス様は、絶望し、日没に向かって歩いていた二人と共に歩かれ、彼らの中に火を灯されました。日没に向かって歩いている人とは誰でしょう。消え去っていく太陽、暗闇に向かっている人のところにイエス様はやって来られ、その中に消えない火を灯されたのです。

パプア・ニューギニアに伝道と言語調査に行ったときのことです。2回目の時に、わたしは、「イエス様、あなたご自身が生きているあなたを現して下さい。あなたの御名による癒しを行わせて下さい」と祈りながら伝道していました。病気の人々のための癒しを祈ろうと思って出て行きましたが、一番最初に祈ったのがマーティンという男の人でした。彼は病気になり、動けなくなって数ヶ月間がたっていました。もう骨と皮だけになって、自分の命の日が沈むのを待っていたのがマーティンでした。私は彼を見た時、内側から湧き上がる思いを抑えることができず、横になっている彼を抱き締め、こう言いました。

今から2千年前にイスラエルという国に、イエス様という方が来られた。彼は、神の子だったが、人となって生き、多くの人を助け、多くの人を癒し、多くの人に真理を語った。しかし、彼は理解されず、十字架にかけられて殺された。しかし、三日目に甦って、今も生きている。あなたがイエス様の御名を呼んだら、イエス様は必ずあなたのところにやってきて、あなたを救う。

私は、村の青年に聖書の中からイザヤ書40章の言葉を一箇所読んでもらって、祈りました。祈りが終わった時、マーティンは次のように言いました。「私は、自分自身をイエス様に委ねる。(あるいは、捧げる。)私は、イエス様が私を救ってくれるのを信じる」と。私は、彼は既にクリスチャンだったのかと思いましたが、彼はこれまで教会に行く人間を馬鹿にし、一度も教会に行ったこともないなかったのです。その短い祈りの言葉の中に、今も生きているイエス様がご自身をマーティンに現してくださり、彼はその場でイエス様を信じたのでした。

翌日、私は、村の青年に、マーティンのところに少しばかりの食料を届けてもらいました。すると、マーティンが自分の奥さんや家族に、イエス様を信じるようにと説得していたというのです。その翌日、私は、マーティンの家に行って、彼に自分で祈るかと訊ねますと、彼は「はい」というので、祈ってもらいました。その時の彼の言葉は短いものでしたが、非常にはっきりしたものでした。「主イエス様、この大きな喜びを感謝します。この大きな喜びを。」確かに今も生きているイエス様がマーティンの中に生き始めたのです。

翌日、朝祈っていると、「今日彼は立ち上がらなければならない。今日を逃すともう二度と立ち上がることはない」という強い思いが与えられ、彼のところに行き、訊ねました。「あなたは、もう床に就いたまま数ヶ月がたっていると聞きました。イエス様は、多くの病人を癒し、立てない者を立ち上がらせる奇跡を行われました。あなたは、イエス様の御名によってもう一度立ち上がりたいですか。」マーティンは、「はい、立ち上がりたいです」と言うので、私は、「イエスキリストの御名によってあなたに命じます。立ち上がって歩きなさい」と言いました。マーティンは立ち上がり、家の周りにある廊下のようなところに出て、家の外から中の様子を窺っていた人々に言いました。「主イエスは生きている。あなたがたはイエス様を信じたら救われる」と。

彼は、立ち上がってから1週間で、その肉を脱ぎ捨てて、天に帰っていきましたが、最後まで、家族にイエス様を信じるように語り続け、最後まで家族の助けを借りて、自分の足で立ち上がろうとリハビリをしていたと聞きました。

彼は、自分の命の日が暮れていくのをただ待っていたのです。人生の日暮れ、暗闇に向かって進み、絶望していた。しかし、イエス様についての短い福音の言葉と祈りの中に、今も生きているイエス様が現れたのです。そして、彼の中に決して沈まない永遠の光、燃え上がる聖霊の火が点ったのです。その火は、病がどんなに彼の体を蝕んでも、彼の肉体を殺しても、消えることがなかった。彼は、最後までイエス様を告白し、最後まで家族にイエス様を伝え、最後まで、希望を捨てなかったのです。彼の中にイエス様の火が燃え上がっていたからです。マーティンの告白の言葉、「イエスは生きている」Jesus emi stap laipという言葉が私の耳に今も響いています。

復活のイエス様は、日暮れに向かって歩いている私たちのところに来て下さるのです。絶望を受け入れようとする私たちのところにやってきて、共に歩き、教えて下さる。そして、私たちの中に、決して消えない聖霊の火を灯して下さるのです。たとい外が暗くなっても、この肉体を脱ぎ捨てなければならない時がやってきても、決して消えない火、キリストの火が私たちの中に燃え始める。永遠に生きているイエス様が、私たちを共に永遠に生かして下さるのです。

15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

祈りましょう。

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