「ルカの福音書」 連続講解説教

内に燃える火:イースター礼拝

ルカによる福音書24章13節から35節
岩本遠億牧師
2009年4月12日

キリストの平和教会2009年復活礼拝

内 に 燃 え る 火

ルカによる福音書24章13節~35節

岩 本 遠 億

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。 24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

今日は、このようにして復活祭の礼拝を迎えられることを、心から感謝し、喜んでおります。イエス様の復活をお祝いするこの時、私たちは、「イースターおめでとうございます」と言いますが、イエス様が甦られたことが、私たち一人一人の存在にとって実に喜ばしい、めでたい、嬉しいことだということを、今日本当に経験したい。それが、私の願いです。

William Gaither、Gloria Gaither夫妻が作ったBecause He liveという賛美があります。日本語には、「主は今生きておられる」とか「イエスがいるから」という訳で知られています。1960年代の末期、ベトナム戦争の泥沼に喘ぐアメリカでは、全ての人が失望し、未来に希望が持てず麻薬に溺れていました。また社会では「神は死んだ」という思想が蔓延し、人々の心が虚無感に襲われ、人種問題で社会が緊張し疲れていました。そんな時、Gloriaは3人目の子供を妊娠しました。しかし、この3人目の子供は、すぐ上の子が生まれて僅か3ヶ月という、決して理想的ではないタイミングで妊娠した子だったのです。それだけでなく、William自身もウイルス性の感染症で苦しみ、教会でも善意で行ったことが悪意と取られるような苦しみの中にありました。人々は言いました。こんな時生まれてくる子供は可愛そうだと。そんな中で生まれたのが、Benjaminだったのです。

彼らは歌いました。人々は時代に希望が持てないという。人生に希望がないと言う。しかし、イエスが生きているから、希望がある。イエスが生きているから、明日に立ち向かうことができる。イエスが生きているから、恐れは取り去られ、人生は生きる価値があるのだと。そして、この歌は、失望と倦怠感に潰れていたアメリカに希望を与え、その年1970年のGospel Song of the yearに選ばれました。

私たちも同様ではないでしょうか。多くの人々が未来に希望を持つことができずにいるのが今の時代です。スピリチュアル・ブームということで、根拠のない占いやスピリチュアル・カウンセラーというような人々が幅を利かせるのは、人々の中に希望がないからです。未来を握ってくださっている神様を信じることができずにいるからです。また、私たち自身の中にも、私たちの人間関係の中にも問題や苦しみがある。希望を持つと裏切られるだけだと囁いて、私たちを失望させようとするものがいる。しかし、そんな中にいる私たちに近づいてきて、「わたしは生きているぞ。わたしは死を打ち破った」と言ってご自身を現して下さるイエス様がいるのです。私たちは、この方によって生きるのです。この方が死を打ち破って復活し、今も生きているからです。

聖書の福音は復活の福音であります。人間にとっての最も重大な問題は死ですが、その問題に復活という答えを与えるのがイエス様の福音です。十字架の後、死を打ち破って復活なさったイエス様こそ、私たちの存在の根源的な問題に解答を与える方です。

新約聖書の主張を一言で言えば、「イエス様は、十字架に殺されたけれども、神様はイエス様をよみがえらせ、死そのものの力を打ち破られた。イエス様こそ、全ての王、全ての主だ。この方を信じる者には、死の力は及ばない。」これが私たちに与えられている福音です。勿論、これは私たちが肉体の死を経験しなくなるということを意味するものではありません。しかし、死はもはや私たちの罪に対する罰として与えられるのではなく。永遠の命への扉となるのです。ハイデルベルク信仰問答はこのように告白しています。

問42
「キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。」

答「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです」。

問57「身体のよみがえりは、あなたにどのような慰めを与えますか。」

答「私の魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがて私のこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再び私の魂と結びあわされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられるということです。」

イエス様は、復活なさった時、それは私たちのもっている肉でも、また幽霊のようなものでもなく、復活の体といわれる栄光の体をもっておられたと聖書は語ります。二度と死が触れることができない体です。私たちも、何れ肉体の死を経験します。しかし、イエス様に結ばれた者たちは、決して死によって支配されることなく、肉体の死を越えて、永遠にイエス様と共に生き、復活の日に、イエス様と同じように復活の体を頂くようになると聖書は言っているのです。

使徒言行録を読むと、初代教会時代の使徒たちの宣教の中心は、イエス様こそ死の力を打ち破って蘇られた神だという教えでした。今日は、復活のイエス様に出会った二人の経験が記してあるルカの福音書から学びたいと思います。

イエス様の蘇られた日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。エマオというのは、エルサレムから11kmほど離れた村でした。彼らは何をしに行っていたのでしょうか。彼らはイエス様の弟子でした。恐らく、その一週間前、イエス様がエルサレムに入城なさった時、ご一緒にエルサレムに入った弟子たちの中にいたと思われます。彼らは、イエス様が反対勢力を抑え、ローマ軍をエルサレムから駆逐して、イスラエル王として即位するのを期待していました。イエス様にはその力があり、望みさえすれば、それができることを知っていたからです。しかし、彼らの期待に反して、イエス様は自ら十字架の道を選び取って、磔にされ、殺されました。

彼らは、全ての希望を失いました。イエス様が蘇ったと言う女性たちの言葉を聞いていましたが、もうイエス様とのことはなかったことにして自分の町に帰ろうとしていたのです。十字架の死という圧倒的な現実の前に、復活の証言は絶望を希望に変える力はなかったのでした。

彼らはエマオに向かって歩きながら、語り合っていました。失望を語り合っていたのだと思います。エマオはエルサレムの西にありますが、日暮れが近づく時間でしたから、彼らは沈み行く太陽を見ながら歩いていたのです。まさに暗闇に向かおうとしていたのが彼らでした。

そこにイエス様が近づき、一緒に歩き始められました。しかし、彼らにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。イエス様の姿が以前とは違っていたからかもしれません。私たちがこのことから理解しなければならないことがあります。それは、私たちがイエス様をしっかり見、心をこめて祈っている時だけイエス様は共に歩いて下さるということではないということです。イエス様に失望し、イエス様との関係などなかったことにしてあるいる者たちのところにイエス様はやって来て、共に歩いて下さるのです。

イエス様は、ご質問になります。「その話は、何のことですか」と。クレオパという弟子が逆に質問します。「エルサレムにいながら、あなただけがこのことを知らないのですか」と。イエス様は、彼らから更に話を聞きだされます。「それはどんなことですか」と。

二人は答えます。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

イエス様は、お嘆きになります。「何と物分りの悪い者たち!心の鈍い者たち!旧約聖書を理解していないのか。キリストは、必ず苦しみを受け、そして復活の栄光に入ることが記されているではないか!」と。

私たちも、イエス様に、「何と物分りの悪い者たち!心の鈍い者たち!」と言われるかもしれませんね。でも、お叱りを受けても良いのです。イエス様はお叱りになっても、分かるまでご説明くださるからです。この後、イエス様は、「24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」とありますが、モーセというのは、モーセ五書と呼ばれる、創世記から申命記までを指します。ここで言われているのは、旧約聖書全体から、ご自分について書かれていることを説明なさったということです。

創世記には、アダムとエバの創造と高慢による堕落が書かれます。神様は、アダムに善悪の知識の木の実を食べてはいけない、これを食べる時、お前は必ず死ぬと言われました。罪が神様と人との間に絶対的な壁を作り、神様との命の関係が断たれるということです。ですから、神様との関係の回復、永遠の命の回復は、罪の問題の解決なくしてありえないというのが創世記の最初に提示された問題提起なのです。そして、モーセの律法には、罪の贖いのための動物の献げ物の規定、それによる礼拝の回復、神様との関係の回復が教えられています。血を流すことによってのみ罪の赦しが与えられるという原則が示されます。
そして、ユダの子孫からダビデ王が出、ダビデの子孫として、全世界の永遠の王が生まれると言う預言がなされますが、預言者の時代に入り、いよいよ、この永遠の王こそ、苦難の僕として人の罪を背負って地獄にくだり、復活なさる方であるという預言がなされるのです。

聖書は言います。罪が神様と人との関係を隔てた。それによって人は死に支配されるものとなった。従って、神様と人との隔ての壁である罪の本質そのものが打ち倒されたら、人はもう死に支配されることはなくなると。イエス様の十字架は、罪の本質を罰し、罪そのものの力を無効にしました。そこに死の支配は終わりを告げたのです。イエス様の十字架が罪と死を打ち砕いたとはそのような意味です。ですから、イエス様は、必ず復活するはずだったのです。これは、霊的な必然だったのです。イエス様は、「人の子は苦しめられ、十字架につけられ殺されるが、三日目に甦らなければならない」と仰いましたが、これは、必ずそうなる。それは、聖書に表された霊的な原則なのだという意味だったのです。永遠の大祭司イエス様の十字架によって、罪と死が無効となった時、そこに永遠の命が現れ、イエス様は復活させられたのです。イエス様は、このことを彼らに解き明かしていかれます。

すると、彼らの心は燃え立ってきました。確かにイエス様は蘇ったのだ。彼らから恐れが取り除かれ、イエス様が復活なさったということが、彼らの中で確信に変わっていきました。イエス様が心の中に明らかにされ、イエス様のことが分かっていくとき、イエス様の臨在が心に満ち、心が熱くなっていくのです。

その時、彼らはエマオに到着しましたが、イエス様はさらに進んでいかれるご様子でした。他に失われた弟子たちを捜し出すためです。彼らに復活のご自身を現すためです。しかし、彼らは、無理に自分たちのところに泊まってくれるようにと頼みます。食事の席に着いたとき、イエス様はパンを裂かれました。パンを裂き、彼らに渡された時、彼らの目が開かれて、それがイエス様だと言うことが分かったと言います。彼らは、イエス様が食事を祝福し分け与えられるところに居合わせたことがある人たちだったに違いありません。すると、イエス様の姿は見えなくなりました。イエス様が霊の目で見えるようになった彼らには、もう肉の目でイエス様を見る必要がなくなったからです。彼らの中にイエス様が生き始めました。

彼らは語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。暗闇に向かって歩いていた我々の心に光が照らされ、心が熱く燃えたではないか。イエス様の火が彼らの心に燃えついたのです。イエス様は言われました。「わたしは火をこの地上に投げ込むために来た。この火が既に燃えていたならとどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならない試練のバプテスマ(すなわち十字架)がある。成し遂げられるまでは、どんなに苦しい思いをするだろうか」と。イエス様の十字架をかけた願いが、今、彼らの中に始まったのです。これこそ、復活のイエス様の臨在の証でした。

彼らは、夜暗くなっていましたが、すぐにエルサレムに引き返して、復活のイエス様に出会った次第を話しました。暗闇の中を歩いて行く力、暗闇を照らす光が彼らの中に照り輝いたからです。すると、そこには、他にもイエス様に出会った人々が集まっていたのでした。

イエス様は、絶望し、日没に向かって歩いていた二人と共に歩かれ、彼らの中に火を灯されました。日没に向かって歩いている人とは誰でしょう。消え去っていく太陽、暗闇に向かっている人のところにイエス様はやって来られ、その中に消えない火を灯されたのです。

復活のイエス様は、日暮れに向かって歩いている私たちのところに来て下さるのです。絶望を受け入れようとする私たちのところにやってきて、共に歩き、教えて下さる。そして、私たちの中に、決して消えない聖霊の火を灯して下さるのです。たとい外が暗くなっても、この肉体を脱ぎ捨てなければならない時がやってきても、決して消えない火、キリストの火が私たちの中に燃え始める。永遠に生きているイエス様が、私たちを共に永遠に生かして下さるのです。

15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

祈りましょう。

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