「マタイの福音書」連続講解説教

神の子のテスト

マタイの福音書4章1節から11節
岩本遠億牧師
2006年7月30日

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

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前回の箇所で、イエス様のバプテスマは謙遜のバプテスマであり、イエス様の謙遜によって天が開いたということを学びました。今日は、その直後、イエス様が宣教の活動をお始めになる前に、受けた悪魔の試みについて学びたいと思います。

マタイ、マルコ、ルカという共観福音書と呼ばれる3つの福音書は、イエス様はバプテスマを受けて、すぐに荒野に入り、悪魔の試みを受けたと記録しています。これは、たまたま悪魔の試みを受けたのではなく、神の子として受けなければならなかったテストだったということです。しかも、「御霊に導かれて」とありますから、神様のご計画の中で、神様ご自身の意志によって与えられた試み、テストであったと言うことです。

これは、イエス様が単に悪魔の誘惑を退けられたということに留まらず、「神の御子」とは一体何なのかということを明らかにする出来事だったのです。謙遜のバプテスマを受けられたイエス様は、父なる神様から、「わたしの愛する子」と呼ばれ、神の子の自覚を得られたわけですが、今度は、では神の御子とは如何なる者なのかということを、内的にさらに明確になさるために悪魔の試みに遭われたのです。これは父なる神様の御心でした。

そして、これらは決して退けるのが簡単な試みではありませんでした。それは、イエス様は人として、この世に来られ、人の心を持ち、苦しまれたからです。

ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

とあるとおりです。

イエス様は、40日40夜断食をなさり、肉体的に、また精神的に限界状況になったことを自覚なさいました。その時、試みる者、すなわち悪魔が近づいて来たと言います。イエス様の内面に語りかけたのです。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

「なら」と訳してありますが、これは元のギリシャ語ではeiという言葉で、「もし」というより、むしろ「なのだから」と訳すべき言葉だと聖書翻訳者向けの辞書には説明されています。つまり、「あなたは神の子なのだから、この石がパンになるように、命じたら良いじゃないか」と言ったわけです。

悪魔は、イエス様が神の子であることを疑っていませんし、イエス様にそれを疑わせようとしている訳でもありません。イエス様が神の子であることを前提に話をしているのです。「あなたの命令によってこの石がパンになったら、あなたは確かに神の子だということになりますよ」と言ったのではないのです。

「あなたは、神の子なのだから、全ての権利を持っているし、全ての力を持っている。素晴らしいじゃないですか。あなたは偉大です。あなたは、自分が望みさえすれば、自分に必要なもの、自分の体の要求を満たすものを自分で手に入れることができる力をもっているではないですか。神様の考えとは別に、あなたは自分の考えで自分の必要を満たすことができる。何故あなたはその力を用いて自分を満たそうとしないのですか。簡単にできることではないですか。」と問いかけるのです。

「神様の考えとは別に、自分の考えで自分の必要を満たすことができるではないか」という試み、これは、父なる神様とイエス様を引き裂こうとする悪魔の策略です。また、私たちと神様を引き裂く悪魔の策略なのです。

人類の始祖アダムとエバがサタンから受けた最初の試みもここにあります。

創世記3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

「自分で善悪を判断できるようになる。神様から独立できる。自分は自分で生きていける」と囁いたのです。エバは、この悪魔の囁きに負け、善悪の知識の木の実を食べ、夫のアダムにも食べさせました。

ですから、悪魔は囁くのです。神様から独立して自分の必要を自分で満たしていく者になれば良いと。あなたにはその力もあるし、その権威もあるのだからと。

イエス様は、この悪魔の試みに聖書の言葉、申命記の言葉で悪魔を退けられました。

申命記8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。 8:6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

「神の口から出るすべての言葉によって生きる」、あるいは、「神の口から出る全てのもので生きる」とは、聖書の言葉だけ読んでいれば、食べなくても良い、生活のことは同でもよいということを言っているのではありません。神様は、私たちを食べるものとして創造なさいましたから、私たちに食物が必要なことをご存知です。また衣類が必要であることをご存知です。問題は、誰がこれを創造し、私たちに与えるのかということです。聖書は、神様の口から出る全ての言葉によって、全てのものは創造されると言います。神様は、荒野で飢えたイスラエルの人々を満たすためにマナを創造し、与えられました。神様が私たちに必要なものを今も創造し、それを与えてくださるという信頼がここにあります。

神の子の本質とは、一体何でしょうか。それは、自分の存在が神様に100%依存し、神様なしでは何一つなすことができない者、自分の業の全てが神様に依存している者です。神様の前に全く謙遜な者。イエス様は、ヨハネの福音書で次のように告白しておられます。

ヨハネ5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

「自分は、全くわたしの父である主なる神に依存した存在だ。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができない。父がなさることは何でも、子も同様に行なう。父が行われないことは、わたしも行わない。父は、何がわたしを生かすか知っておられる。父は、これをその言葉によって創造し、私に与えてくださる。父が与えてくださるものがわたしを生かすのであって、神様から離れた私の思いによって得られるものが私を生かすのではないのだ。わたしを生かすのは父の口から出る全ての言葉だ。これがわたしを生かすのだ。」

イエス様は、アダムとエバが陥った誘惑に対し、神様に依存する者として、神様だけに信頼するという謙遜によって打ち勝たれたのです。

次に、悪魔は、イエス様を幻の中でエルサレム神殿の頂に立たせ、言います。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

悪魔は、イエス様が第一の試みを聖書の言葉で退けられたため、今度は聖書の言葉を用いて試みてきました。しかし、これは、単に神様が危険から自分を守るかどうか試してみろと言っているのではありません。

エルサレム神殿の頂に立つ者とは、自らをメシア、イスラエルの救い主、イスラエルの王として世に現す者(偽キリスト)を意味します。(マタイ24:15、ダニエル9:27)。つまり、悪魔が言ったことは次のような内容だったのです。「あなたは神の子なのだから、自らをメシアとして現したら良いではありませんか。エルサレム神殿の頂に立ち、自らメシアだと宣言し、そこから空中浮揚して御覧なさい。皆があなたをメシアとして崇め、あなたに跪くでしょう。聖書にも、あなたの足が打ちつけられることはないと書いてありますから。あなたならできますよ。何故ためらっているのですか。」

イエス様は、これをなさろうと思えばできたはずです。嵐のガリラヤ湖の上を歩いて弟子たちを助けられたという記録が福音書にあります。

目に見えるイスラエルの王として、征服者ローマ帝国を駆逐し、イスラエル王国を再建すること、これは、イスラエルの人民が待ち望んでいたことでもあります。また、人々がメシアに期待することだったからです。イスラエルの王として生まれたイエス様です。それはイエス様が持っていた当然の権利であったのです。イエス様自身もその可能性を考えなくもなかった。だからサタンは、執拗にイエス様をこの考えに引きずり込もうとするのです。この試みは、この後にも何度かやってきます。

しかし、イエス様が目に見えるイスラエルの王になる道を選ばれたら、全人類の罪を贖うために十字架の道を行かねばならないというイエス様の目的は果たされないでしょう。人の罪は解決されず、人は永遠に神様との関係の回復を得ることができず、罪に縛られ、地獄の苦しみの中に閉ざされるのです。

しかし、イエス様は、この試みを「主なるあなたの神を試みてはならない」という申命記の言葉で退けられるのです。次のようにあります。

6:16 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

これは、出エジプト記17章の記事に基づいた戒めですが、モーセがイスラエルをエジプトから導き出したのち、荒野で水がなく、民は苦しみました。彼らは、「神は私たちと共におられるのか、おられないのか」と言って神様を試みました。もし共におられるのなら、水を与えて、共にいることの証明とせよと言ったというのです。忍耐強い神様は、そんな高慢な彼らを打たず、モーセの手によって彼らに水をお与えになります。

申命記は、神様が愛なのかどうか、神様が共にいるのかどうかの証明としてのしるしを求めてはならないと戒めます。イエス様が受けた試みは、神様が自分を守るかどうかためすということではありませんでした。自分がメシア、キリストであることの証拠としてのしるし(この場合、空中浮揚)を神様に求めるかどうかということだったのです。イエス様は、この申命記の言葉によって何を言っておられるかというと、そのようなしるしは与えられないと言っておられるのです。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。マタイ12:39

エルサレム神殿の頂に立ち、空中浮遊してメシアであることを証明するようなしるしは、神様が与えるしるしではない。そのようなしるしは与えられない。与えられるのは、ただ十字架と復活のしるしだけなのだ。(預言者ヨナのしるしとは、十字架と復活のしるしを意味します。)このことのために私は来た。このことのために私は自らを低くするのだ。空中浮揚することがメシアのしるしではない。自らを低くし、人からも低められ、侮辱され、打たれ、殺され地獄の底にまで落ちていく謙遜こそがメシアに与えられるしるしなのだ。わたしは、十字架の謙遜の道を歩く。父なる神様は私を復活させられる、とイエス様は答えておられるのです。

自分で自分の必要を満たせばよいという第一の試み、イスラエルの救い主、イスラエルの王としての自分を表し、全イスラエルから王として迎えられたら良いという第二の試みを退けられた悪魔は、ついにその本性をあらわします。もう悪魔は、イエス様に「あなたは神の子なのだから」とは言いません。むしろ、幻の中にこの世の権力と富、その栄華の全てを見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これらを全部あなたにあげましょう」と言うのです。

人が最も弱いのは、富と権力です。富と権力のためには人は悪魔に心を売ったりします。そのようにして、悪魔は人の心を捉え、罪によって縛り、この世を支配しようとします。

この誘惑はイエス様の心の中にも働いたと聖書は言っています。それほど、強力なのがこの試みです。私たちには、「全部」という形ではなく、「少しだけ」という形で試みがやってくるでしょう。悪魔は、いろいろと魅力的なものをちらつかせて、神様以外のものに、すなわち自分に跪かせようとします。そして、このことによって、私たちが何のためにこの世に存在しているのか、自分が何故生きているのかという意味を失わせるのです。

サタンは、イエス様の存在の意味を無効にしようとしました。物質と権力に幻惑され、悪魔に跪くようなことをする時、神様に創造されたものたちが、その意味を見失ってしまう。

イエス様は、言われます。「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」申命記6:13の言葉です。イエス様は、この聖書の言葉によって悪魔に立ち向かわれます。ただ主なる神様を拝み、礼拝するのが人として来た私の存在理由である。何ものもこれを奪うことはできない。

私たちに与えられている存在理由も同じです。ただあなたの神である主を拝み、主にだけ仕えること、これが私たちの存在理由なのです。何者にもこれを奪われてはなりません。人は、富と権力の奴隷となるために創造されたのではありません。人は、尊い霊的な存在なのです。主なる神様を礼拝し、これに仕える時に、神様の溢れる栄光が私たちを包むのです。存在している本当の意味、生きる価値、愛することの喜び、愛されることの喜びを知ります。この聖書の言葉こそ、権力と富によって私たちを陥れようとする悪魔の策略に対して勝利する力なのです。

イエス様は神の子だから、誘惑なんて感じることはなかったということではありませんでした。40日40夜の断食という肉体的精神的な限界の中で、自分の心の中に囁くサタンの声を嫌というほど聞いたのがイエス様であり、イエス様は、これを聖書の言葉で退けられたのです。

この箇所は、神の子とは一体何者かということが問われていると最初に言いましたが、第一、第二、第三の試みに対するイエス様の答えこそ、神の御子とは一体何者なのかを明らかにしているのです。

1.神様がなさること以外、自分からは何もしない者。神様の口から出る一つ一つの言葉によって生かされる者。自らの必要を自分の権威と力によって満たそうとしない者。神様だけが自分の100%となる謙遜な者。

2.自らがメシアであることを現すしるしとは十字架と復活のしるしだけであること。

3.ただ、神様だけを礼拝し、これに仕えるもの。これによってこそ、神様の栄光と誉れと力と賛美、富を受けるにふさわしい者となるのです。

まさに、イエス様の戦いは、高慢との戦い、すなわち謙遜の戦いでした。そしてこの謙遜の戦いは、イエス様が聖書の権威の下にご自分を置かれたということにも見ることができるのです。イエス様はご自分の神の子としての権威とご自分の言葉で悪魔を退けられたのではなく、聖書の権威の下にご自分を置かれたということです。

謙遜のバプテスマによって神の子の本質を現されたイエス様に対するテストは、まさに、その生涯をとおして謙遜であり続けるか、父なる神様に全てを委ねるか、謙遜の十字架の道を歩くかということを突きつけるものだったのです。そしてイエス様は、この戦いに勝利して下さいました。

イエス様の謙遜こそ、悪魔に対する勝利です。私たちもイエス様の謙遜を頂き、それを学ぶ者でありたいと願います。

神様の前に謙遜なあり方とは、自分の持っている正当な権利さえ主張しないこと。それさえも神様にお返しすること。自分の意思で自分の権利を行使しないこと。そこに限りない天からの聖霊が注がれるのです。神様が私たちの全てとなって下さるのです。

ヘブル5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、 5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

祈りましょう。

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