マタイの福音書 第21章1~11節
岩本遠億牧師
2021年2月14日
さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。マタイの福音書 21章1~11節
イエスは王としてエルサレムに入城した
ロバの子に乗ってエルサレムに入城
=自分がメシアであることを示す
子ロバには、跨っても、両足が地面につく。
股で子ロバを挟むようにして歩くことしかできない。
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
イスラエルが王を求めた時(紀元前11世紀)に神が与えた宣告
Iサムエル記8章
「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。 8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。 8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。 8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。 8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。 8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。 8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
ゼカリヤ書 9章9~12節
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。
上着を敷き、シュロの木の枝で歓迎する
=王を迎える態度
王としてのエルサレム入城
真の王とは何かを明らかにする入城
この世の王は戦いを語る=作る
対立するものを征服することによって平和をもたらす=戦争による平和
神=平和を造るもの=戦争によらず平和を造る
真の王=神の子
神の方法による平和の実現
エペソ人への手紙 2章14~19節
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。”
平和=愛といのちが満ち満ちた状況、状態
→分離、対立が存在しない=罪がない状態
罪=的を外す=分離させるもの=関係が正しくない状態
神との平和=神との全き(一つの)関係
自分との平和=自分自身との全き(一つの)関係
人との平和=人との全き(一つの)関係
イエス・キリストの十字架の血
=罪を取り除く、罪(分離)そのものを廃棄する
→神による完全な平和の実現
「いさおなき我を」の作詞者
シャーロット・エリオット
1789-1871
牧師の家系に生まれる
30歳の時、病気がもとで身体障害
者となる→苛立ちと怒り
Malan博士との出会い
「あなたはキリスト者ですか?」
「宗教の話などしたくありません」
「気に障ることを話題にしてすみませんでした。ただ、私は、あなたがあなたの心を神様に委ねて、そして、神様があなたに与えておられる賜物によって神様のために働くことができるようにと祈ります。」
高慢な自分に気がつく。
3週間後
「私は、救われたいです。私は神様のところに行きたいです。しかし、どのようにして神様のところに行ったら良いか分からないのです。」
「そのままのあなたのまま、神様のところに行けば良いのです。罪人のまま行けば良い。」
クリスチャンとしての生活を始めたシャーロット、しかし、身体の苦しみのために、苛立ちと惨めさに苛まれる。
1834年、兄のエリオット牧師が、聖職者の娘たちのための高等教育学校設立ための計画を立てる。
→教会を挙げて、資金作りのバザーを
行うが、シャーロットは何もできない。
惨めで役立たずの自分
⇕
聖霊の働きかけ→感情によらず、救われているという事実、主イエスがこのままの私を招いてくださっているという事実に立つ。彼女と同じ境遇にある人々を思い、詩を書く。
1.Just as I am, without one plea,
but that thy blood was shed for me,
and that thou bidst me come to thee,
O Lamb of God, I come, I come.
このままの私、何も申し開きすることもできません/
ただ、あなたの血潮が私のために流されたから/
あなたが私に来なさいと命じて下さっているから/
神の小羊イエスよ、御許に参ります
5. Just as I am, thou wilt receive,
wilt welcome, pardon, cleanse, relieve;
because thy promise I believe,
O Lamb of God, I come, I come.
このままの私を、あなたは受け入れ/
歓迎し、赦し、清め、休ませて下さる/
ただ、あなたの約束を信じているだけですのに/神の小羊イエスよ、御許に参ります
6. Just as I am, thy love unknown,
hath broken every barrier down;
now, to be thine, yea thine alone,
O Lamb of God, I come, I come. このままの私、あなたの愛は知らぬ間に(人に知られぬあなたの愛は)/
全ての壁を打ち砕いてくださった/
今、私はあなたのもの/
そう、あなただけのもの/
神の小羊イエスよ、御許に参ります
全ての壁を打ち砕く十字架の血
罪の壁、生い立ちの壁、健康の壁、
感情の壁、主義主張の壁、民族の壁、
宗教の壁、全ての壁を打ち砕く愛
この方の十字架の血が、私たちを神の子とする。全ての人を神の子とする。真の礼拝者とする。完全な者、聖なる者とする