ルカの福音書第11章1節〜13節
岩本遠億牧師
2012年10月28日
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
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1517年の10月31日、アウグスチヌス隠修道士であり、ウィッテンベルク大学の神学部教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力を明らかにするための討論」という95か条の提題をウィッテンベルク城教会の門に張り付けました。ここに聖書の時代以降、最も重要な歴史の転換点となる「宗教改革」が始まりました。ルターによる宗教改革なしにプロテスタント信仰はなく、今のドイツもイギリスもアメリカもなく、今の日本もない。そして、私たちも存在していなかったという事実に私たちは目を留めるべきでしょう。私たちが今このように喜びと平安の中にイエス様を信じ、生きていけるのも、宗教改革によってキリスト信仰が聖書の原点に帰ることができたからです。
5年後の2012年10月31日には、宗教改革500年の記念行事が全世界の至る所で行われると思います。私は、その時を楽しみにしています。この時代に生きることができ、とても幸いに思います。
ルターは、次のようなことを言っています。「イエス様が十字架にかかり、その血の代価をもって私たちを贖って下さった。今私たちは、神様の御前に完全な者として、神様の前に受け入れられている。もう私たちは、自分が救われるために何もすることがない。自分を高めるために、また自分を清めるために何もすることはない。キリスト者に残されているのは、人に仕えることだけだ」と。
イエス様の十字架による贖いがないならば、私たちは救われるために修行をし、自らを清めるために禊や滝浴びをしなければならないでしょう。また宗教的に高い境地に達するための断食祈祷や修行に専念しようとする人もいるでしょう。ルターは、これらを「梯子の神学」と呼びました。救いの梯子、清さの梯子、宗教的境地の梯子を登ることに一生懸命になって人を見なくなることがある。自分の宗教的な思いを満たすことを第一として、隣で苦しみあえいでいる人を無視することが起こり得る。
ルターは、このような事態に対して、イエス様の十字架によって救われた者が、自分のためになすべきこと、できることは、何もないと断言しました。そして、私たちに求められているのは、この心と体を人に向けることだ。彼らに仕え、生かすことだと言いました。
イエス様が十字架にかかられたのは、私たちがもう自分のために生きなくてもよくするためです。イエス様が愛して下さったように、互いに愛し合うためです。互いに低い者、小さい者として愛し合い、活かし合うためです。
今日私たちは、宗教改革記念礼拝を行っていますが、ルターが語ったこの観点から、今日の箇所である「主の祈り」を見ていきたいと思います。「主の祈り」は、クリスチャンの祈りの基本です。私たちが祈る様々の祈りも、この「主の祈り」に結びついたものである時、主の御心を願い求める祈りとなる、それが「主の祈り」です。
「主の祈り」は、この地上を歩む私たちが、天に属する者であるということを体験的に教える祈りであります。天に属する者としてこの地上を生きる。そのことを知る時にどうしても必要となる祈りがあります。天に属する者としての祈りと、この地を生きる者としての祈りです。
天に属する者としてこの地を生きるとはどのようなことか。天に属する者とは、神の子であるということです。イエス様の子供ということです。イエス様は王の王、主の主でいらっしゃる。この王の子、王子、王女としてこの地を生きるということであります。
皆さん、自分が王子、王女としてどのようにこの地を生きたいと思いますか。多くの召使いたち、家来たちにかしずかれて、贅沢な生活をしたいと思いますか。それが真の王子、王女の生き方でしょうか。真の王子、王女とは、宮殿から被災地に遣わされ、そこで苦しむ人たちと共に生き、彼らを助ける者たちです。
人々の悲惨な状況を体験的に知り、それを解決するために必要な救援物資を送るように宮殿に連絡をするでしょう。すぐに必要な援助が届かない時には、援助が届くまで何度も何度も、連絡をするでしょう。そして、それが届いたならば、それを自分のためではなく、苦しむ人たちのために使うでしょう。
苦しむ者たちの尊厳を回復し、王なる神様の御心をこの地に実現すること、これが真の王子、王女としてこの地を生きる者たちの存在の目的であります。そして、その目的を実現するためには、宮殿への連絡が必要となる。それが祈りであります。「主の祈り」は、まさにそのように天に属する者としてこの地を歩む私たちが、存在の目的を達するためになくてはならぬ必要なものなのです。
もし私たちがこの地に属し、この地を歩むだけの者であるのなら、私たちの祈りは、自分の思いの実現を求める願い事だけを繰り言になってしまうでしょう。しかし、天に属する者としての祈りは、これとは全く性質の違うものです。私たち個人の思いの実現のための願い事ではなく、神様の御心がこの地に実現していくための祈りと、この弱い肉の問題に天からの解決を求める祈りであります。
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イエス様は、神様に向かって「父よ」と呼びかけるようにとお教えになりました。この地上には私たち一人一人に肉の父がいるように、天には私たちの霊の父がおられる。私たちの存在はこの地上に結びつけられたものではない。あなたを創造し、あなたを育て、育み、生かして来られた天の父がいる。全てのものの創造者である神様が、完全な父親としてあなたを愛しておられるというのです。ここに私たちの祈りの基盤があります。
日本人は、どこの誰だか分からないものに簡単に手を合わせます。たくさんの神社があり仏閣がある。そこで祭られているものがどのようなものなのかということを深く考えることもなく柏手を打ち、手を合わせる。私は数年前に家内と一緒にバスツアーで東北地方を旅しました。すると、同じバスに乗っていた人たちが平泉の中尊寺金色堂の前で手を合わせる。また同じ人たちが、バスが何か動物を祭っている社の前を通った際に、それに向かって手を合わせる。私は同じバスに乗っていた多くの人たちがそのように何にでも簡単に手を合わせる姿を見て、唖然としました。偶像崇拝は人間の理性を卑しめるものです。私たちはそのような愚かな、人間の理性を愚弄するような偶像崇拝に加担してはなりません。
私たちが礼拝するお方は、どこの誰か分からないものではありません。私たちのこの滅ぶべき肉に命の息を吹き込んでくださったお方、私たちが自分の存在の全てをもって信頼できるお方、私たちの存在を背負い、握ってくださっている、天地を創造なさったただ一人の神に私たちは祈るのです。この方が私たちの父です。私たちの天の父は、王の王、主の主であります。私たちは、王の王、主の主の子供、まさに王子、王女として祈る。そのような祈りの世界にイエス様は私たちを招き入れてくださったのであります。
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前半の「御名があがめられますように。御国が来ますように」は、天に属するものとしての祈りであります。今日は、この2つについて学びたいと思います。
「あがめられますように」と訳されている言葉は、「聖とされよ」という意味です。「聖」とは、他の全てから完全に区別された、隔絶されたものという意味ですが、日本語では「神聖」という言葉がこれに当たるでしょう。
「あなたの御名が神聖なものとされますように」というと、若干の違和感を覚えるかもしれません。何故かと言うと、神様の御名は、私たちが祈ると祈らざるとに拘らず、初めから神聖なものだからです。しかし、神聖である私たちの天の父の名が卑しめられ、汚されている現実がこの世にある。神を神とも思わぬ者たちがこの世で幅を利かせ、弱い者たちを踏みにじっている現実があるのです。また、私たちの中にも罪の誘惑や高慢があり、神様の御思いよりも自分の思いを優先し、罪に引きずられるようなことがある。神様の御名の神聖を守りきれていない現実があります。ここに天に属しつつこの地を歩む私たちの呻きがあり、祈りがあります。
「あなたの御名が神聖なものとして、あがめられますように。先ず、この私の中にあなたの御心を求める心を確かなものとしてください。この存在があなたの神聖を証しする者としてください。この私の生きる姿を見て、人々が『確かにイエス・キリストは生きておられる』と告白するような者と、この私を清めてください。」
「あなたの御名が神聖なものとされますように」という祈りはどのように実現して行くのでしょうか。それは、私たちがキリストの神聖を証しする者、キリストの王子、王女として生きることによってであります。クリスチャンとは、キリストのものという意味ですが、私たち一人一人には、「キリスト」という名札が付けられているのです。私は一時期、毎朝自分の手に「主のもの」と書いて一日を始めていたことがありました。イザヤ書44章に「ある者は自分の手に『主のもの』と記す」と書いてあるからです。自分の思いの全て、自分の行為の全てが主のものであるようにとの祈りを込めて一日を過ごす。
自分自身が罪と欲望を肯定し、人を傷つけても何とも思わないような生活をしながら、「御名があがめられますように」「あなたの御名が神聖なものとされますように」と祈るということはあり得ないのです。先ずこの自分の存在そのものが神様の御名の神聖を証しするものと変えられていくための祈りなのです。
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「御国が来ますように」も同様です。イエス様は、次のように言われました。「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11:20。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:20-21。
ここで「神の国」「御国」という場合の「国」というのは「支配の及ぶ範囲」という意味です。イエス様と共に神の支配がやって来て、悪魔の支配が打ち破られた。イエス様が悪霊どもを追い出しているのは、神の支配がやって来たからです。
しかし、その上で「あなたの支配が来ますように」と祈れと仰っています。これについては、歴史の最後の終末にやって来る神の国の到来のことを指していると解釈する神学者たちも多いですが、そのように解釈するだけだとイエス様の真意を聞き誤るだろうと私は思います。
確かに、この地にはいつか必ず最後の時、神の国の支配が確立する時がやってくるでしょう。私たちはそれを求めて祈るべきです。ヨハネの黙示録の最後にも「主イエスよ、来てください」と祈れと語られています。
しかし、単に未来に期待を寄せながらそのように祈っているだけなら、私たちの信仰は空虚な実質のないものになってしまいます。私たち自身が神の国、イエス様の支配を来らすために、自分の生きているところで自分のできることを始める、そのことがなければ、終末における神の国の到来もないのです。
私たちの周囲に飢えている人がいるなら、私たちが自分の食べ物をその人たちと分かち合う。病んでいる人がいるなら、その人のところに行って共に祈る。悲しんでいる人がいるなら共に泣く。喜んでいる人と共に喜ぶ。このようにして神様の御心をこの地上に行っていく人たちがこの地に増え広がり、この地を生かすようになっていく時、終末における完全な神の国が到来するのです。
最後の時が来ると聞くと多くの人が気味悪がったり恐れたりします。しかし、神様は人を恐怖に陥れるためにこのように仰っているのではありません。神様に滅ぼされるのではないかと恐怖と絶望によって神の国の到来を迎えるのではなく、喜びと希望をもって迎える人々がこの地に現れ、そのような人々によってこの地が祝福されるようになるのを神様は待っておられるのです。
神様の御国を求める心は、先ず自分の周囲に神の国の業を行う行為を起こさせる。この箇所のすぐ後ろの箇所で、しつこく祈る者に神様は答えてくださるとイエス様は教えておられます。そこを注意深く読むと、このしつこく頼み続ける人は、自分のために頼んでいるのではないのです。旅を続けて夜遅く到着し、飢えている人に食べさせてあげるものがなく、その人のために頼み続けているのです。
イエス様は私たちにしつこく祈れと教えておられます。それは、私たちが自分の思いを実現するためではありません。私たちが隣人に仕えていくことができるようになるためです。私たちには隣人を愛する愛が足りないのです。私たちは自分の力で隣人を愛し抜き、彼らを生かし切ることができない。だから私たちには祈りが必要なのです。
隣人を生かし、愛するものを苦しめている悪霊と戦うために、私たちは聖霊に満たされることを必要としています。自己陶酔と霊的高揚感を楽しむために聖霊を求めるのではありません。
先ほど、マルチン・ルターの言葉を紹介しました。イエス様の十字架によって救われた者が、自分のためになすべきこと、できることは、何もない。私たちに求められているのは、この心と体を人に向けることだ。彼らに仕え、生かすことだと。
主の祈りの最初の2つの祈りは、まさに、私たちが天に属する者として、隣人に仕え、隣人を生かし、悪霊の働きを封じ込めるための祈りなのです。私たちはこの業を自分の力で行うことはできません。祈ることが必要なのです。与えられるまでしつこく祈り求めることが必要なのです。私たち自身が低くなり、謙遜な者となってキリストの御名によって祈り始め、行動を始めるとき、9節からのイエス様の御言葉が実現するのです。
「11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
祈りましょう。