「ルカの福音書」 連続講解説教

与えられたものを信じて

ルカの福音書講解(90)第19章11節~27節
岩本遠億牧師
2013年8月11日

19:11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。

19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』19:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』19:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』

19:20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
19:23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』

19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』 19:25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。 19:26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。 19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

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イエス様がここでお語りになっていることは、人々のイエス様に対する期待と、イエス様が為そうとしておられること、そしてイエス様の私たちに対する期待との間に大きなずれがあるということです。

人々は、イエス様がエルサレムに入城なさったら、王となり、支配者であるローマ帝国を打ち倒してくれると思っています。一方、イエス様は自分は王位を受けるために遠いところに行く、すぐには帰って来ないとおっしゃっています。

人々は、イエス様が王になったら全てがバラ色に変わると思い込んでいる。しかし、イエス様は、与えられたものを自ら用いて生きよとおっしゃっている。イエス様は、ここで、イエス様がもう一度来られる時まで、イエス様の僕たちがどのように生きるべきかということと、イエス様に反対する者たちへの裁きを教えられていると一般的に理解されていますが、これが取税人ザアカイの家で語られたということ、そして、この話しが事実と譬え話の組み合わせになっているということも、この箇所を理解する上で重要なポイントであります。

イエス様は「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」と語り始められます。すると聞く人は、このエリコの町に非常に関係の深かった領主アケラオのことを思い出したに違いありません。アケラオというのは、イエス様が生まれた時にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子たちを虐殺したヘロデ大王の息子です。紀元前4年にこのヘロデ大王が死んで、領土が3分割された時、ユダヤの王位を与えられるためにローマ皇帝アウグストゥスのところに上って行きました。

しかし、一方、アケラオが王となることを望んでいなかったユダヤの人々の代表50名もローマに赴き、アケラオを王位に就けないようにとの請願をローマ皇帝に行ないました。これが「19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」というイエス様の言葉と一致しています。結局、皇帝アウグストゥスは、アケラオをユダヤの王とはせず、領主という一段低い位を与えますが、現地における権限は王と大きく変わるものではありませんでした。それで、ユダヤの領主として帰って来たアケラオは、自分が王になることを望んでいなかった者たちに対して、残虐な仕打ちをし、三千人を殺したと言われています。エリコには、このアケラオが建設した宮殿がありました。ですから、イエス様がこの話しをなさった時、聞く人たちは、アケラオとその反対者たちのこと、そしてその帰結をすぐに思い出したに違いありません。

イエス様は、この話しによって何を伝えようとなさったのでしょうか。まず、イエス様はこれから遠いところにいらっしゃるということです。イエス様がエルサレムに入城したら、イエス様はイスラエルの王座に着き、すぐにでも神の国がやってくる、イエス様について来ていた人々はそのように思っていました。しかし、イエス様は、十字架にかけられ殺され、復活なさった後、天に昇り、永遠の王となられる。確かにイエス様は王となられる。しかし、当時のイスラエルの人々が思い描いていた王国のイメージとは全く違った王国が実現する。しかも、イエス様がそのような王となることを望まない者たちがいる。そのことをおっしゃっているのです。

私は、この言葉がザアカイの家で語られたということに、意味があると思います。このことは、イエス様のこの箇所の最後の言葉「19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」とミナの譬えをどのように理解すべきかということの示唆を与えているのです。

先週お話ししましたが、ザアカイはイエス様がイスラエルの王になることなど、とんでもないことだと思っていました。何故なら、彼は支配者ローマ帝国の手先になって徴税請負業を営み、イスラエル(特にエリコ)の人々から税金を絞り取っていたからです。イエス様がイスラエルの王になったら、ザアカイはエリコの人々に殺されてしまうでしょう。ザアカイは、「ナザレのイエスがイスラエルの王になるなど、絶対に阻止しなければならない」と考えていたはずです。

しかし、イエス様は、そのようなザアカイを滅びから救い、ザアカイとエリコの人々の間に和解と平和をもたらすために、ザアカイの客となられ、ザアカイの最も親しい友となられました。イエス様が王となることを望んでいない者を救うためには、その人の客となり、その人の最も親しい友となる以外に方法はなかったからです。しかし、そのことがザアカイの心を動かし、ザアカイの全てを変えたのです。彼は、自分の財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取ったものは、誰であれ、4倍にして返すと宣言し、エリコの人々に謝罪し、正しく生きることを求めるようになるのです。

この、ザアカイの家でイエス様を歓待したのはザアカイの仲間たち、すなわち、取税人組合の人々だったのです。この人たちは、例外なく、イエス様がイスラエルの王になることを阻止すべきだと思っていた人たちです。そのような席で、イエス様が「19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」と言われたことはどのような意味があったのでしょうか。

言うまでもありませんが、「ザアカイとその仲間たちを殺してしまえ」などとイエス様が仰っているということはないわけです。むしろ、ザアカイもその仲間たちも、イエス様こそ真の王となるべき方なのだということを知った。自分たちは、イエス様が王となられた時には滅ぼされるべき者であったのに、今、イエス様の友とされ、救われた。そのことを彼らは実感したのです。

イエス様が王としてもう一度この地にやって来られる時、サタンとその手下どもを滅ぼされるといことは、神様のご計画の中にあります。しかし、罪によって何が真実なのか、誰に従うべきなのか、どこに向かって歩いたら良いのかが分からず、無知と誤謬の中でイエス様に反対している人たちについては、これらの人々を回心に導けとおっしゃっているのです。だから、ここでミナの譬えを話されたのです。

19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

イエス様が十字架と復活によって全人類の贖いの業を完成された後、天に帰って行かれる。もう一度私たちのところに戻って来られると訳そしてくださっていますが、それが何時になるかは私たちには知らされていません。

その間、一人一人に1ミナ与える。それによって商売をせよと言われる。1ミナとは、100日分の給与に当たると言われます。今の日本なら時給1000円として、80万円ぐらい。正規社員、正規職員として働いている人なら、また違った金額になって来るでしょう。何れにせよ、大きな事業を始めるというには十分でない金額です。小さな商売を自分のできるところから始める、何か小さなことからなら始められる、そのような金額です。

では、イエス様が一人一人に1ミナお与えになるとはどのような意味でしょうか。マタイの福音書にも類似の譬え話がありますが、そこではタラントという莫大な金額が与えられています。5タラント与えられる僕、3タラント預けられる僕、1タラント預けられる僕が出てきます。このタラントについては、能力であるとか、使命であるとかと言った解釈が与えられていますが、私は、そのタラントとはイエス様が最も大切になさった「人」であるとの解釈で何度か説教をし、それを『元気の出る聖書のことば・神さまの宝もの』に載せました。次のような内容です。能力に合わせて、5人の人を任せられる人、3人の人を任せられる人、1人を任される人、そこには不公平はない。そして、5人を預けられた人と3人を預けられた人が、それらの人々を大切にすることによって愛の集団を作り上げたことを帰って来た主人は喜んだが、1人を任せられた人が、その人を放ったらかしにしたことを主人は怒った。イエス様がマタイの福音書に残されている最後の長い説教で弟子たちにお命じになったことは、人を大切にする、隣人を自分の宝ものとすること以外にないということをイエス様はお語りになったのです。

ここでは、ミナと言われています。タラントに比べるとはるかに少ない金額です。勿論、タラントの譬えと同じように解釈することも可能でしょうが、むしろここでは、一人一人に等しく与えられているものと理解するほうが自然かと思います。これを神の言葉と理解することができます。イエス様は、これを用いて神の国のための働きをせよとおっしゃる。周囲にはイエス様が王となることを望まない人たちが大勢いるのです。そのような中で、自分に与えられている神の言葉、聖書の言葉だけでは大きな働きはできないと誰もが思うのではないでしょうか。

もっとたくさんの聖書知識があれば、もっと大きな働きができるのではないのか。今与えられているものでは不足を感じる。そのような時、あなたはどうするでしょうか。

聖書知識がたくさんあれば伝道が成功するかというと、それは違います。たった一つの言葉で良い。自分の心の奥に植え付けられた聖書のことば、それを語る時、その聖書の言葉自身が働くのです。私もイエス様に出会った時、一つの聖書の言葉が自分の心の奥底に響き渡りました。それは、「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という第一ヨハネ1:7の言葉でした。そして、私は誰かにイエス様のことを話す時、イエス様がどのように自分を救ってくださったか語る時、この言葉だけを語って来たのです。自分の存在を根底から変えた聖書の言葉、それは多くの場合一つなのです。

祝福の基と言われたユダヤ人の祖先アブラハムは神さまの声を聞きながら生きた人でしたが、彼を根底から変える神様の言葉は一つでした。彼も妻も老人になってしまっていましたが、神様が約束なさった跡取りの息子は生まれませんでした。子孫にイスラエルの地を与えると神様は約束しておられましたが、アブラハムはそれを信じることができません。そんな時、神様はアブラハムを天幕の外にアフラハムを連れ出し、満天の夜空を見せて言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」この時、アブラハムは初めて神様を信じたのです。この言葉が彼の存在を根底から変えた言葉でした。

パウロもそうです。イエス様に出会ったときにイエス様からかけられた言葉を伝道の行く先々で語るのです。彼は、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。…わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』とイエス様に言われたことばを、ユダヤ人の前でも、アグリッパ王、総督フェストの前でも語りました。このことを語ることが復活のイエス様こそ王の王、主の主であるということを証言する最も確信をもって語ることができた言葉だったからです。

私たちの存在を根底から変える言葉があります。それは一つです。人それぞれ違いますが、その一つの言葉があれば、神様の働きをすることができる。

それは、今、神様の敵となって、イエス様が王として帰って来ることを望まない人たちにイエス様の言葉を伝えることです。たくさん伝えられなくて良いのです。あなたの存在を根底から変えたその一つの言葉を伝えれば良いのです。その言葉を一人の人、二人の人、三人、四人、五人の人と分かち合う。5ミナ儲けたとは、あなたが語ったその言葉が、五人の人の心に留まったということです。3ミナ儲けたとは、三人の人の心に留まったということです。あなたの心にあった1ミナが5ミナに、3ミナに増えたのです。

ここで、「儲けた」と訳してある言葉は、「増えた」という意味です。自分が頑張ってもうけたのではありません。増えたのです。良い地に落ちた種、神のことばは、30倍、60倍、100倍になるのです。与えられたミナ、あなたの心の中に植え付けられた神の言葉そのものの中に増える力があるのです。

あなたを根底から変えた神のことばは、他の人を根底から変える力があるのです。

この譬えに出て来る最後の人は言いました。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』

風呂敷と訳してある言葉は、手ぬぐいと言ったほうが良いものです。日焼けしないように首に巻いたり、汗を拭いたりするようなものです。日本人が思い浮かべる絹の風呂敷ではありません。汚れた粗末な布なのです。何故そのようなものに入れたままにしたのか。これだけでは何もできないと思ったからです。そして、無駄に使ってしまったら、主人に叱られると思い、汚い布に入れて放っておいた。何故なら、主人は蒔かないところから刈り取る厳しい人だからだというのです。

折角心に蒔かれた神の言葉も何の役にも立たない。無駄に使うと、周囲から攻撃されることにもなる。そんなことなら、使わず取っておけば良い。失ってしまうよりはましだろう。

しかし、皆さん、もしこの人が与えられた1ミナを失ってしまったとしたら、この主人はこの人をどうしたと思いますか。厳しく叱るでしょうか。私は、この主人はこの人を叱らず、もう一度1ミナを与えるだろうと思います。主人がこの人を厳しく叱責したのは、主人に対して偽りの証言をしたからです。「あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方だ」と言っていますが、これは偽りです。

主人は、預けたのです。神の言葉を蒔いたのです。イエス様はご自分のことを種を蒔く者だ、神の言葉を蒔く者だと自己紹介しておられます。土を耕し、石を掘り起こし、いばらを抜いて、何度も種を蒔いてくださるのです。そして言われます。それを他の人と分かち合いなさい。

もう一度言います。あなたを根底から変えた聖書の言葉は、他の人を根底から変える力があるのです。イエス様の敵として歩いていたあなたが、イエス様の最も親しい友とされたように、今、あなたの周囲でイエス様の敵として歩いている人たちが、あなたが分かち合う言葉によって、イエス様の最も親しい友とされて行くのです。

皆さん、どうぞ、今日もう一度自分を根底から変えた神の言葉、聖書の言葉を思い出しましょう。その言葉を心の中で繰り返しましょう。その言葉をいつも口ずさみましょう。あなたの1ミナは強められて行くでしょう。あなたの周囲にイエス様を王として迎える人の集団が作られて行くのです。もし、あなたがまだそのような言葉を与えられていないと感じるなら、どうぞお祈りいただきたいと思います。「神様、私を存在の根底から変えるあなたの言葉をください。私にもその1ミナをください」と。

祈りましょう。

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