「ヨハネの福音書」 連続講解説教

信 頼

ヨハネの福音書2章23節から25節
岩本遠億牧師
2009年3月8日

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

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「信じる」「信頼する」ということは人間関係において最も重要なもので、これなしには家庭生活は成り立たず、社会生活も進んでいくことはできません。互いに信じ合い、信頼し合うことによって共にいることに喜びがあり、また一緒に何かを動かしていくことができるのです。

では、私たちはここで立ち止まって考えてみたい。「わたし自身は人から信じてもらうに足る人間か」「自分自身は信頼するに足る人間か。」どうでしょうか。自分の自己中心的な心、隠れた欺瞞や罪、意地悪な心、弱い心などを正直に振り返ると、自分を一番信用できないのはこの自分ではないかと思わざるを得ない。皆さんは、どう思われますか。

さらに、「自分は全てを知っている神様に信じていただける人間か。神様に信頼していただける人間か」と問うとき、どうでしょうか。神様は私たちを信じて下さっているのでしょうか。あるいは信じて下さっていないのでしょうか。

聖書には次のような言葉があります。「3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」これでは、誰も神様に信用していただけないようです。

今日読んだヨハネの福音書でも、イエス様はご自分を信じた者たちをお信じにはならなかったとあります。しかし、私は以前からここはどうも納得いかない箇所の一つでした。人間同士なら、一方が他方を信じるというなら、じゃあ、私もあなたを信じましょうというのが普通ですし、それがなかったら健全な人間関係を持つことはできません。ところが、ここでは人間のほうがイエス様を信じたというのに、イエス様はそれらの人を信じないというのです。「任せる」と訳してある言葉は、「信じる」と訳してある言葉と同じです。イエス様も信じてくれれば良いのに。何か納得いかない感じがしませんか。

人間は、自分が他の人から信頼されている、信じられていると思える時に、救われた感じがします。それは自分という人間が受け入れられたと感じるからです。あなたなど信じない、信頼できないと言われたら、自分の全てを否定されたと感じます。ですから、イエス様がご自分を信じた人々を信じなかった、ご信頼にならなかったと言われる時、ショックというか、納得いかない感じを受けるのです。

これを私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。私は、今日のこの箇所から少なくとも二つのことを学ぶことができると思います。

一つは、イエス様が彼らをお信じにならなかった、お任せにならなかった理由があるということであり、もう一方でイエス様が信じて下さるものがあるということです。

イエス様が彼らをお信じにならなかった理由は何か。「なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである」とあります。心の奥底にあるものを全て知っておられた。「信じた」という言葉や心の奥に何があるかを知っておられた。そこに信用できない、信頼できないものがあったということです。それは、彼らが「イエスの行っておられたしるし(複数)を見て信じた」と書いてあるところから窺い知ることができます。

イエス様は、宮清めの後、過越しの祭りの間エルサレムに留まりそこで多くのしるしを行われました。それは病人を癒すものであったでしょう。また悪霊に苦しめられていた人々を解放する働きであったと思います。彼らはそれを「見て」信じたのです。

しかし、「しるしを見て信じる信仰」はイエス様の信頼を得ることができるものではないと聖書は言うのです。大勢の人々を養われたパンの奇跡の後も、ほとんどの人々がイエス様のところから去って行きました。「しるしの信仰」は、しるしを見続けることによってしか満足しない。確かにしるしを見ると人は驚きますし、一時的には大きな反響を呼びます。しるしを見ることは、人間の実存を作り変える力はないのです。何故か、しるしはイエス様ご自身ではないからです。あくまでもサインでしかない。しるしだけを求める者は、いつまでたっても、その本質であるイエス様に出会うことはできないのです。

また、目で見た情景は、それをもう一度繰り返すことはできません。一度きりのものなのです。勿論、その情景を思い浮かべることはできますが、そのイメージは部分的であり、完全ではありません。先日行った食事会や講演会で、誰がどこに座っていたかを完全にイメージとして思い出すことができる人はほとんどいません。記憶に残る視覚イメージはあくまでも部分的であり、完全に情景を再現できるものではないのです。それだけでなく、視覚情報は私たちが意味を捉える時に用いる概念と必ずしも対応していないということが知られています。イエス様が行われたしるしを見ても、それがどのような意味を持つのか、またイエス様がどのような意味において救い主であるのかということを教えてはくれないのです。

8章にはまた「信じた」という言葉が出てきますが、次のとおりです。「8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

イエス様の言葉に留まることがイエス様の弟子となること、イエス様と共にあることなのだとおっしゃる。イエス様の言葉、聖書の言葉は、イエス様の実存とコインの裏表の関係にあるものであり、イエス様の言葉を聞く時、イエス様がどのような方なのかを知ることができ、イエス様に出会うことができる。そして、イエス様の言葉に留まる時、この方の言葉が、人間を根本的に、その実存を作り変えるのです。

「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、しかし、人間の内面を作り変える力、人間の実存を清める力は、神の言葉によるのであって、人間が自分の目で見るということにあるのではないのです。

イエス様は、最後の晩餐の遺訓の中で「15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と仰いました。また言われました。「わたしに留まるとは、わたしの言葉に留まることだ」と。これから弟子たちはイエス様に躓いてイエス様を否定して逃げて行くことが分かっていらっしゃいました。しかし、その弟子たちをイエス様は信頼しておられた。信じておられたのです。何故か。それは、彼らの中にイエス様が語られた言葉が留まっていたからです。

イエス様のなさるしるしを見て信じた者たちは信用なさいませんでしたが、イエス様の言葉を聞いて、イエス様の言葉が留まっていた弟子たちを信頼なさった。イエス様の言葉が彼らを導くからです。イエス様の言葉が、彼らを生かし、たといイエス様を否定して逃げて行ったとしても、イエス様の言葉が彼らの中で蘇るからです。

私たちが留まるイエス様の言葉、聖書の言葉、私たちのうちに留まる聖書の言葉、イエス様の言葉は、何度も何度も繰り返して言うことができる。心の中でも言うことができる。そしてそれが私たちの中にイエス様の姿として結実していくのです。私たちが聖書を読み、聖書の言葉を覚えようとする意味もここにあります。

たとい私たちの信仰が弱くなることがあっても、この言葉はもう一度蘇り、私たちを導きます。神様は、この言葉とこの言葉を受け入れた私たちを信頼して下さっているのです。

パウロは、聖書の中にコリントにいる基督信徒たちに向けて書いた二つの手紙を残していますが、その二つ目の手紙に「わたしのあなたがたに対する信頼は大きい」「わたしは、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができることを喜んでいます」(IIコリント7章)と書き記しています。彼が手紙を書き送ったコリント教会には、パウロを神様の僕と認めない者や汚れた生活を送っている者、悪意に満ちた者たちもいて、幅を利かせていました。そういう人たちに対する厳しい警告の言葉も書かれていますが、それでも、「わたしはあなたがたに全幅の信頼を寄せることができることを喜んでいます」と書くのです。

パウロの希望はどこにあったのか。それはパウロが彼らに伝えた神の言葉、イエス様の福音の言葉にあったのです。この言葉と共に、イエス様の御霊が彼らの中に生きて下さっている。この確信があったから、彼はコリントの人たちを信頼することができました。

私たち、自分で自分を信頼できないような者かもしれません。況や神様に信用されるなど考えられないようなものでしょう。しかし、イエス様の言葉が私たちのうちに留まるということが、私たちの実存を作り変える力があるのです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」こんな者たちに、これほどまでの権能と権威をお与え下さっている。イエス様の言葉に留まる者たちをそれほどまでに信頼して下さっているのであります。

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もう一つ、この箇所から学ばなければならないことは、イエス様がしるしをみて信じた人たちをお信じにならなかったということと、イエス様がそれでも彼らを愛しておられたということを区別して理解しなければならないということです。

私たちは、「信頼できない」イコール「愛せない」と短絡的に考えるべきではありません。夫を信頼できなくても、必死で愛している妻もいます。また、子供を信頼できなくても、自分の全てを子供のために注いで愛する親がいることは皆さんもご存じのとおりです。また、親を信頼できなくても、親であるが故に、傷ついた心で愛している子どもたちもいるのです。

イエス様は、しるしを見て信じた者たちにご自分をお任せになることはありませんでした。つまり、イエス様をイスラエルの王として担ぎ出そうとする彼らの思いに身を任せることはなさいませんでしたが、一方で彼らを深く愛しておられました。彼らのために命をお捨てになるためにこの世に来られたのです。

ヨハネの福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が永遠の命を得るためである」という言葉があります。今日のこの箇所は、ヨハネの福音書の白眉と言われる、この言葉に向かって進んでいく出来事のイントロダクションと位置づけられるものです。しるしを見てイエス様の御名を信じたけれども、イエス様に信じてもらえなかった人たち、彼らは永遠の命を得たのでしょうか。彼らは神の子とされたのでしょうか。その権能、その力を得たのでしょうか。

実に、神様に信頼されないような者を「御子を信じる者が永遠の命を得るためである」というイエス様による救いに結びつける、ここに神様の愛と十字架の贖いがあるのです。

何故か。聖書には、イエス様に信用される人間が救われると書いてあるのではなく、イエス様を信じる者が救われると書いてあるからです。先ほど、イエス様の言葉に留まる者たちに与えられる祝福についてお話ししましたが、イエス様の救い、神の子とされるという救いは、それに留まらない、もっと大きなものであるのです。言うならば、神様に信用されないような者、しるしを見て、自分の都合のために信じるような者を救いに至らせる神様の計画と愛があるのです。

父なる神様がイエス様をお遣わしになったこの世、イエス様が十字架に殺されたこの世には、果たして神様に信頼されるような人がいたのでしょうか。神様に信頼していただけるような人間が一人もいなかったから、神様はイエス様を十字架につけて全ての罪を許すためにこの世に送られたのではなかったでしょうか。

人間が神様の信頼を得ることができるような存在なのだったら、イエス様は十字架にかけられて死ぬ必要はなかったのです。神様の信頼を勝ち得ることができるような者でなかった。罪深いものであったから、そんな私たちを憐れんでイエス様は命を捨てられたのです。

ヨハネの福音書は言います。「イエスはすべての人を知っておられたからであり、2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられた」と。全てを知って下さるのです。悪いところを全部知って下さっている。しかし、それは拒絶するために知っているのではなく、赦すために知って下さっているのです。パウロは告白しました。「罪の増し加わるところに恵みも増し加わった」と。そうです。イエス様にとって知るとは赦すことであり、赦すとは死ぬことであったのです。父なる神様は、このイエス様を蘇らせなさいました。

イエス様の救いは広いのです。神様から信頼されないような私たちを救うのがイエス様の十字架の贖いです。そして、私たちの中に聖書の言葉、神様の言葉を聞かせ、私たちのうちに、イエス様の言葉を宿らせて、私たちを神様から信頼いただけるような者に作り変えて行って下さる。ここにイエス様の救いの広さと深さがあるのです。

私たちは何と幸いなことでしょう。

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