マタイによる福音書講解説教5章13節から16節
岩本遠億牧師
2006年10月22日
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
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マタイによる福音書を連続で学んでいますが、今日の箇所は、「地の塩、世の光」として有名な箇所です。イエス様は、あなたがたは「地の塩である。世の光である」と言われました。「地の塩となれ」とも「世の光りとなれ」と言われたのでもなく。「今、もう既に地の塩となっている。世の光となっている」とおっしゃっているのです。
これの箇所は、言うならば、先週まで学んできた8つの祝福の結論とも言うべき箇所であって、イエス様からの溢れるような祝福を受けた者たちに向かって言っておられるのです。イエス様は、どのような人たちに向かって祝福の言葉を語られたでしょうか。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
さらにマルコの福音書にはどういう人たちがイエス様に従ったかということが書いてあります。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。(新共同訳)
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。(新改訳)
特権階級の人々、自分こそ正しいと考える人々からは、いてもいなくても良いと思われていたような人々、時にはいないほうが良いと思われていた人々がイエス様に従い、イエス様は彼らを愛されたのです。「霊の貧しい者たち、悲しんでいる者たち、柔和な謙遜な者たち、義に飢え乾く者たち」がイエス様を求めて、イエス様なしには生きられずにやって来て、イエス様の言葉を聴き、祝福を受け、癒されて従いました。また、この人たちがイエス様の姿に似た者となるようにと「憐れみ深い者、心の清い者、平和をつくる者、義のために迫害される者」としての祝福を注がれたのです。
その人々に語られました。「あなた方は地の塩である。世の光である」と。イエス様が注がれる祝福によって私たちは地の塩となり、世の光となるのです。イエス様の祝福がわたしたちを地の塩とし、世の光とするのです。
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「地の塩」とはどういうものでしょうか。当時のイスラエルでは、岩塩を食用としていました、また死海からとれる塩の結晶もあったことでしょう。これらに食物を擦り付けて味をつけ食べていたといわれます。「塩が塩気を失ったら」というのは、岩塩から塩気がなくなったらという意味ですが、水に触れたり、湿気で塩が流れ出てしまうこともあったでしょう。あるいは、食物を擦り付けているので、それで塩気がなくなっていくこともありました。
塩は、食物に味を付け、また少量で私たちの身体を保つ働きがあります。また、防腐作用もあります。塩があるから私たちは食物を食べて、味を感じることができます。塩がなければ牛肉も豚肉も鶏肉もその美味しさを引き出すことができず食べることができません。塩は少量でも、自ら姿が見えないような存在でも、食物に意味を与えるのです。同じように、「あなたたちは、弱いかもしれない。いるのかいないのか世には分からないような存在かもしれない。しかし、あなた方がいるから、この世は意味を与えられているのだよ。その本当の価値を表すことができるのだよ。あなた方は地の塩だ」とおっしゃるのです。
若いときにイスラエルに留学していたことがある人から話を聞いたことがあります。雨の降らない乾燥地帯です。彼は、野外で数時間の作業をして、バケツ一杯の水を飲んでも癒されない渇きを経験したことがあると言っていました。そして、足りなかったのは水ではなく、塩だったんだと。塩が汗で流れ出てしまったため、体の調子がおかしくなったのです。
私も、血圧が低く、塩気の補給には気をつけていますが、塩を補給することで血圧が上がるからです。その他にもナトリウムイオンは、体の動きを司る重要な働きをします。私たちは塩がなければ生きて行けないのです。少量の塩が生物を生かします。イエス様は言っておられるのです。「あなた方がいるから、この世は生かされているのだよ。人には卑しいものと思われても、この地はあなたがたを必要としているのだ」と。
そして言われます。「あなた方は世の光だ」と。暗闇に輝く光だと。あなた方がいるからこの世は照らされ、人々は真理の道を見出すことができるのだと。これも、イエス様に祝福を注がれるから、私たちは世の光なのであって、イエス様から離れては暗闇です。
エペソ人への手紙に次のようにあります。
5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
以前暗闇だった者、罪に縛られ、呪いの子だったものが、今、イエス様に結ばれて、光となった。光であるイエス様に結ばれた。そして光となったのです。
イエス様は言われました。ヨハネ8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
本来的には、イエス様だけが光なのです。
ヨハネ1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・ 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(新改訳「1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。・・・1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
イエス様が真の光、真実の唯一つの光なのです。暗闇が打ち勝つことのできない光、これがイエス様です。この方に照らされ、私たちは救われました。この方の光が、私たちを照らすのです。
私たちは自分では光ることはできません。しかし、パウロは告白しました。「今、イエス様に結ばれて光となった」と。鉄はそれだけでは他の鉄を引き付けることはできませんが、磁石にくっ付いている鉄は磁石となり、他の鉄を引き付けます。同じように、イエス様に結ばれて光となったのです。イエス様が握ってくださっているから光なのです。世を照らす光なのです。これは、私たち自身の性格や能力とは関係がありません。イエス様と結ばれて光となったのです。
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イザヤ書42章に次のような言葉があります。
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
イスラエルのパピルス職人は、パピルスの籠を作るとき、傷のついた葦を見つけると折って捨てていました。また、暗くなっていく灯心とは、燃え尽き、捨てられていくものをさします。何れにせよ、使い物にならず捨てられるものを意味します。しかし、傷の付いたパピルスを折らず、暗くなっていく灯心を消さないイエス様がいる。
傷ついた葦を癒し完全なものとするイエス様がいるのです。燃え尽きそうな灯心をもう一度新たにするイエス様がいるのです。
イエス様は言われます。「わたしは燃え尽きた灯心を新たにし、これに聖霊の油を注ぐ。あなた方は世の光だ」と。
イエス様と結ばれて光となった。イエス様が燃え尽きた私を新たにし、聖霊の油を注いで下さるから、もう一度燃えることができる。光を放つことができるのです。
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イエス様は言われます。あなた方の光を輝かせなさい。これを大切にしなさい。この光の持つ意味と価値を本当に理解しなさい。山の上にある町が隠れることができないように、この光は隠れることはないのだと。
私たちは、もう一度、いいえ、何度も、イエス様がこの言葉を誰に語られたのかということを思い出し、確認したいと思います。世の有力者、特権階級の人々、自分こそは義人だと自信のある人々からは、いなくても良い、いないほうが良いと思われていた人々にこの言葉をかけられたのです。このような人々にイエス様は祝福を注ぎ、「あなた方は地の塩だ。世の光だ」と言われたのです。
私たちがそう思うから、地の塩になるのでもなく、世の光になるのでもない。イエス様が「天の国はあなた方のものだ。あなた方は慰められる。あなたがたは地を受け継ぐ。あなたがたは、神様の義によって満たされる。あなた方は憐れみを受ける。あなたがたは神を見る。天国はあなた方のものだ」と溢れる祝福を注いでくださるから、私たちは地の塩であり、世の光なのです。
キリストの平和教会では、毎週アシジの聖フランシスの祈りと伝えられる「平和を求める祈り」をご一緒に祈っていますが、イエス様に結ばれ、イエス様が祝福してくださる。だから、私たちは、地の塩、世の光として、キリストの平和を求め、キリストの平和の道具として用いられていくのです。
ご一緒に「平和を求める祈り」をお祈りしましょう。
「平和を求める祈り」
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。わたしたちは与えるから受け、ゆるすからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。(アシジの聖フランシス)