マタイの福音書23章13節から28節
岩本遠億牧師
2008年8月10日
23:13 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。23:14 [わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。] 23:15わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。23:16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』23:17 愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。23:18 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』23:19 目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。23:20 だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。23:21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。 23:22天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。 23:23わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。23:24 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
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皆さん、「偽善者」という言葉にどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。陰では悪いことを行っているのに、人の前では善人のふりをする人を一般に偽善者と呼びます。自分の本当の姿を隠して、人から賞賛を受けるようとすることも偽善です。しかし、そのような場合、このような偽善者は、人の目から隠れた自分の本当の姿と、人の目に見える部分が違うことを意識しています。
ある意味、すべての人が自分の人格に表と裏、光のあたる部分と陰の部分があることに気が付いており、自分が偽善者であることを知っているのです。そして、「主よ、どうぞ、この影の部分を赦してください」と祈ってきた。また、主も、そのような私たちに対して、「幸いなるかな。心の貧しい者。天の御国は、あなた方のものだ」と浅間なさり、裏の部分があることを意識し、その心の貧しさに絶望する者を祝福し、天の御国、天の支配を約束して下さったのではなかったでしょうか。私たちは、このイエス様の恵みによって救われたのです。
今日、私たちが聞いたイエス様の言葉の中には、「偽善の律法学者、パリサイ人たち」という言葉が何度も出てきます。少し調べてみますと、ここで言われる「偽善」という言葉は、どうやら、今言ったような、心の表と裏というような意味ではないようなのです。また、イエス様に「わざわいだ」と言って糾弾されている律法学者、パリサイ人たちは、さぞかし極悪非道の人間だったに違いないと、私たちは思いますが、実は、彼らの中には、立派な信仰者が多く、ここでイエス様が糾弾しておられることについても、文字通り素通りして読んでしまうと、事実と違うことになってしまうし、また、そのゆえに、イエス様の意図しておられたこととは違うことを理解してしまいます。
イエス様は、何を仰ろうとなさったのでしょうか。何を、今もなお語りかけておられるのでしょうか。
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具体的には、「23:16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『神殿を指して誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金を指して誓ったら、その誓いは果たさなければならない。また、祭壇を指して誓ったのなら、何でもない。しかし、その上の捧げものを指して誓ったのなら、その誓いは果たさなければならない』」と言われていますが、そのような理解は、当時の律法学者やパリサイ人たちの理解にはなかったということなのです。律法学者たちパリサイ人も、黄金よりも神殿、献げ物よりも祭壇のほうが尊いものであることは知っていたのです。では、イエス様は、パリサイ人たちが実際には言わなかったことに対して、それを非難するようなことをしておられるのか。
このことについては、加藤常昭先生というすぐれた説教者が次のように解説しておられます。つまり、イエス様は、彼らの生き方、信仰のあり方を評価して、「お前たちの信仰は、『神殿よりも黄金、祭壇よりもその上の献げ物のほうが価値がある』と言っているのと同じことなのだ」と仰っているというのです。
どういうことかと言うと、神殿に捧げられる黄金や、祭壇の上に捧げられる献げ物は、自分たちが捧げるものです。罪ある人間が捧げたものを聖くするのが神殿であり、また祭壇です。黄金や献げ物のほうが価値があると言うということは、神様の恵みの業、私たちを清める神様の恵みよりも、自分の行為、自分の捧げた物のほうが意味があるのだ、価値があるのだと主張することと同じことなのです。
まさに、神様の恵み、愛、憐れみよりも、自分の信仰の頑張り、自分の一生懸命な信仰の優越性を主張している、それが、律法学者、パリサイ人の生き方なのだ。それに対して、イエス様は「わざわいだ」という言葉で、これを糾弾し、嘆いておられるのです。
この「わざわいだ」という言葉は、呪いをかけるというような意味ではなく、痛みや悲しみの呻きを一緒にしたような嘆きの言葉です。「ああ、何ということだ」というような意味です。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの信仰のあり方を嘆いておられる。
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また、「偽善」という言葉も、裏と表というような意味ではないと申し上げましたが、ある注解書には、「客観的な偽善」「神様の目から見た偽善」と説明されています。つまり、これらの律法学者たちパリサイ人たちは、自分の中に表と裏があることに気付いていないのです。自分でも分からないような偽善を行っている。神様の目にしか分からないような偽善です。
つまり、彼らは、それほど完璧に生きていたのです。パウロも、イエス様に出会う前の自分のことを「非の打ちどころのない者だった」と言っています。どこが悪いのか自分で分からないのです。そのように人間的に完璧であるが故に、目の見えない指導者となり、自分が天の御国にはいらないばかりか、他の人をも入らせないという罪を犯しているのだとイエス様はおっしゃる。天国を遮っているのだと。
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23:15わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。
当時の律法学者やパリサイ人たちは、異邦人伝道を熱心に行っていて、ユダヤ教に改宗するように勧めていたようです。ところが、モーセの律法にとどまらず、それに付随する伝承律法を含めた律法を完璧に守って生きることが信仰であると教えられた者たちは、彼らよりもさらに厳しい律法主義者となり、神様の恵みを知らない者になる。神様と関係のない者になってしまうというのです。
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23:23わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
「はっか、いのんど、クミン」というのは、香料ですね。ほんの少し手に入るものです。そんな僅かな香料が手に入った時も、その十分の一を捧げていました。そのように全ての収入の十分の一を捧げることは尊いことで、イエス様もそれをおろそかにしてはならないと仰っていますが、それよりも遥かに重要な「正義とあわれみと誠実」を忘れてしまっている。
苦しむ者に手を伸ばすこと。悲しむ者を慰めること。病んでいる者たちを訪問すること。渇いている者に水を飲ませること。それらのことをおろそかにしている。律法の中ではるかに重要な「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法をおろそかにしていると仰る。
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23:24目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。23:25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。23:26目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。23:27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。23:28そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
お前たちは、一生懸命頑張って律法を守っている。しかし、そこでさらに最も重要な、神様自身を知ること、愛すること、隣人を自分のように愛することを忘れ、おろそかにしているなら、それは、ブヨをこしてラクダを飲み込むようなことではないか。器の外側は清めても、器に盛られている食事は腐っているのと同じではないか。白く塗った墓のように外からはきれいに見えても、内側には腐敗した死体があるではないか。内側に命がないではないか。そこに愛がないではないか。神様がそこに生きていないではないか。イエス様は、このように嘆かれるのです。
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これは、当時の律法学者、パリサイ人たちだけではなく、私たちクリスチャンにとっての警告でもあります。一生懸命信仰生活を送っていると、自分の行いということが自分の信仰の保証となってしまうことがある。10分の1を捧げること、一生懸命伝道すること、聖書の教えを必死で守ること、また、それを教えること、奉仕すること、また、聖書を一生懸命読むこと。これらを行うことが自分の信仰の保証だと思うことがある。
「今日はきちんと献金したし、聖書も読んだ。伝道もした。奉仕もした。よし、今日一日クリスチャンとしての生活を全うしたぞ」と思うなら、私たちは知らず知らずのうちに目の見えない偽善者になってしまっているのです。自分の行いによって自分を義としているからです。
そのような時、私たちは「幸いなるかな!心の貧しい者。天の御国はあなた方のものだ」と言われたイエス様の御声が聞こえなくなってしまうのです。
献金すること、奉仕すること、伝道すること、聖書を読むこと、祈ること。どれも必要なことです。立派なことです。しかし、それらは、私たちの信仰の保証とはなりえない。どんなに献金しても、どんなに奉仕しても伝道しても、また聖書の研究を行っても、また仮に何時間祈ったとしても、それらの自分の行為では、この心の虚しさ、心の絶望は満たされないのです。ただ、「幸いなるかな!心の貧しい者。天の御国はお前のものだ」と語ってくださるイエス様だけが、この心の虚しさを、心の貧しさを満たしてくださるのです。この絶望している者を救うことができるのです。
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宗教改革者ルターは、これを「神のかえりみ」と言いました。神様がかえりみてくださる。神様がイエス様をこの罪の世に遣わして、私たちと同じところにやってきて、かえりみてくださった。今も私たちの現状にやってきて、私たちをかえりみて下さる主がいる。そのことだけが、私たちの救いなのであって、一生懸命修行すること、一生懸命奉仕すること、また献金することによって神様に近づこうとすることが信仰の本質ではないと言っています。ルターは、このような、自分の行いによって神様に近づこうとすることを「はしごの神学」と呼び、「神のかえりみ」とは相容れないものだと断言しています。
私たちが何かすることではない。ただ、絶望する者をかえりみて下さる神様の御手、心の貧しい者を握って離さない神様の御手が私たちを救うのだと言っています。
では、私たちは何をするのか。「キリスト者は、義や救いのために、これらのことを一つとして必要としない。それゆえに彼は、彼がなす一切のわざにおいて他人に仕え、他人に役立つということをたたき込まれ、また、それだけに気を配るべきで、隣人の必要と利益以外の何ものも眼前に持たない者でなければならない。」とルター言っています。
イエス様が、「律法の中ではるかに重要な正義とあわれみと誠実」と言われたものがこれです。これを行うものでありたいですね。
私たちがこれらのことを行うときに、心の中に分裂を感じることがあるかもしれない。本当に心からそれを行っていないと感じることがあるかもしれません。自分のことを偽善者と思うことがあるかもしれない。しかし、そんな心の分裂を感じる、心の貧しい者の味方となって下さる主がいるのです。「幸いなるかな!心の貧しい者。天の御国はお前のものだ」と約束して下さる主がいるのです。
祈りましょう。