マタイの福音書第5章6節
岩本遠億牧師
2019年6月2日
「涙も虹となる」 作詞・作曲 岩本遠億
主イエスの 愛の御手に
全てを 委ね 歩こう
自分を 見ずに イエスの十字架 見あげよう
共に笑い 共に泣く主
共に生きて 見捨てず
涙も 虹となる
イエスの光 受けて
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
義とは何か?
ギリシャ語 dikaiosune
1.公正、正義
2.人と人との関係の正しさ
神が人に与える義=神との関係の正しさ
=父と子の正しい関係
ヘブライ語 tsedeq、tsedaqah
神の約束の民に対する処遇=救済、チャリティ
神の義=神の救い
義に飢え渇く
1.卑しめられ、苦しめられている者の神様への叫び
2.神様からの断絶の苦しみ、虚しさからの叫び
彼らは満たされる=お腹一杯になる
義で満たされる
=神様からの救いでお腹一杯になる
=神様との正しい関係でお腹一杯になる
神様しか満たすことができない義
×自分の義
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。(詩篇51:14)
忠臣ウリヤの妻バテシェバを奪い、ウリヤを殺害したダビデ王
預言者ナタンによる叱責
単なる正義の実現、行使なら、ダビデは断罪、死刑
罪の滅びからの救いの嘆願
→神の義の発動=神による赦しと救い=神の義
神の義 vs 自分の義
自分の義の追求 宮澤賢治 『銀河鉄道の夜』
貧しく、父親がいない家に育つジョバンニ。
病気の母の看病をしながらアルバイト。
弱い立場の彼は、学校で友だちにいじめられる。
親友のカンパネルラも彼を助けることができない。
ある日、彼は不思議な経験。銀河を駆け抜ける銀河鉄道に。前の席には親友のカンパネルラ。
二人は北十字星(白鳥座)から南十字星を越えてさそり座に向かう列車に乗り降りする人々との会話をとおして、人生の意味と死の意味について考えていく。北十字星と南十字星はキリスト教的な死と救いの考え方を表す。
タイタニック号の沈没で命を落としたクリスチャンたちは、南十字星で列車を降り、イエス様をとおして天国に行く。しかし、ジョバンニとカンパネルラの二人だけは列車を降りず、さらに、さそり座にまで向かって行こうとする。
蠍座のアンタレスに憧れるカンパネルラ
「自分も赤い火で焼かれても人を助けられる人間になりたい」
仏教徒でありながらキリスト教も学んだ賢治が、キリスト教と自分の考えを鋭く対比させている。賢治は「自分が友のために死ぬことが救いではないのか」と主張。
カンパネルラはさそり座の手前で姿を消し、ジョバンニは一人取り残され、そこで銀河鉄道の旅は終わる。ジョバンニは目を覚ます。町では大変なことが起こっていた。カンパネルラが友だちを助けるために死んでしまった。
ジョバンニを助けることができず、内心苦しんでいたカンパネルラが、溺れる子供を助けるために、死んだ。十字架を求めず、人を助けることができる人間になれることが彼にとっての救い。
そしてそのようにして彼は自分で自分の救いを手に入れたというのが賢治の主張=自己犠牲による救い
×自己義認のための自己犠牲
ダビデは、人のために死ねば、姦淫と殺人の罪から救われたのか?人のために死んでも、自分の罪は残る。
十字架に架けられたイエス・キリスト
×自己義認のための自己犠牲
◯罪のないキリストが全人類の罪の贖いのために命を捨てた
=究極の神の義
「しかし、今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」ローマ3:21
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」第二コリント5:21
詩篇17:15
「しかし、私は、義のうちに御顔を見、目覚める時、御姿に満ち足りるでしょう。」
第二コリント3:17-18
「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取りのけられた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです。」