マタイの福音書第26章36節〜46節
岩本遠億牧師
2021年7月18日
“それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」”マタイの福音書 26章36~46節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主イエスの悲しみ、悶え
イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
「恐れた」とは書かれていない。
「死ぬほどの悲しみ」がイエスを覆った。
イエスは何を悲しまれたのか?
→分断の悲しみ
・父なる神様との分断の悲しみ
・弟子たちとの分断の悲しみ
これまで主イエスは、父なる神との分断を経験したことはなかった。呼べば必ず答え、御心を教え、聖霊を溢れるように満たされる父。御父との一体の中に生きておられた。
「わたしと父は一つである」ヨハネの福音書10:10
ゲツセマネでの祈り
御父は主イエスの祈りに応答しない。沈黙を貫かれる。
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
3度同じ言葉で祈られた(何時間も、徹底的に)
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父なる神様からの応答がないから
主イエスの望みは何であったのか?
十字架を回避することか?
→NO, 主イエスは十字架にかかるためにエルサレムに上り、それに向かってぶれずに進んでこられた。
主イエスは御父との一体性の中で十字架にかかることを望まれた。御父の助けと臨在の中でサタンと戦うことを望まれた。
しかし、父なる神様の御心は、主イエスに一人で十字架の苦しみを受けさせること。御父の助け、臨在のないところで、人としてサタンと戦わせること。御父は主イエスを信頼しておられた。
神ではなく、人がサタンと一騎討ちをしてその策略を打ち砕くことなしに、サタンに対する勝利はない。しかし、これは主イエスにとって御父との断絶を意味した。
人の子イエス・キリストの真価が明らかにされた時
=サタンの全面攻撃をただ一人で受け止め、十字架の贖いをただ一人で成し遂げた時
神の子イエス・キリストの十全な権利、権能
=常に御父のそばにいて、御父の御霊に満たされ、御父と共に働くこと。神の子の栄光に満ち溢れること。
今、主イエスは、この権利、権能を取り去られている。
その中でサタンと戦い、勝利する(=十字架の贖いを成し遂げる)
↓
“キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。”
ピリピ人への手紙 2章6~11節
サタンに完全勝利した主イエスの血
その血が私たちを罪から清め、私たちを永遠に神の子とする。
主イエスのもう一つの願い
=弟子たちと一つであること
ご自分を否定して逃げていくことがわかっている弟子たちに「目を覚まして、わたしと一緒に祈れ」とお命じになる。
その弟子たちとの分断の悲しみにも覆われている。
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
神の霊は燃えている=前に進もうとする
肉の思いは弱い=ついて行くことができない
主イエスにとって十字架の死とは、御父と弟子、ご自分が最も愛したものを全て失うことであった。
全てから断絶され、全てから否定され。地獄の底にまで落ちる実存の愛。
しかし、実存の愛は、分断され、否定された時に、その真の姿を現した。再び、全てのものを集め、全てと一つとなる本質を表した。
「愛は惜しみなく自らを奪われても生きている。己が全存在を焼き尽くし、その身体性を忘れしめるほどに強烈なエネルギーが愛である。愛は自分の生命の犠牲によって自らを表現し、全てから捨てられ否定されても、なお愛は否定態のどん底に生き続け、虚無と死の中を潜り抜けても生きて行く。死を含みつつ生き、生きているが故に死ぬもの、これ『愛』である。生死を超絶し、喪身失命とかかわりなく、殺されて復活する霊ーこれ愛である。キリストとは『生命を与うる霊』である。」手島郁郎『霊想の七曜経』「土曜日」より。