ルカの福音書講解(63)第12章1節~12節
岩本遠億牧師
2013年1月6日
12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。12:2 おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。 12:3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 12:7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
12:8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。 12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。 12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。
12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
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ルカの福音書からイエス様の言葉を聞き続けています。この福音書の講解説教を始めたのは2011年8月28日ですから、1年4ヶ月をかけて11章までやって来たわけですが、この年もほぼ毎週ルカの福音書からイエス様の言葉を聞き続け、イエス様が私たち一人一人をどのように導いて下さるか、それを体験して行きたいと心から願います。
今日の箇所は、パリサイ人、律法学者と呼ばれる人たちがイエス様に対する敵対心、憎しみを募らせて行ったという11章の出来事を背景として述べられています。何故、彼らはイエス様に対する敵対心を持つようになったのか。それは、イエス様が彼らの中にある律法主義の偽善を厳しくご指摘になったからです。律法を守る、あるいは、律法に命じられていないことまで、自分たちが解釈し作り上げた規則の体系を事細かに守る。それを守っている自分を誇る。それを守ることによって神様に喜ばれていると思う。一方で、それを守れない人たちを心の中で見下し、裁く。イエス様は、そのようなパリサイ人、律法学者たちに、言われました。
「その心は、神様の御心から遠く離れている。そのように自分の行為によって自らを正しい者、神様の前に認められていると思う心が、神の言葉を塞ぐのだ。預言者たちを殺して来たあなたがたの先祖たちとあなたがたは同じ心を持っているのだ。」
これを聞いたパリサイ人、律法学者たちは、イエス様を質問攻めにし、揚げ足を取ろう、何とかしてこの男を失墜させよう、亡き者にしようとするようになった。そのような状況の中でこの言葉をお語りになったのです。
ここで、「12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。」とありますが、群衆というのは、いろいろな人々を意味します。イエス様に救いを求める人たちもいましたが、今申したように、イエス様を亡き者にしようとしている人たちもいます。誰がどのような心を持っているか分からない。そのような人たちが数えきれない程集まり、まさに満員電車状態になったというのです。
そのような状況の中でイエス様はご自分の弟子たちに語り始められました。語り始めたというのですから、この一回だけではなく、何度も同じことをお語りになった。それは弟子たちを励ますためです。どんな時にも私たちを見放さず、見捨てない神様がいるということを弟子たちに何度もお語りになったのです。
幾つかポイントがありますが、先ず、パリサイ人のように偽善者になってはならないといことです。自分がどれだけ良い行いをしたとしても、また、多額の献金をしたとしても、聖書の言葉を細かいところまで守ったとしても、それによって自分が尊い存在になったと思ってはならない。神様との個人的な深い繋がりを与えられるとき、あなたに神の子の尊厳を与えるのは神様ご自身なのであって、あなたの行為ではないことが分かるだろう。そのことを第一とせよというのです。
そして、イエス様が弟子たちに語られた言葉、彼らの心の奥底に植え付けられた神の言葉の種が、やがて大きく実を結ぶ時がやって来る。あなたがたの内側からそれが溢れ出るようになる時が来る。その時、あなたがたを苦しめて、黙らせようとする人たちが現れるけれども、恐れてはならない。体を殺しても、それ以上は何もできない者たちを恐れる必要はない。あなたがたが恐れなければならないのは、体も霊も滅ぼすことができるお方だとお語りでした。ここで「ゲヘナ」と言われているのは「地獄」のことです。しかし、神様を恐れるとは、神様の前でびくびくするということではありません。全てを創造したお方だけが、命の根源を握っておられる。私たちの存在を握って下さっていることを知りなさい。この方を自分の神としなさいということです。
そして言われます。「12:6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 12:7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
一羽の雀を守っておられるお方があなたを守っておられる。あなたの髪の毛の一本さえ、神様の守りの御手の中にある。そのことを体験的に知ることができるようになること。それがイエス様が私たちに対して願っておられることなのであります。
次に、このように言われています。「12:8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。 12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。 12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」
ここで「認める」とか「知らないと言う」と訳されている言葉は、ホモロゲオーという言葉で、告白するとも訳されますが、「同じことを言う」と言うのが基本的な意味です。新共同訳では、次のように訳されています。
12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」
一般的には、迫害が起こった時に、自分がイエス様の仲間だと言い表す者は、イエス様に受け入れられ、人の前でイエス様を否定する者はイエス様に否定されると言う意味だと理解されています。
しかし、この言葉と、次の言葉「12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます」とは矛盾するように感じられますが、皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。
私がここで思い出すのが、弟子のペテロのことです。ペテロは、イエス様の第一の弟子として愛されました。イエス様の本質を聖霊によって示され、イエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白した人類最初の人となりました。
しかし、いよいよイエス様が十字架にかけられるために捕らえられ、カヤパという大祭司の官邸に連れて行かれた時、ペテロも後ろからついて行きますが、女中に「この人は、あのイエスの仲間だ」と言われてしまいます。その時、彼は何と言ったでしょうか。「いいえ、私はあの人を知りません」と答えたのです。しかも3度もイエス様を知らないと言うのです。3度というのは徹底的にという意味です。自分の存在をかけて、徹底的にイエス様を知らないと言い、イエス様を否定してしまったのがペテロです。
一方で、天の神様が示して下さり、イエス様を生ける神の子キリストと告白したペテロ、もう一方で、イエス様を知らないと否定したペテロ、どちらが本当のペテロなのでしょう。イエス様を告白するものは、イエス様に仲間として受け入れられ、イエス様を否定する者は、イエス様に否定されると言われていますが、どちらの基準にも当てはまってしまうこのペテロをイエス様はどうしたら良いのでしょうか。
私自身もそうです。小さいときからキリスト教の環境に育ち、信仰を持つようになりました。小学校のときから一生懸命友達に伝道したりしていました。しかし、大学生の時、信仰を失い、イエス様を否定しました。
これは、ペテロや私だけのことではないと思います。誰でも、イエス様を心から告白できるときと、イエス様を否定してしまう時があるのではないでしょうか。そのように揺れ動くのが私たち人間なのです。イエス様は、ペテロをはじめとする弟子たちも、そして私たちもそのように弱い存在であることを深く知り、それを承知の上で私たちを選んで下さっているのです。
そして、4節では次のように言っておられる。「12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います」と。揺れ動く者たちです。恐れの中、また罪の中で「イエスなんていう男は知らない」というような者たちだということを承知の上で、「わたしの友」と呼びかけて下さっている。私たち一人一人をご自分の友として下さっているのです。信じて下さっているのです。
聖書の中に箴言という書がありますが、そこに「友はどんな時にも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(17:17)という言葉があり、また、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな」(27:10)という言葉があります。イエス様は、ご自分が友と呼ぶ者たちを見捨てることはないのです。また、十字架にかけられる前夜、弟子たちに最後の言葉をお語りになっているところで言われました。「人がその友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と。
イエス様は、ご自分を否定してしまう友を見捨てず、むしろ、そのような者たちを最大の愛で愛し、彼らのために命を捨てて、彼らの罪を赦し、復活して彼らとの関係を再構築なさるのです。
イエス様は、ペテロたちに約束しておられました。「あなたがたは、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかし、わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行きます」と。今夜、わたしが捕らえられ、十字架にかけられたら、あなたがたは皆、散り散りになるだろう。しかし、わたしはよみがえって、あなたがたより先にガリラヤに行く。わたしたちの出会いの場所、あなたがたの生活の場所であったガリラヤに行く。そこであなたがたを待っている。ガリラヤでもう一度会おうと仰ったのです。
「わたしを知らないと言う者には、わたしも知らないと言う」と言われましたが、わたしを知らないと言う者を放っておくことはない。あなたがたを見捨てることはない。決して揺らぐことのない愛の関係の中にあなたがたを回復するとお約束になったのです。
そして、お約束のとおり、イエス様は復活した後、ガリラヤ湖でペテロたちを待っておられました。弟子の多くは、ガリラヤの漁師で、ペテロはそのリーダーでした。ヨハネの福音書によれば、弟子たちは、エルサレムで復活のイエス様に出会っていたにもかかわらず、ガリラヤに帰り、漁師の生活に戻りました。復活のイエス様に出会っても、彼らは立ち直ることができなかったのです。自分自身でイエス様を否定してしまったからです。
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:1-7)
ペテロは、このとき、イエス様と初めて人格的な触れ合いを持った時のことを思い出したに違いありません(ルカ5:1〜11)参照。
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、 5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。 5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。 5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
ペテロは、ガリラヤ湖で網元をする親分肌の漁師でした。そこにイエスという若い教師がやって来て、多くの人たちを引き付けて神様の話をしていますが、「俺とは関係ない」と思っていたのです。そんな時、一晩中働いても魚が一匹も取れなかったことがありました。イエス様は、疲れ果て、落胆しながら網を洗っているペテロの舟に無遠慮に乗り込み、「群集に話ができるように、舟を少し出してくれないか」と言いました。ペテロは、大勢の人の前でそれを拒否するわけにも行かず、舟を出しましたが、内心穏やかでなかったと思います。挙句の果て、イエス様は、話が終わると、舟を沖に出して漁をしろと言います。「俺は、魚とりのプロだ。この俺がやって魚が取れなかったのだ。しかも網を仕掛けるのは夜なんだ。お前、それは偉い宗教の先生かもしれないが、あまりにも無礼ではないか」と言いたい気持ちを抑えて、イエス様の言うとおりにしたら、あまりに船が沈みそうになるほど、魚が捕れた。ペテロは、自分の心の苛立ち、心の穢れの全てを見抜いている偉大な人物、魚を思いのままに集めることができる神の前に自分がいることを知りました。そして、「私を離れてください(私に関わらないで下さい)。私は罪深いものですから」と言ったのです。しかしイエス様は、そんなペテロを受け止め、全てを赦し、イエス様の仲間として生きていく喜びを与えてくださった。神の前にひれ伏すような厳粛な出来事の中にも、命を燃え上がらせる熱い心をペテロは与えられました。ペテロはどんなに感動したことでしょう。どんなに嬉しかったことでしょう。
しかし、今、イエス様に従った3年間の後、人生に挫折し、夢も破れ、イエス様の心も何も分からなくなり、情けない自分、イエス様を裏切った自分、もう尊いことになんか関わることができない自分がいます。イエス様が復活しても、その復活の姿を見ても、立ち上がることができなかったのがペテロでした。
何故立ち上がることができなかったのでしょうか。それは、ペテロは、自分の全存在をかけて、イエス様を否定したからです。ペテロが最も必要としていたこと、それはイエス様をもう一度告白できるようになることではなかったでしょうか。
多くの魚のためすぐには動けない舟から湖に飛び込み、岸まで泳いでいきました。一時でも早くイエス様のそばに行くためでした。イエス様は、炭火をおこし、朝ご飯を用意して待っていてくださいました。
そして、食事の後、ペテロにお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に私を愛しているか」と。以前のペテロでしたら、「はい。主よ。私は誰があなたを愛するより、あなたを愛しています」と答えたでしょう。しかし、彼はもう自分の力や決心でイエス様を愛し続けることができないことを知っています。ですから「あなたがご存知です」と答えました。しかし、これこそイエス様が求めておられた答えだったのです。
「私の思いの全て、愛する心も、揺れ動く弱い心も、イエス様、あなたが全てをご存知です」という告白です。イエス様がペテロに徹底的に告白させなさったのは、このことだったのです。「あなたを愛しています」と宣言することではなく、「イエス様、あなたは私の全てを知って下さっています」という告白こそ、イエス様が私たちに与えて下さる告白。私たちの全存在を支えるイエス様との新しい関係なのです。そして、新しい働きのためにペテロを任命してくださいました。「私の羊を養いなさい」と。そして、ペンテコステの日には聖霊に満たして力を与えてくださったのです。
今は弱いかもしれない。揺れ動くかもしれない。しかし、あなたは私の友だと。私は十字架にかけられ殺されるけれども、復活して天に昇り、そこからあなたがたに聖霊を注ぐ。その時、あなたがたは力を受ける。そして地の果てまで私の証人となる。私たちが「わたしはイエス様の仲間だ」と言うようになるというのです。
だから言われるのです。「12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます」と。「あなたがわたしに言い逆らうことがあっても、また、わたしに敵対することがあっても、赦される」と仰っているのです。なぜなら、聖霊が注がれる時、全てが分かるからです。聖霊をとおして復活のイエス様に出会う時、私たちは造り変えられるからです。
イザヤ書42章に次のような言葉があります。「彼は傷んだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42:3。
地中海世界ではパピルスで籠を作っていました。パピルス職人は、籠を作るために使うパピルスを選ぶ時、傷の付いたものを見つけるとすぐにそれを折って捨てていました。良いものと混ざらないようにするためです。また、当時、明かりはランプの光を使っていました。ランプに油を入れ、燈心に火を点すのです。しかし、燈心は燃えて短くなって行きます。くすぶる燈心とは、燃え尽きてもう捨てるばかりになっているものを意味します。傷ついたパピルスも、燃え尽きて消えそうな燈心も、もう捨てられるだけのものを意味しています。しかし、イエス様は、そのような者たちを捨てないと仰っているのです。
人が捨てるようなものをもう一度新たに造りかえ、新たにし、そのような者を用いて神の国をこの地に満たすと仰っているのです。それが私たちの神イエス・キリストのお心なのです。イエス様とはこのようなお方なのです。
信仰生活を始めた後も、イエス様が分からなくなることがあるかも知れません。人生に失敗することがあるかもしれません。そんな時、人は言うでしょう。あの人はもう駄目だと。また、自分自身ももう駄目だ、もう遅いと思うことがあるかもしれない。しかし、イエス様は、私たちを決して捨てることはないのです。御手の中に握り続け、私たちを新たに造り変え、私たちを用いてご愛の業を、神の国をこの世に満たそうしておられるのであります。
希望を捨ててはなりません。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」ヘブル人への手紙第13章6節