ルカの福音書 第23章32~43節
岩本遠億牧師
2019年2月10日
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
聖書の重要関心事、神様が歴史をとおして証明しようとしておられること
・人は信頼に値する
⇔サタンのチャレンジ:人は神様の信頼に値しない
人としてやって来られたナザレのイエス
=サタンのこの挑戦に真っ向から立ち向かい、勝利した。
イエスの2つの戦い
・ご自分が神様に信頼されるものとしての生涯を全う
・ご自分の弟子を信じ抜く
イエスの生涯=悪魔との戦い
=神様に完全に信頼される生涯を全う
1.サタンの誘惑を退ける
2.サタンの手下である悪霊を放逐
→病の癒し、人生の回復
3.十字架の勝利
=サタンが為し得る全ての攻撃に完全勝利
→もうサタンがイエスに対して行い得ることはない
=人として来られたイエスの勝利が確定
→イエスに連なる者もイエスの勝利を自分のものに
4.サタンに対する勝利以上の神の業
=罪の贖いの完成
マタイの福音書 5章43~48節
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
王の王、主の主=完全な勝利者
何に対する勝利者なのか。
主イエスが十字架で立ち向かったものとは何か。
何故、これが分かっていたのに立ち向かったのか。
十字架の苦しみ
気が狂うほどの激痛
何も悪いことをしていないのに罪人として殺されることの不条理
自分を苦しめる者に対する怒り、憎しみ。
最大限の恥辱
どれも人として決して受け入れることができないもの
イエス様の精神の自由:
この苦しみの中で隠れていたものが明らかにされた
=敵を愛し、迫害する者のために祈る愛。死の苦しみの中にある罪人にパラダイスの約束を与える権威。
人が頑張ってできることではない
・・・天の愛、神の子の命が満ちていた
十字架の勝利はここに。
完全な者となって愛を全うしてくださった。
「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」ヨハネの福音書 10章18節
ヘブル5:9
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う全ての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり、神によってメルキゼデクに等しい大祭司となられたのです。
ペテロの手紙 第一 2章21~25節
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義(のため)に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。”