マタイの福音書第12章1節〜8節
岩本遠億牧師
2020年6月21日
そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」
ユダヤ民族、イスラエルにとっての安息日の重要性
創世記 2章1~3節
“こうして天と地とその万象が完成した。 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。”
出エジプト記 20章8~11節
“安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。”
安息日を聖とする
聖=他と完全に区別されたもの
→イスラエルが神の民であることの証
→イスラエルのアイデンティティー
安息日の軽視
→神の民としてのアイデンティーの喪失
→偶像崇拝への傾斜
→アッシリア帝国、バビロニア帝国によるイスラエル滅亡
→バビロン捕囚
バビロン捕囚からの帰還後
→神殿とエルサレム城壁の再建
→神の民としてのアイデンティティーは未確立
=安息日の軽視、他民族との雑婚→偶像崇拝
→エズラ、ネヘミヤによる改革(B.C. 5世紀)
→律法の研究、ユダヤ教の確立
イエスの時代
律法学者たちによる律法解釈
パリサイ派 ヒレル、シャマイなどの教師たち
主流派
敬虔派・・・イエスが属していたグループ
イエスがパリサイ派律法学者たちと対立したのは、
イエス自身がパリサイ派律法学者だったから。
イエスの立ち位置の卓越性
=人の子(メシア)としての強い自覚
→神ご自身の名代、分身として、安息日を完成する
→この立場から旧約聖書を解釈し、人を苦しみから解放する
他のパリサイ派律法学者たち
→安息日を守るとは何か?という議論
→人を苦しみに閉じ込め、縛る
そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
空腹な人が他人の麦畑や葡萄畑に入って飢えをしのぐことは律法によって認められていた。
問題は、収穫は安息日には認めれていなかったということ。
安息日の主眼
=命を回復すること、神の命に満たされること
当時の一般的な食事の回数=2回
安息日の食事の回数=3回
イエスの解釈
=飢えたまま安息日を過ごしてはならない
→わざわざ、空腹の弟子たちを連れて麦畑に入った
しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
サウル王に命を狙われ、逃げ出したダビデ
ノブの祭司アヒメレクに助けを求める
臨在のパン:安息日ごとに捧げられる輪型のパン→下げられたものは祭司だけが食べる
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。
→安息日には他の日よりも多くの捧げ物(雄の子羊2匹、小麦の捧げ物、臨在のパン)を捧げるための働きがあった。
あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
宮よりも大いなるもの=神の国
神の国に仕える者たちは、安息日規定に縛られない。
何が神の国をここにもたらしたのか?
人の子である私イエスである。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」