「マタイの福音書」連続講解説教

神様はあなたの取引相手か?:神様はケチじゃない!

マタイの福音書第19章13節〜30節
岩本遠億牧師
2021年1月17日

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」

聖書を読む上での注意事項
・聖書全体での位置付けを常に意識する。

イエスが「わたしについて来なさい」と弟子たちを招いた時に、「全財産を売り払い、貧しい人に施せ」と命じたことは他にあったか?

イエスは、ただ、「わたしについて来なさい」とだけ言っておられる。

弟子たち→家族や仕事道具を捨てて(本当はその場に残して)イエスに従った。

この人にだけ厳しい条件をつけたのは何故か?

この人はどんな人だったのか?

金持ち←当時のユダヤの社会では神に祝福を受けていると考えられていた。
    見ただけで金持ちと分かる身なり。

青年→小さい時から熱心に律法を守ってきた
   行いによって永遠のいのちを得られると信じている。
   しかし、いのちとの断絶を感じていた。

評判のイエスに、方法を教えてもらおう。しかし、彼はイエスとの人格的な関係を求めていない。

この人は「どんな良いことをすれば」と問うている。
つまり、この人にとって神様は取引相手。

イエスの答え:鍵は良い方である。良い行いではない。
      しかし、あなたの希望通り、良い行いによって永遠のいのちを
      得たいなら戒め(律法)を守れ。

富める青年の問い:どの戒めですか?←律法は完全に守っているとの自負

イエスの答え:
  「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

富める青年の自己義認
「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」

欺瞞に対するイエスの鋭い指摘
君は、本当に自分の隣人を自分のように愛していると言えるのか?貧しい人々と自分の持ち物を完全に共有せよ。そして、わたしに従いなさい。

自分自身の欺瞞に気が付く青年
しかし、自分の決心で富の壁を越えることはできなかった。

そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

ペテロの自己陶酔
そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

本当は、何も捨てていない。置いてきただけ。
彼には妻がいた。立派な家もあった。船元として船も所有していた。

イエスに従った後も、家や舟はそのまま使っていた。イエスはペテロの家を拠点に伝道。ペテロの舟に乗ってガリラヤ湖を移動。

イエスはペテロにそれらを捨てろとは言わない。

福音書は、この富める青年と子供たちの祝福をセットで提示している。
このことは何を意味するのか?

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

イエスに手を置いて祈ってもらう
手を置いて祝福してもらう

「私の上にあなたの手を置いてください」

ただそれだけ。これが全て。

永遠のいのちとは、自分で手に入れるものではない。イエス様が手を置いてくださる関係である。

「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
             ヨハネの手紙 第一 5章20節

手を置いて祝福していただく時、自分ではない自分が現れ出る。自分では超えられなかった壁を超えてしまっている自分を発見する。

「自分のいのちを愛する(最も大切とする)者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む(=最も大切とはしない)者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」 ヨハネの福音書 12章25節

→イエスに手を置いていただく時に、これが実現する

最も大切なもの=イエス・キリストとの関係

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