「マタイの福音書」連続講解説教

イエス様のくびき、息づきの時

マタイの福音書11章20節~30節
岩本遠億牧師
2007年8月12日

11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。 11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。 11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。 11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

今日私たちに与えられている聖書の言葉は、イエス様の語られた言葉の中でもっとも良く知られているものの一つだと思います。「すべて疲れ果てた者、重荷を負っている者は私のところに来なさい。わたしがあなた方を休ませて上げます。」私の父はキリスト伝道者でしたが、長崎で伝道しているとき、家の前に大きな看板を出していて、そこには、このイエス様の言葉が書かれていました。私が一番最初に憶えた聖書の言葉がこれです。

疲れ果てた私たちのことを知って下さっている方がいる。重荷を負って苦労し、苦しんでいる私たちのことを見て下さっている方がいる。そして、知るだけでなく、見てくださっているだけでなく、その重荷の全てをご自身の背中に背負って歩いてくださる方がいる。私たちの魂に平安を与えてくださる方がいる。私たちにとって、こんなに大きな慰めはありません。

今日は、イエス様がこの言葉を語られた前の部分から読むことによって、イエス様が与えようとしておられる平安とは何かを知りたいと思います。

先週、私たちは、「笛吹けど踊らず」という諺が生まれた箇所から、イスラエルの人々が洗礼者ヨハネを受け入れず、またイエス様を受け入れなかったという状況があったことを学びました。イエス様が登場なさった時には、多くの人たちが驚きをもって受け入れようとした。しかし、今、イエス様の教えと活動に反対する人々が現れているのです。そのことに対するイエス様の嘆き、そして、その中にあってもイエス様が持っていらっしゃった喜びが語られています。

神の御子イエス様の言葉というのは、聞く者に救いを得させる神様の力です。しかし、それは裏返せば、それを否定する者には滅びをもたらす諸刃の剣であることを私たちは心しなければなりません。イエス様はどうでも良いことを語られたのではないからです。イエス様の救いの御業は、全ての人間にとってどうでも良いことではなかったのです。受け入れるか否定するか。人間が取り得る態度は二つに一つしかありません。

まずイエス様は、イエス様を受け入れなかった町々について嘆かれます。憤っておられるのでも、怒っておられるのでもない。イエス様が力の全てを注いで愛されたガリラヤ地方の町々が神様に立ち帰らなかった。神様に立ち帰らなかったら、滅んでいくしかない。それを嘆いておられます。

しかし、何故立ち帰らなかったのか。何故悔い改めなかったのか。それは「高慢」のためです。25節に「賢い者や知恵のある者」という言葉が語られていますが、悔い改めなかった町々は、「賢い者、知恵ある者」だったからです。これは、単に学者とか知者という意味ではないでしょう。むしろ、神様に従うことよりも、自らの知恵を求める者ということです。

創世記の最初に出てくるアダムとエバの罪は何であったか。それは、「善悪の知識の木の実」を食べたことです。アダムは神様に厳しく命じられていました。「善悪の知識の木の実は食べてはならない。それを食べる時、あなたは必ず死ぬ」と。「善悪の知識の木の実を食べる」とは、自ら知者になろうとすることです。自ら賢い者になって、善悪を自分で決定しようとすることです。神様が帰って来いと仰っているのに、「いいえ、私は大丈夫」と言うことです。

しかし、この賢い者、知恵ある者たちの現実はどのようなものでしょうか。自ら動くことも、見ることも聞くこともできない偶像の前に跪き、占いや御神籤の言葉に心動かされ、一喜一憂する。これが今の日本の中にも溢れかえっているのです。それは、この世的には知恵ある者とされる大学の教師や学者たちでも同じです。自分の知恵を第一にして生きようとする者の姿です。そして、救い主イエス様の言葉を聞いても聞かず、救いの業を見ても悟らないのです。イエス様は、その全ての者たちのために涙を流し、嘆いておられる。それが20節から24節です。

しかし、このような嘆き悲しみの只中にあって、なお、イエス様は絶大な喜びを語っておられます。

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」

イエス様は、そのような悲しみの状況に答えておられます。嘆きや悲しみを貫く喜び、決して何者も邪魔をすることができない喜びがイエス様にはあったのです。その鍵となるのが「父のほかには子を知る者がなく」という言葉です。父なる神様以外にイエス様を知る者はなかった。父なる神様だけがイエス様の本質を知っておられたのです。イエス様は、どんなに恵みの言葉を語っても、多くの力ある業を行っても、誰にも理解されなかった。しかし、父なる神様だけは知っておられた。父なる神様は、イエス様の本質を知っておられた。

イエス様を否定することによって滅んでいかなければならない人々がいるという悲しみの現実にあっても、決して否定されることのない、質的に異なる喜びが「父なる神様との絆」だったのです。ここにイエス様の秘密があります。そして、この秘密をわたしたち一人一人に与えようとしておられるのです。

そして、このイエス様が父なる神様に感謝していらっしゃることがある。25節「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」と。「これらのこと」とは、イエス様が神の子だということです。それを「幼子たちに現してくださいました」と言っておられる。幼子たちとは、自分で善悪を判断しない謙遜な者という意味です。「自分が、自分が」という者ではなく、神様に依存するもの、神様の前に遜る者、それが幼子です。神様の前に謙遜となり、遜る者にのみ表される神の国の祝福がある。そのことをイエス様は無上の喜びをもって感謝しておられます。そして、この者たち、すなわち、「子が父を知らせようと心に定めた人」は、イエス様が父なる神様を知っておられたように、神様を知るようになる。このことを喜んでおられるのです。

このような文脈で、今日冒頭に読んだ言葉が語られました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

「疲れ果てた人」とは誰でしょう。「重荷を負った人」とは誰でしょう。これは、もう自分ではやって行けないと、自分に希望が持てない人のことを言っているのです。もう自分では歩けない人のことではないでしょうか。私たちは、もう自分では歩けないから、イエス様のところにやって来たのではなかったでしょうか。

イエス様は、悔い改めなかった町々のために嘆かれた後で、もう一度言っておられます。「全て疲れ果てた人、重荷を負っている人」と。「全ての人」に向かって語りかけておられる、「帰って来い」と。悔い改めなかった者たちに、何度も何度も語りかけ、呼びかけるイエス様の永遠の言葉がここに響き渡っているのです。

「11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

イエス様は、わたしのくびきを負って、わたしに学びなさいと仰っていますが、その前に、「わたしは心優しく、謙っているから」と仰っている。ここのところ、非常に重要です。「心優しく」と訳されている言葉も、元来、低められた状態にある者というのが原義で、その故に、他の人のことを理解することができる心の優しさを意味します。すなわち、イエス様は、「わたしは、低められたがゆえにあなたのことを本当に理解しているよ。わたしは謙った謙遜な者だ。あなたもわたしのくびきを負いなさい。わたしに学びなさい」と仰っているのです。

くびきとは、2頭の牛の肩に固定して荷車や農具を引かせるT字型の道具ですが、これはイエス様との絆の中に生かされることを意味します。「疲れているのに、くびきを負わされたら、もっと疲れてしまう」という心配は無用なのです。そのような意味ではありません。

「わたしとおなじ謙遜の道を歩こう。わたしが、あなたの魂の重荷の全てを背負って歩くから、あなたの全てを背負うから、わたしと一緒に謙遜の道を歩こう。わたしとつながって歩いていきなさい。そばで語りかけるわたしの声を聞きながら歩きなさい。そうすれば、魂に平安が来る」と。

牛がくびきに繋がれている姿を思い浮かべてみたいと思うのです。立って歩いてはいません。四つん這いになって、低められて歩くのです。イエス様も低められたのです。神の御子であられたイエス様ほど、徹底的に低められた方はいませんでした。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

このイエス様が、わたしたち一人一人を招いておられるのです。一緒に謙遜の道を、わたしとの絆の中に生きなさいと。

その時、嘆き悲しみの只中にあっても、父なる神様に絶大な感謝を捧げられたイエス様の中に満ちていた溢れる喜びが私たちの中にも満ち溢れるようになるのです。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」と、イエス様と同じ喜びを神様に感謝する者と、私たちは変えられるのです。イエス様が父なる神様と持っていらっしゃった喜びの関係、周囲の状況が否定することのできない関係が私たちにも与えられる。

私たちは、状況の奴隷になるために創造されたのではないのです。嘆き悲しみがある時、はあるでしょう。しかし、そのような時、嘆き悲しむだけのための存在として創造されたのではない。嘆き悲しみの中で疲れ果て、悲しみの声も出ないほど疲れ果てた者たち、そのような私たちに与えられる平安がある、魂の平和があるというのです。そのような中にあって、「天地の主である父なる神様、あなたを誉め讃えます」と感謝せずにいられないような喜びと平安を満たしてくださる方がおられるのです。

この方が、呼びかけておられます。「11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

祈りましょう。

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