「ルカの福音書」 連続講解説教

放蕩息子の兄

ルカによる福音書15章11節から32節
岩本遠億牧師
2007年1月14日

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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先週の新年礼拝で「喜び」ということについてメッセージし、「放蕩息子を喜ばせる父の愛の業」についてお話したところ、「是非、放蕩息子の兄のメッセージをしてほしい」というご要望を頂きました。「兄が怒る気持ちは良く分かる」と言うのです。私自身、自分は放蕩息子の兄なのではないかと思っていたことがあります。私は良い子で育ち、人の目から見て悪いこともしない。しかし、弟は親の言うことを聞かないし、不良まがいのことをする。それなのに、弟が中学生の時、彼が通っていた中学校で彼を中心に小さなリバイバルが起き、彼は教会の中で用いられました。私は、嫉妬しました。共に喜ぶことはできないし、かえって怒りが湧いてきたりして、自分は、放蕩息子の兄だと思いました。

では、神様は、この兄にどのようなお取り扱いをしておられるのか。そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

1.兄の状態

放蕩に身を持ち崩した弟とは、神様の噂さえ聞かないような別の国に住み、ユダヤ人の忌み嫌う豚以下の生活をしていたのですから、罪の穢れの中にあり神様を知らない異邦人や、ユダヤ人の中でも罪人と言われて、差別されていた人々のことを意味します。一方、兄は、神様に仕える者で、神様の言いつけを守っていると主張する者たちですから、律法至上主義者、パリサイ派の律法学者たちを指しています。

律法至上主義者たちがどのような心理でいたのか、聖書の言葉の中から、それを読み取っていきましょう。まず、29節に「何年もお父さんに仕えています」とありますが、この「仕える」という言葉は、「奴隷となる」というのが原意です。つまり、自由もなく、無理やり、喜びもなく仕えて来たと言うのです。言いつけに背いたことは一度もないと言い切りますが、その心は父から完全に離れていました。そのことは、次の言葉に端的に表されています。

「それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」

この兄は、友達と宴会をする楽しみを願っていました。自分にも欲望はあるのです。しかし、彼の楽しみ、喜びは、父なる神様を排除した楽しみだったのです。また「子山羊一匹すら」という言葉の中に、献げ物として捧げられる動物が持つ意味を卑しめる思いが透けて見えます。

先週もお話しましたが、失われていた弟が帰って来たときに父が屠った雄の子牛には、贖罪の献げ物としての意味と、和解の献げ物としての意味がありました。この子牛の流された血によって神様を侮辱してその富を浪費し、罪に穢れた弟の罪が赦されたのです。そして、この子牛は和解の献げ物としての意味もありました。屠られた子牛の内臓の脂肪は祭壇の上で焼かれ、神様に対する香りの献げ物とすると同時に、捧げた者は、その肉を食べ、神様と同じ牛を食する喜びと交わりを与えられたのです。献げ物の肉を食べるとはそのような意味がありました。

しかし、兄は、自分の罪のために贖罪の献げ物を捧げなければならないとも、和解の献げ物を捧げて父との交わりを喜ぼうという気持ちも全くなく、ただ自分の欲望を満たすための子山羊を欲しがっていました。彼には、自分がどんなに罪深さをごまかし、あるいは、父との交わりを拒絶する思いがあるのです。

さらに、兄は、弟が罪を犯した原因を父に求めています。「15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

「あなたのあの息子」と言っています。どうでしょう。私にも2人の息子がいますが、もし彼らのうちの一人が「あなたのあの息子」と言ったらどうでしょう。どんなに悲しいでしょうか。この2人の兄弟の間には敵意があり、そしてそこには、「あなたが甘やかしたから、あいつがあんなになった。あなたの責任だ。俺はあいつとは何の関係もない」という父に対する怒りがあるのです。

そして、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると」という言葉には、行為の上では罪を犯していないように見えても、卑しい思いで満ちている心の中を表しています。

兄は、父のそばにいて、恭順に仕えているようで、決して父を尊敬もしていないし、父との交わりの喜びに価値を見出そうともせず、兄弟と父親に対する怒りと敵意、そして穢れた思いで満ち溢れていたのです。弟は、目に見える罪に満ち溢れていましたが、兄は目に見えない罪に満ち溢れていました。イエス様は、父なる神様は、このような2人の息子を持っているのだと仰っているのです。

2.父の思い

この兄に対して、父はどのようにしたでしょうか。28節に「父親が出て来てなだめた」とあります。当時のユダヤ社会では、このようなことはあり得ないことでした。弟が帰ってこようとしているのを見て、遠くから駆け寄って弟を抱き締め、口づけした父は、自分に対して怒っている兄をなだめるために、喜びの宴席をたって、家の外まで来られるというのです。神様がご自分の王座から立ち上がって、神を神とも思わない者たちの所にまでやってきて、その心に語りかけてくださると言うのです。これこそ、神であられたのに、その天の王座を離れて罪の世に下ってきて下さったイエス様のお姿そのものではないでしょうか。

「父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と。

「子よ。お前はいつもわたしと一緒にいる。」「わたしと一緒にいることがお前の喜びではないのか。それがお前の全てではないのか。」「わたしのものは全部お前のものだ。」と言われます。「お前のための贖罪の献げ物も、お前のための和解の献げ物も、わたしは用意して待っている。弟に最上の着物を作って待っていたように、お前のための最上の着物を作ってお前を待っているのだ。お前のための指輪、お前のための履物、お前のために全てを備え、いつもでお前がそれを受け取ることができるように備えているのだ。いつでも求めなさい。わたしはお前にそれを与える。わたしとの喜び、私との宴会の喜びにお前も加われ。わたしはお前と楽しみたい。お前に喜びを満たしたい。」これが父なる神様の兄に対するお心なのです。

さらに言われます。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と。「あなたのあの息子」と言っていた兄に、「お前のあの弟」と言っておられます。両者の間にある敵意を取り除こうとしておられる。

エペソ「2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」

父なる神様は、2つのもの、2人の兄弟の間にあった敵意を取り除くためにイエス様をこの世に送り、十字架に架けて下さったのです。人は、他の人をその言動の良し悪しによって裁きます。「あの人は罪人だ。あの人は神様の定めを守っていない」と。しかし、イエス様は、十字架の上で流されたその血潮によって、全人類の罪を罰し、罪を贖ってくださいました。「2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とは、このことを意味します。「遠く離れているあなたがた」とは弟のこと、「近くにいる人々」とは兄のことです。両者が赦し合い、愛し合うことを神様はどんなに願っておられることでしょう。そして、単に「お前のあの弟」と教えるだけでなく、両者の間の隔ての壁を打ち壊して一つとするために十字架にかけられたイエス様がおられるのです。

「死んでいたのが生き返った。いなくなっていたのが見つかった」と弟のことを喜んだ父なる神様は、生きているようでもその霊は死んでいるような兄、今ここにいるようでも、その心は遠く離れて迷子になっている兄に対して、「お前は、今生きている。今わたしと一緒にいる」と語り掛け、「わたしはお前を喜んでいる」と兄を同じように喜んでいるのです。このことを兄に知らせたい、それが父の御心なのです。

イエス様は、この後、兄がどうしたか仰っていません。それは、律法主義者たちに対する招きであり、その招きに彼らがどう答えるかは、彼らに任せられていたからです。私たちはどうでしょうか。もし、私たちが、自分は兄だと思うことがあるなら、イエス様の招きに答えて、神様を心の中に迎え入れたいですね。

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私は、キリスト教伝道者の家庭に生まれましたから、人生のいろいろな苦しみを通って神様に出会い、救われた人々の姿を見ながら育ちました。非常に重い病気から癒された話、闇の世界から追われていた人が救われた話などを聞くわけです。しかし、いわゆるクリスチャン二世とか三世とかになると、親はクリスチャンですから、家庭の中がそんなにめちゃくちゃになっているわけではないし、基本的に道徳的に育てられていますから、救いということがなかなか分からないわけです。自分が救われなければならない状態にあると言うことが分からない。それで、自分もひどい病気になったりしないと信仰がわかるようにならないのか、とか、人生のどん底を経験しないと信仰がわかるようにならないのかと真剣に悩みました。

また、そのような酷いところを通って与えられた信仰のほうが尊くて、平々凡々な生き方をしてきたクリスチャンの信仰は生ぬるいなどと思う場合もあることでしょう。特に、とんでもない世界から救われてきた人たちが宣教活動などで活躍している姿を見ると、そういう信仰にあこがれる人が現れたりもしますし、極端な場合には、「自分はやくざになれないからクリスチャンにもなれない」と言う青年に出会ったこともあります。

しかし、聖書は言っているのです。放蕩息子の兄にも贖罪の献げ物、神様との和解の献げ物が必要であり、そのために神様はご自分の全てを兄に与えておられるように、目に見える酷い罪を犯したことのない私たちにも、神様の心を心としない罪のために、贖罪の献げ物、和解の献げ物が必要なのだと。そして、言うならば、兄の場合にこそ、さらに深い聖霊の働きがなければ、自分の心の中の罪を認め、イエス様の救いが必要だと告白することが難しいのです。生きていると思っていたが、実は死んでいた。いると思っていたけれども、実は失われていた。こんな死んで失われていた者をイエス様は生き返らせて、見つけ出してくださったと告白できるようになるなら、それは、聖霊の働きによる大いなる奇跡なのです。このように告白することができるとき、そこに与えられている信仰は、仮に目立つことはなくても、何にもまして尊い信仰なのです。

もし、私たちが自分は弟ではなく兄だと感じることがあるならば、私たちの中にも聖霊のお働きが必要です。行動に現れない隠れた心の罪が解決され、父なる神様との間に喜びの和解が与えられることが必要なのです。そして、神様との関係の回復が与えられた時、私たちの心の中に与えられている信仰のゆえに、神様に感謝しましょう。人が驚くような目に見える「劇的な回心」ではないかもしれない。しかし、その時、私たちの内奥で、確かに聖霊の深い御働きのゆえに、私たちの中に罪深い心が啓示され、イエス様の十字架と復活による救いが与えられているのです。私たちは、罪の痛みから癒されるのです。

弟のためにイエス様の十字架の血が流されたように、兄のためにも流された。どちらも等しいイエス様の血潮が流されている。両者が一つとなるためです。一つになって赦し合い、愛し合うためです。全てが癒されるためです。

この物語は「放蕩息子の譬え」と呼ばれますが、この物語の中心的な主張は、放蕩息子ではありません。2人の息子を持った父がその中心テーマなのです。目に見える罪と、目に見えない罪に満ち溢れた2人の息子を、どのように生き返らせ、失われた愛するものを探し出すのか、どのように2人に喜びを満たし、2人の間に平和を実現するのか、そして、そのために流される贖罪の献げ物、和解の献げ物であるイエス様の十字架が語られているのです。

「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」イザヤ書57:19

祈りましょう。

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