「マタイの福音書」連続講解説教

罪から救ってくださる方

マタイの福音書1章18節から25節
岩本遠億牧師
2008年12月14日

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

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私たちは、「救い」という言葉をどのように考えているでしょう。日本語の言葉の意味の解説をしている本を見ると、「救い」と「掬い」はもともと同じ意味だと書いてあります。「金魚掬い」をやったことがあると思います。水や液体の中にあるものをその中から取り出すというのが日本語における「すくい」という言葉の意味です。溺れて沈んでいこうとする人を水から引き上げることが「救い」です。「罪から救い」とは、まさに「罪から引き上げること」です。罪にすっかり浸かって、沈んでいこうとする者をそこから引き上げること、これが「罪からの救い」です。

イエス様は、まさにこのために来られたのだと聖書は言います。このクリスマスの時、「この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です」という言葉を心に覚えながら過ごすことができればと思います。

ここに書かれている状況がどのようなものであったのか、当時のイスラエルの結婚の風習などについての説明を加えながら、一緒に考えて行きたいと思います。

18節に、「イエスの母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」とありますが、当時婚約とは結婚と同じ法的な効力がありました。婚約した男女は、まだ結婚式を挙げておらず、男女の関係を持ってはいないけれども正式の夫婦とみなされていたのです。婚約者の男性が死んだ場合には、残された女性は未亡人とされました。ですから、婚約中のマリヤが妊娠したということは、もしこれが姦淫の罪の結果なのなら、石打による死刑に処せられなければならないものだったのです。

聖書は、イエス様の懐胎を聖霊によるものだと明言しています。アダムの罪を引き継ぐものは、罪からの解放者となることはできません。牢屋の中にいる者は牢屋の中にいる者を解放できません。アダムの罪、人類の罪を打ち砕くものは、罪のない者である。十字架による罪の赦しと復活による悪魔に対する勝利を聖霊によって掲示された者は、イエス様が神であったことを知りますから、聖霊による懐妊ということも、そのメカニズムは分からなくても、神様の全能の御手の中にあったことだということを頷いていくのです。

このことに対するヨセフの対応はどうだったでしょうか。

「夫のヨセフは、正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあります。さらし者にするとは、自分の妻を罪ある者として公衆の前に出すこと、すなわちマリヤが死刑に処せられることを良しとすることを意味します。マリヤはまだ一緒になる前の夫のヨセフに自分の妊娠の経緯について話していなかったのです。分かってもらえないという思いもあったでしょう。まかり間違えば石打になってしまう。あるいは離縁される。マリヤは自分の苦しい思いを内に秘めたまま、神様に全てを委ねていたのです。

一方、ヨセフも苦しんだに違いありません。何も言わない愛する妻マリヤのお腹が大きくなっていく。ヨセフは、怒りにまかせてマリヤを裁かないようにしました。と言っても、そのまま彼女を受け入れることもできません。しかし、彼は彼女を赦すことを決めたのです。彼女を愛していたからです。そこで、どうすれば彼女が助かるか熟考し、人に知れないように、離縁しようとしていました。彼も、自分のやるせない気持ちを神様に委ねようとしました。そして、彼女を生かそうとしたところに彼の正しさがありました。

ヨセフもマリヤも、自分の思いを内に秘めたまま、互いに自分の思いをぶつけようとせず、神様に委ねました。神様は、このような二人に人として生まれるイエス様をお委ねになったのです。

ところが、ヨセフがこのことについて思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言います。

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

ヨセフは、夢の中で主の使いの言葉を聞きました。そしてそれに従いました。ここに神様の業が進められたのです。夢の言葉に従うなんてと思う人もいることでしょう。しかし、確かに、神様がこれからなさろうとしておられることを夢で告げられることがあるのです。旧約に登場するヤコブがそうでした、またヤコブの息子のヨセフがそうでした。

ヨセフは、全てが分かったから従ったのでしょうか。何かが見えたから従ったのでしょうか。そうではありませんでした。イエス様が伝道の活動を始めたときには、すでに他界していたと考えられます。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」という言葉を聞きましたが、それを自分の目で確かめることも、イエス様の福音の言葉を聞くことも、その奇跡を目にすることもできなかったのがヨセフでした。

しかし、この言葉、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」という言葉が、ヨセフを導き、照らしました。自分の妻の体に宿っている命は、神の民をその罪から救う方である。罪からの救い、このことのために、ヨセフは妻マリヤを迎え、幼子にイエス(救い)という名をつけ、そして、命をかけてこの子を守り育てるのです。

ヘロデ王から子どもが命を狙われたとき、エジプトにつれて逃げ、ヘロデ王の死後、安全なガリラヤを成育のための場所として選び、躾け、教育し、立派な大人へと育て上げ、そして、その活躍の姿を見ずに、自らの生涯を閉じました。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救う方です」という御使いの言葉の成就のために自分の全存在を捧げたのがヨセフだったのです。それは、「罪からの救い」ということが、ヨセフ自身の重大事だったからに違いありません。「正しい人」と言われたヨセフは、姦淫の罪を疑われたマリヤが罪に定められ、死刑になることを望まず、何とかマリヤを救うことを考えた人でした。マリヤを愛していたからです。罪人が救われること、罪からの救いということに真剣に取り組んだ人だったのです。

しかし、「妻マリヤから生まれる方は、聖霊によって生まれる方であり、ご自分の民をその罪から救う方である」という言葉を聞いたとき、赦されるべきは、妻マリヤではなく、自分自身の罪だということを知ったのです。自分こそが罪から救われなければならない人間なのだということを知るのです。高慢が砕かれ、謙遜にさせられました。しかし、その時、自分自身の存在の最大の問題に光が照らされる希望を経験したのです。その問題に解決を与える方が自分の手に委ねられるということを知ったのがヨセフだったです。ですから、彼はこのことのために、いえ、この方のために自分の全存在を捧げました。

私たちは、「救い」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょうか。私たちの人生には、いろいろな苦しみがあります。人間関係の苦しみ、経済的な苦しみ、健康上の苦しみ、また自分が自分であることの苦しみを経験することもあります。しかし、聖書は、その根本に罪があるといいます。罪とは、的を外すことを原義とする言葉で、神様との関係が正しくないことを言います。

神様の御思いよりも自分の思いを第一にする。自分の存在が神様に依存していることを認めようとしないこと。神様の存在を認めたとしても、自分の思いをとげるために神様を自分の召使のように使いたいと思うこと。また、神様だけが決めることができる善悪の判断を自分勝手に自分の都合に合わせて変えようとする。すなわち、高慢が罪の源です。高慢は神様の前にへりくだることをしないため、神様との関係が壊れるのです。そして、存在の意味を失い、穢れと悪にそまり、人は絶望します。人は、永遠の存在である神様との正しい関係の中に永遠の命を与えられるか、それとも罪に留まり続け、永遠の死の中に落ちていくのか、二つに一つだと聖書は言います。

私たちは神様との永遠の絆の中に生きて行きたいです。神様が永遠にこの存在を握ってくださる、そのような関係の中にいたいのです。しかし、そのためには、私たちの罪の問題が解決しなければならないと聖書は言います。罪の赦し、罪からの救いが必要なのです。

それは、罪なき神の御子イエス様が全人類の罪をその身に負って十字架に架けられ殺され、地獄にまで落ちることによって成し遂げられる神の業でした。そのことによって罪の赦しが完成したのです。また、十字架によって最も卑しめられ、低められたイエス様が地獄の底にまで落ちることによって、高慢が打ち砕かれました。ここに高慢の罪に対する勝利があるのです。そのイエス様が三日目に蘇り、死を打ち破って永遠の王座にお付になりました。この方が、私たちを呼んでくださる。この方が私たちを握ってくださることが私たちの救いなのです。

ヨセフは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」という言葉を聞いたとき、それが意味することを全て知ることはできなかったでしょう。十字架と復活の意味をその時知ることはなかったでしょう。

しかし、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」という言葉を聞いたとき、その存在を包む神様の愛と臨在を感じました。そして目には見えない神様のご計画に自分自身を委ねたのです。

「罪から救ってくださる方」、この方は、まさに自分からこの罪の海に飛び込んできて下さった方です。わたしは、海で溺れたことがあります。まだ小学校に入るまでした。紀伊勝浦で持たれたキリスト教の夏の聖会に行っていましたが、海岸に建てられたホテルの前に柵のない広場が作られていましたが、そこを同年代の子たちと走って遊んでいたら、足を踏み外して海の中に落ちてしまったのです。

すると、ある男の人が、服を着たまま、時計もしたまま、海に飛び込んで、私を救ってくれたのです。誰かが飛び込んでくれなかったら、私は救われませんでした。その人の時計は濡れて壊れてしまいました。また、その人に一緒にホテルのお風呂に連れて行かれましたが、その人は足にけがをしていました。

私は、その人の名前を知りません。しかし、その人が自分を顧みずに海に飛び込んでくれたから、私は救われたのです。人を救うとはそのようなことです。

イエス様は、罪の海に沈んでいこうとする私たちを救うために、自らこの罪の海に飛び込んで下さったのです。そして、私たちを救い、自分は海の底に沈んで行かれました。これがイエス様の十字架なのです。

溺れている人は溺れている人を救うことはできません。ただ一人、罪のない神の子イエス様が、私たちを救うためにやって来て下さいました。これがクリスマスです。この方が永遠に私たちと共にいて私たちを救ってくださったのです。今、イエス様を信じる私たちは、もう罪の海の中にはいないのです。救い出されたのです。復活なさったイエス様と一緒に陸の上、天の中にいるのです。

このクリスマスの時、「ご自分の民を罪から救って下さった方」を覚え、感謝しながら過ごしてまいりましょう。

祈りましょう。

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