「マタイの福音書」連続講解説教

この小さい者の一人に

マタイによる福音書10章40節から11章1節
岩本遠億牧師
2007年7月22日

10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」11:1イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

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ここ数週間にわたって、12人の弟子たちを伝道の旅に送り出されるにあたってのイエス様の指示を読み、学んできました。今日の部分は、その最後のところですから、言うならば、その結論と考えることが出来るでしょう。ある意味、最も大切なことが語られていると言っても良いかもしれません。それは、一言で言うと、イエス様に従う者たちの価値の絶大さということです。

人間が他の動物と違うところは数多くありますが、自分自身の価値ということを考えるのも、人間だけに備わった力であろうと思います。人は、いろいろな方法で自分の存在の価値を確認しようとします。何故かと言うと、人は自分の存在の価値に不安を抱いているからです。

多くの場合、人は自分に何ができるか、自分の機能や能力ということで自分の価値を測ろうとします。自分自身が他の人を能力やその人が果たす機能で値踏みするということがある。皆さん、同じように感じていらっしゃると思います。また、ある場合には、持ち物や金銭、財産、社会的地位によって、またある場合には、体力や美貌などによって、さらに、家柄や育ちなどで自分の価値を確認しようとします。また、人を批判したり、陰口を叩くというのも、人を相対的に低めることによって、自分の価値を高めようとする行為です。人類の始祖アダムとエバが罪を犯したのも、善悪を自分の都合で左右できる力を得たいと思ったからです。そのような力は、自分に価値を与えるものだと、アダムやエバだけでなく、人は誰でもそのように思っているのです。

このように、人は自分の存在に価値をもたらすと思うものであれば、どんなものでもそれを自分のものにしようとします。ここに人の高慢があります。しかし、どんなに自分の価値を求めてこれらのものを手に入れたとしても、さらに貪欲になって、そこに満足を得られないのは何故でしょうか。それは、これらの滅び行くものによっては、私たちは、本当には自分の価値を確認できないからです。聖書は言います。「神は、人をご自分の形に造られた」と。神様の形に似せて作られた霊的存在である人の価値は、滅び行く物質、金銭、財産、社会的地位によっては確認できないのです。より価値の低いものは、より価値の高いものに価値を付加することは出来ないからです。そのことは、理屈としては、皆さん、お分かりになると思います。

しかし、理屈としては分かっていても、そこから抜け出すことが出来ずにいるのが人の現実です。聖書は、滅び行くものにしがみ付いている人を、そこから切り離し、更に価値ある方、いや、絶対的な価値をお持ちの方に結び付ける力を私たちに得させるものです。

人は、自分という存在がどれほど尊いものなのかを知らずに生きています。今日、私たちに与えられている箇所も、イエス様に従う者たちに与えられる価値がどれほど絶大なものかを教えるものです。

イエス様は仰いました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」と。これはどういうことでしょうか。「あなたを受け入れる人は、神様を受け入れたのと同じなのだ」と言うのです。クリスチャンはイエス様という真の王の大使なのだということです。

王が大使を遣わした時、大使を受け入れる者は、大使を遣わした王を受け入れるのであり、大使を拒絶する者は、王を拒絶するものであるということになります。しかも、イエス様を受け入れるとはどういうことかというと、「水一杯を飲ませてくれる」だけで良いのだと仰っています。「その人は、報いからもれることはない」と。つまり、永遠の報い、天国に入る祝福を受けるというのです。

皆さん、「救われる」とはどういうことでしょうか。私たちは、救いということの敷居をイエス様が言われるよりも高くしてしまっていないだろかと思います。自分の明確な意識でイエス様を救い主として告白して洗礼を受けなければ救われないと教える教会もあります。しかし、私は、このイエス様のお言葉を読んで思います。イエス様は、本当に相仰っているのだろうかと。このキリストの平和教会にも、以前集っておられ、その後来られなくなった方もおられます。はっきりと信仰告白なさったわけではなかった。洗礼も受けておられません。しかし、旅行に行ったと言っては、お土産のお菓子を持ってきてくださった。イエス様は、仰るのです。「アーメン。わたしは自分の真実にかけて言うが、その人は、永遠の報いからもれることはない」と。

また、私たちが教会を始めたと聞いて、クリスチャンでない方がやってこられ、使って下さいといってお金を置いていかれたことがありました。その方の意識としては、献金ということでもなかったと思います。しかし、イエス様は、仰るのです。「アーメン。わたしは自分の真実にかけて言うが、その人は、永遠の報いから漏れることはない」と。

私たちがクリスチャンであることを知っていながら、私たちに良くして下さった。それだけで、天国の門がその方の前に開かれたのです。何故か?それは、イエス様を信じ従う私たちがイエス様にとって絶大な価値があるからです。私たちに何かができるからではありません。私たちがイエス様の子供とされているからです。

私たちは、自分の子共に良くしてくださった方のことは決して忘れません。怠け者で決して良い生徒でもなかった私たちの子供たちをかばって下さった学校の先生方、自分の子供を可愛がって下さった先生方のことは、親として忘れることはありません。同じように、イエス様も私たちに良くしてくださる方のことを決して忘れないのです。イエス様が私たちの父となって下さっているからです。私たちはイエス様の子供となり、イエス様と同じ命がこの中に流れているからです。

しかし、ここに私たちがどのような有様でこの世に遣わされるのかということが教えられています。イエス様は、「この小さな者の一人に」と仰っている。イエス様の弟子として遣わされるとは、「小さな者」となることなのだということです。先ほど、人は自分の価値を自分で確認するために高慢になると申しました。自分で「大きな者」になろうとすることです。しかしイエス様は、「小さな者」として弟子たちをお遣わしになりました。10章9節~10節には次のようにお命じになっています。「10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」と。

他の人の好意にすがらなければ食べることも飲むこともできないような状態に弟子たちをして、派遣なさったのです。そして、弟子たちに水を与えてくれる人、食べ物を与え、休む場所を提供してくれる人を救おうとなさいました。弟子たちは、イエス様に従うことによって、金銭に頼ることも、社会的地位に頼ることも、何か自分で自分を高めようとすることもできなくなりました。自分の行為、自分の持ち物や財産、自分の家柄、自分の能力、そのようなものでは自分の価値を確認できなくなる。ただ、イエス様の御名の権威を与えられる。イエス様の御名によって平和を祈り、病人を癒す者とされる。イエス様の子供とされる、そのことが彼らにとって絶大な価値となる。イエス様に従うとは、そのようなことだったのです。

皆さん、どう思われますか。私たちに何か良いことを一つでもしてくれる人をイエス様は決して忘れないのです。永遠の報いを与えてくださる。そのために、人の目から見たら、「あの人大丈夫かしら」と思われるような状況や立場に私たちが置かれることがあるというのです。私たちに水一杯を与えてくれる人を救うためです。

イエス様は、言われました。「25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を右に、山羊を左に置く。25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

これは、私たちが弱った人々を助けるべきことを教えておられると同時に、私たちが低められることを通して、低められた私たちを助ける人々を救おうとなさるイエス様の深い御思いなのです。

私たちは、人に同情なんかされたくないと思うでしょう。惨めな気持ちになんかなりたくない。そう思うのは自然です。しかし、そのようなことで揺らぐことのない絶対的な価値、神の子の尊厳で私たちを満たしてくださる方がいる。神の子としての一人一人の価値は、外的な状況が指一本触れることができないほど、確固としたものだとイエス様は仰っているのです。

私たちは、思い出したいと思うのです。イエス様がお生まれになった時、不潔な家畜小屋で生まれ、雑菌で一杯のえさ箱に寝かせられました。貧しく惨めな誕生の有様でした。しかし、それがイエス様の価値を低めたでしょうか。そして、犯罪人の一人として十字架にかけられたイエス様。目隠しをされて殴られ、つばをかけられ、服を剥ぎ取られ、鞭打たれ、磔にされたイエス様の姿。嘲られ、笑いものにされ、低められたイエス様。しかし、それはイエス様の栄光の輝きを曇らせることができたでしょうか。

ある意味、人には惨めに見える姿になってまで、人の心を求められたのです。「あなたのその手を差し伸べてくれ」と。神であられたイエス様がそこまで低くなられたのです。高慢な私たちを救うためです。

しかし、イエス様の存在は、このような状況、どんな状況にあっても、神の子の栄光を現し、イエス様に近づく者、イエス様を見上げる者、イエス様に一杯の水を差し上げる者に、救いと永遠の命を与えていかれるのです。

皆さん、どうぞ心に覚えて頂きたい。私たちは、イエス様を信じ、このイエス様の子供とされたのです。また、イエス様の子供とされるのです。外的な状況が私たちを卑しめているように思えるときがあるかもしれない。イエス様の御名のゆえに、私たちはそれまでしがみ付いていたものを失うことがある。しかし、そのような状況は、神の子としての私たちの価値を決して卑しめることも低めることもできないのです。

自分を高めよう、自分で自分に価値を与えようとすることによっては決して得ることのできない神の子の尊厳が私たちに満たされる。人の目には低く見える私たちの姿を通して、一杯の水を私たちに差し出す心を人の中から引き出し、彼らに救いを与えていかれる方がいるのです。決して変わることのない方が、私たちに永遠の価値を与え、そして約束して下さる。「あなたを愛するものを、わたしは愛し、あなたに水を一杯飲ませてくれる人を、わたしは祝福する。永遠に救う。あなたは、わたしの子だ。わたしと同じ道を歩め。わたしがあなたと共にいる」と。

祈りましょう。

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