「マタイの福音書」連続講解説教

別の道を通って

マタイによる福音書2章1節から12節
岩本遠億牧師
2006年12月24日

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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クリスマスおめでとうございます。今日、このようにして皆さんとご一緒にクリスマスをお祝いできることを、心から感謝しております。クリスマスとは、焼き尽くす火であった神様が、肉の心と体を持ち、この罪の世に住むためにやってきて下さった時です。私たちからは切り離され、交わることのできない天にいた神様が、この地に幕屋を張って下さったのです。霊と真による礼拝が私たちのところにもたらされたのがクリスマスです。

ここのところ「元気の出る聖書の言葉」でも学んできましたが、シナイ山で偶像礼拝と姦淫をおこなったイスラエルは、神様の怒りに触れ、その場で数千人が命を落としました。神様は、罪ある人が直接触れるとその場で人が滅んでしまうほど、絶対的に聖であられる方ですが、この方が幕屋の中に住むという形で自己限定してくださった。幕を通して人と関わって下さったから、罪ある人間が生かされ、祝福の交わりを頂くことができたのです。

クリスマスとは、神様が人の体と心という幕屋の中に自己限定して下さった出来事だったのです。しかも、その自己限定は、私たち人間の目から見ても、弱く、貧しい、悲しい自己限定でした。誰もお産のために場所を空けてくれない、無視された誕生。世に捨てられた貧しい羊飼いたちだけが誕生を喜んでくれました。しかし、この物を言うこともできない弱い幼子の中に永遠の神の御霊が宿り、その前にひれ伏して礼拝するところに、絶大な祝福があったのです。

今日は、この幼子を礼拝することによって、直接的な神様の導きを得るようになった「東方の博士たち」の記事からクリスマスの意味をご一緒に考えたいと思います。

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

当時、メソポパミア地方で占星術を行っていた博士たちは、世界に黄金時代をもたらす真の王が現れると信じ、星の運行によって、その王の出現を予測するために、いつも星を観測していました。注解書によると紀元66年、クリスチャンたちに対する大迫害を行い、ローマに放火した暴君ネロのところにもメソポタミアの占星術師たちがやってきたという記録があるそうです。ですから、彼らの判断が必ずしも聖霊の導きに従ったものではなかったことには注意をしておくことが大切です。

また、ここに記されている「星」の動きは、一般的な星の運行とは違ったものですから、彼らが見た星が天文学的な、どの星だったのかということを議論することは、この聖書のテキストを理解するうえであまり役に立ちません。重要なのは、ユダヤ人の中から真の王が生まれることを彼らに示した光があったということ、そしてそれを見て、彼らがエルサレムまでやってきたということです。

彼らは、エルサレムにあるヘロデ王の王宮に来て言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と。新しく生まれた真の王は、王宮にいると考えたのです。

しかし、王宮にいたのは、ユダヤ人ではなく、エドム人の王ヘロデでした。ヘロデは、ユダヤ人を治めるためにローマ帝国によって立てられた傀儡です。ユダヤ人の王が生まれたということは、彼の王座を危うくすることで、彼は不安になります。

このヘロデ王は、非常に猜疑心の強い人で、王権を手に入れるために、多くの人を殺害し、また、誰かが自分に対して謀反を企てていると疑うや、肉親を次々に殺すような人物です。ですから、東方の博士たちがヘロデの王宮にやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねたことは、ヘロデ王を不安にしただけでなく、エルサレム中の人々を恐れさせたのです。新たな王の出現は、ヘロデ王による虐殺を引き起こしかねないでしょうし、新たなローマとの戦いが起きることにもなるからです。

ヘロデは、民の祭司長たちや律法学者たちを集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただします。殺すためです。彼らは、旧約聖書のミカ書を引用し、ベツレヘムで生まれると答えます。

するとヘロデは、博士たちをひそかに呼んで、彼らから星の出現の時期を聞きだして、年齢を確かめ(1歳数ヶ月)、さらに彼らを自分のスパイとしてイエス様のところに遣わすのです。「『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」

博士たちは、当代きっての知識人です。多くの学問を修め、誰もが先生と呼ぶような人たちだったでしょう。しかし、彼らは、自分たちが誰の声に従って生きればよいのか、誰に従うべきなのかを見分けることができませんでした。人生にとって最も重要な知識は、学問によっては手に入らないのです。どんなに学問を修めても、神の声と悪魔の声を聞き分けられるようにはなりません。聖書は言います。「主を畏れることは知恵の初め」であると(箴言1:7)。主を畏れること、敬うことを通して始めて与えられる知恵と知識があるのです。

彼らは、確かに不思議な星に導かれてやってきました。しかし、ユダヤに着いた時、星を見失いました。彼らは、自分たちを導いた星から目を離し、人間的な判断に従ったからです。「王は王宮にいる」という判断です。そして、殺戮者ヘロデの策略に陥り、殺戮者の手下となってしまったのです。

しかし、そんな彼らを見捨てない神様がいました。不思議な星は、彼らがヘロデのところで手間取っている間、彼らを待っていたのです。そして、イエス様がおられた家まで彼らを導きました。彼らは、それを見て喜びに満ち溢れました。

彼らは、1歳数ヶ月になっていた幼子イエス様の前にひれ伏し、礼拝を捧げます。礼拝とは、ひれ伏すこと、そして、自分の持てるものを捧げる献身を意味するのです。しかし、まだ言葉を発することもできない幼子のイエス様の御前にひれ伏して礼拝することによって、東方の博士たちは、これまでに経験したことのない、新しい霊の導きを得るようになるのです。

「『ヘロデのところに帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあります。

礼拝は、神様との直接的関係を与えるものです。礼拝をとおして、自分が何に耳を傾けなければならないのか、誰の声に従って歩むべきなのか、真理と偽りの違い、光と闇の違いが分かるようになるのです。また、直接的な神様の霊の導きを与えられるようになるのです。殺戮者ヘロデのスパイに成り下がっていた賢者たちが、イエス様を礼拝することを通して、神様との関係を与えられ、別の道を通って帰る者となったのです。これが東方の博士たちにとってのクリスマスでした。主イエス様を礼拝することによって始まる、真の神様との直接的な関係、これを得させるのがクリスマスの出来事なのです。

証し

先ほども申し上げましたが、クリスマスとは、天におられた神様がこの地上に幕屋を張って下さった時のことを言います。神様と関係なく生きていた私たち。何が正しく、何が間違っているか分からず、偶像礼拝や様々な罪を犯してしまっていた私たちのところに、弱い肉という幕をまとってイエス様がやってきて下さったのです。その姿は弱く、貧しく、人から無視され、尊ばれませんでした。

しかし、その中には天の命が輝いていたのです。そしてその光は、私たちの行くべき道を示し、教え、滅びから救って下さる。サタンにだまされ、その手下にさせられていた者を光の中に取り戻し、別の新しい道を歩むものとして下さるのです。

このクリスマスの時、私たちは、この貧しく弱い姿に、権力者の手にかけられたらすぐに死んでしまうほど小さく自己限定なさったイエス様の前にひれ伏したいと思います。人の目には愚かに見えるかもしれない。しかし、この方の前にひれ伏し、祈りを捧げ、礼拝を捧げる時、これまでに知らなかった新しい霊の世界、霊の導きの世界が開かれるのです。悪魔に支配されていた者が解放され、真の神、愛の神の支配の中に移される。正しい道、祝福の道、光の道を歩む者へと変えられていくのです。

聖書の言葉「9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章)

祈りましょう。

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