「マタイの福音書」連続講解説教

完全な愛

マタイによる福音書5章43節~48説
岩本遠億牧師
2006年11月26日

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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イエス様は、自分が来たのは、律法や預言者(旧約聖書)を廃止するためではなく、完成するためだと言われましたが、今日の箇所は、そこから始まる、マタイによる福音書5章17節からの教えの結論とも言うべき箇所で、イエス様の姿に似せられる者の祝福を語っておられます。

毎週申し上げていますが、イエス様は、ここで私たちを落胆させるために、これらの与えられた新しい教えを与えられたのではありません。むしろ、私たちが肉の思いでどんなに頑張っても達することのできない霊的な祝福の世界があり、そこから私たちに注がれ、私たちを変えていく命があるということを与えようとしておられるのです。

だから、私たちは、ここでイエス様の教えの言葉を読んで、「嗚呼、駄目だ」と思うのではなく、これを語られるイエス様の御顔を仰ぎたいと思います。これを可能にするのは、私たちの力ではなく、イエス様だからです。

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

とありますが、旧約聖書に「敵を憎め」と書いてある箇所はありません。むしろ、それは律法の教えに対する解釈として、当時教えられていたものと考えられます。基本的に「隣人」とはイスラエル、「敵」とは異邦人を指します。また、「憎む」という言葉は、私たちが普段使う意味とは違い、「より少なく大切にする」という意味です。積極的に憎むということではなく、より価値のあるものを優先するということです。

例えば、律法には、同胞のイスラエル人に金を貸すとき、利子を取ってはならないと規定されていますが、外国人からは利子を取って金を貸しても良いことになっていました。このような場合、同胞を愛し、外国人を憎むと言ったわけです。優先順位の第一位にしないということを「憎む」と言う言葉で表しているのです。

これに対してイエス様は何と仰っているか。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」

当時、神様が救われるのはイスラエルだけだと彼らは考えていました。イスラエルは選民であり、救われている。しかし、異邦人は救いの対象でないと考えられていました。イエス様は、そのように考える彼らに対して、君たちが救いとは関係がないと思っている異邦の人たちを愛し、彼らのために祈りなさい言うのです。

ここで、私たちは「あなたがたの天の父の子となるためである」という言葉を誤解しないようにしたいと思います。イエス様は、決して自分の行為によって神の子となれと仰っているのではありません。

イエス様は、「あなたがたの天の父」と仰っています。「あなたがたは天の父がおられる」ということをまず前提として仰っていることに心を留めましょう。ですから、「あなたがたの天の父の子となるためだ」と仰るとき、それは、「あなたがたの天の父の子としての実存が輝くためだ」ということを意味しているのです。自分の頑張りで神の子の身分を手に入れなさいということではありません。それは、不可能なことです。私たちは、ただイエス様の恵みと憐れみによって、その十字架の血によって神の子とされるのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。」

そしてイエス様は、神様の愛についてお語りになります。悪い者にも良い者にも太陽を登らせてくださる方、自分を愛するものにも、敵対する者にも、自分を白に者にも、無視する者にも変わらぬ太陽を昇らせ、光を与え、育てて下さっている。また雨の恵みを与え、渇きを癒し、食物を与えて下さる。太陽の光は誰も拒むことなく、全ての人を照らし、雨は正しくない者をも潤すのです。

君たちが存在する価値がないと思っている異邦の人たちやローマの手先となっている徴税人たち、神を知らない人たちをも父なる神様は愛しておられるのだ。彼らに恵みを注いでおられるのだと教えておられるのです。これは、当時のユダヤの人たちにとっては、価値観を転換させられるような宣言でした。神様から律法を与えられたイスラエル、そしてその律法を守るものが救われると考えていたからです。しかし、イエス様は、父なる神様は、悪人にとっても善人にとっても父なる神様なのだ。正しい者にも正しくない者にとっても父なる神様なのだと教えておられるのです。

私は、大学生の時、東京で下宿をし、毎月父から送られてくる仕送りで生活していました。父がキリスト教の伝道をしていたため私は小さい時からクリスチャンとして育ちましたが、私は大学3年の時、信仰を否定して自分の好き勝手な生き方をしようとしました。

父の生き方とその価値観を否定したわけですが、父はそんな私の状況を知りながら、毎月の仕送りを続けてくれました。新学期になると、本を買うようにと、いつもより多めに送ってくれていました。

元気な時も、病気に倒れた時も、信仰に燃えている時も、信仰を捨てた時も、変わらずに仕送りを続けてくれたのです。親として当たり前のことかもしれません。しかし、親だから当たり前なのです。

神様は、私たちが良い時にも悪い時にも、太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる。私たちが悪くても、その恵みを決して減らしたりなさらない。神様が、私たちの天の父だからです。

イエス様は仰るのです。お前たちも、この方の子供だ。そして、あの人たちも、この方の子供なのだ。この方に似た者とされよと。

さらに「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたイエス様の言葉を考えていきましょう。イエス様は言われます。

5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

君たちは、自分を愛してくれるものだけを愛し、同胞の兄弟だけに挨拶をしている。君たちが軽蔑して、存在する価値がないと言っている異邦人や徴税人たちと同じではないか。自分に都合の良いものだけを愛する愛。君たちは何も彼らに勝っているところはない。同じなのだと言うのです。

人は、自分の都合の良いい人だけを愛する。自分で愛する対象を選ぶ。それは、自分が基準となる高慢の愛です。高慢の愛は、自分で愛する人を自分で選ぶのです。そして自分にとって都合が悪くなったら、関係を切ろうとする。しかし、謙遜の愛は、自分で愛する対象を選ばないのです。それは、僕が主人を選べないのと同じです。イエス様は、言われました。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と。

自分に都合の悪い者、自分を迫害する者のために祈る愛とは、自分が選ばない愛なのです。低められた者の愛、それは、全てを愛する愛なのです。イエス様の十字架の愛です。

低められ、敵を愛し、迫害するもののために祈る愛は、イエス様によって初めてこの地上にもたらされたものです。私たちは、誰も、自分の思いで敵のために祈れるようにはならないのです。自分に味方する者を善とし、敵対する者を悪とする人間の高慢があるからです。

イエス様だけが、この愛を持っておられたのです。イエス様は、十字架につけられるとき、ずっと祈っておられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この祈りは、単にイエス様を十字架にかけた処刑人のために祈られたのではなく、イエス様を十字架に追い込んだ、全ての罪びと、全人類のために祈られたものです。イエス様だけが赦す力を持っていたからです。

私たちは、愛ということをどのように理解しているでしょうか。私たちは、「素晴らしいね」と言われることが好きです。そのように言われるとき、愛を感じます。高められる時、愛されていると感じるのです。また、私たちは好き嫌いということと愛を同一視する傾向があります。愛は感情だと思うのです。だから、多くの人は「愛を信じられない」と言います。自分の感情が揺れ動くように、自分を愛してくれる人の感情も揺れ動く。揺れ動くものを信じても裏切られるだけだと。

しかし、イエス様がもたらして下さった「愛」は感情ではありませんでした。それは、命の本質だったのです。私たちの罪のために自分自身を捨てる命であり、低められ、十字架にかけられ、殺され、否定されて、地獄に落ちてもなお生き続ける命。そして復活する命だったのです。

私たちは、自分が認められることが愛であり、否定されたら愛は最後だと思います。確かに人の愛はそうかもしれない。しかし、否定され、殺されてもなお生き続け、必ず復活する命、これがイエス様の愛だったのです。否定するものさえも包み込み、生かす命でした。このような愛を人間は知りませんでした。誰も持っていなかったのです。イエス様によってのみ、この地上にもたらされたのです。イエス様は、この愛の命によって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈り続けられたのです。

ある大学の聖書研究会で実際にあった話です。数人のクリスチャンの学生たちが大学の教室を借りて聖書研究会をやっていました。ある日、そこへ一人の男子学生が入ってきました。彼は無神論者で、議論好きの学生でした。彼は、聖書研究会をやっているところに入ってくると、いろいろと議論を仕掛けます。クリスチャンたちの信仰を打ち倒そうとしていたのです。聖書研究会をやっている学生たちは、神学的な訓練を受けた人たちではありません。議論では彼に勝てませんでした。彼は、神はいないという議論に勝ち。意気揚々として帰っていきました。聖書研究会はめちゃくちゃになりました。そのようなことが数週間続きました。

次の週、彼は聖書研究会に行きませんでした。議論に勝ったため、もう行く必要を感じなかったのです。しかし、その次の週、ちょっと気になって会場に近づいていくと、彼らが祈っている声が聞こえてきました。クリスチャンの学生たちが祈っていました。「先週、A君は聖書研究会に来ませんでした。神様、どうぞ、またA君をこの聖書研究会に送って下さい。一緒に聖書を学ぶことができるようにして下さい」と。

彼は、打ちのめされました。彼は聖書研究会をやっている学生たちに憎まれていると思った。しかし、彼らはA君のために祈っていたのです。どんなにめちゃくちゃにされても、A君を救って下さいと祈っていたのです。迫害する者のために祈る祈り、それは、低められた者の祈りです。しかし、この低められた者の祈りに絶大な神様の命が注がれ、状況を変えていくのです。彼は、この愛に触れて、クリスチャンとなり、海外宣教師となって今イエス様の働きをしています。

イエス様は、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。自分の力で完全になれと仰っているのではありません。あなたを完全な者とする命があるのだ。そのような天来の命があるのだと仰っているのです。

隣人をさえ愛することが難しい私たち、また、自分を愛し、受け入れることさえ難しい私たち。自分を見たらできないでしょう。しかし、私たちの愛の限界を遥かに超えるイエス様の愛があるのです。私たちの愛がなしえないことを成し遂げる絶大な愛がある。ここに私たちの希望があります。

低められ、全てから否定されても生き続けたイエス様の愛、殺されても復活したイエス様の愛、ここに私たちの希望があるのです。この愛が、私たちの中に生き続け、やがて私たちの中でその本質の輝きを現すときがやってくるでしょう。

私たちを完全な者とするのは、私たち自身ではなく、低められた愛によって全てのものを愛し赦し、新たにする十字架の愛だけです。この愛が全てを包むのです。この愛だけが完全な愛なのです。

祈りましょう。

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