「ヨハネの福音書」 連続講解説教

恵みとまことによって

ヨハネの福音書1章1節から18節
岩本遠億牧師
2009年1月18日

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。 1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

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先週からヨハネの福音書の学びを始めましたが、先週は「ことば」とはどのようなものかということから、「はじめにことばがあった」という箇所を中心にお話ししました。ことばとは、「意味」と「音声」がペアになったもので、音声を聞くことによって意味を知ることができます。御子キリストは、父なる神様の自己表現形であり、全ての創造の業、癒しの業、再生の業は、愛である神様の自己表現であり、これら全てのことが御子キリストによってなされるのだと聖書は言うのです。

「はじめに」と訳されているギリシャ語の「アルケー」は、「そもそも時間というものが始まった時」という意味もありますが、「根源」という意味でもあります。古代ギリシャの哲学者たちは、万物の根源は何かと問いましたが、その代表的なものにターレスの「万物の根源は水である」というのがあります。またピタゴラスは「万物の根源は数である」、ヘラクレイトスは「万物の根源は火である」と言いました。

それらの哲学的な思弁に対し、ヨハネの福音書は宣言するのです。「根源に、ことばがあった。」「ことばなるイエス・キリストこそ万物の根源である」と。この方こそ、全ての根源である神であるのだ。父なる神様の業の全て、創造の業、これまで示された恵みの業、今行われており、これからも行われていく新しい創造の業、絶大な恵みの業は、万物の根源であるイエス・キリストによるものであるのです。そして、この方こそ、全ての人を照らす真の光である、いのちの光であると。

今日は、「1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」という箇所の「信じる」とは一体どういうことかということを、今日お読みしたところ全体から共に考えていきたいと思います。結論を先に言えば、それは、自分を納得させて信じようとするというようなことではないということです。「恵みとまことに満ちておられた方」のその恵みとまことが私たちに現わされたとき、私たちは信じる者となるのです。それは、私たちが信じたいと思うから信じるのでもなく、決心して信じるものでもない。「1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と書いてあるとおりです。

この観点から、12節の「受け入れる」と訳されている言葉には注意をする必要があります。日本語の「受け入れる」という言葉には、「無理する」というニュアンスがあります。「夫を受け入れる」「妻を受け入れる」「子供を受け入れる」あるいは「親を受け入れる」と言うとき、無理していないでしょうか。頑張って自分を広げよう、もっと人を受け入れられる人間になろうという努力が感じられる。ところが、13節で、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく」と言われる時、それは人間の頑張りや努力によって「受け入れる」ものではないということが分かるのです。

英語では、receiveと訳されています。Receiveとは「受け取る」という意味です。あるいは、「先日プレゼントを送りましたが、届きましたか」「はい、届きました」という時の「届きました」がreceiveなのです。父なる神様が、「わたしの最愛の子、イエス・キリストをあなたのところに送りました。届きましたか」と言われる時に、「はい。届きました。イエス様は、私のところに来られました」というのがreceiveなのです。自分が頑張って心を開いて受け入れることではない。「はい。イエス様は私のところに来られました」ということであるのです。それが「御名を信じるということです。」

父なる神様は、このような者たちに「神の子とされる特権をお与えになった」とあります。「特権」というと嫌な響きがあります。「特権階級」というと悪い人間のようなニュアンスがある。むしろこれは、「権能」とか「力」「自由」「権利」と訳される言葉で、神の子とされ、神様を父と呼ぶ自由、権利、あるいは立場を与えられるということです。

ですから、父なる神様が、「あなたのところにわたしの最愛の子イエス・キリストを送りました。届きましたか」と言われる時に、「はい、届きました。イエス様は、私のところに来られました」と答える者たちが、その瞬間、父なる神様に向かって、自由に臆することなく「天のお父様」と呼ぶことができる自由と権利、立場と力を与えられたということなのです。父なる神様に向かって「父よ」と呼びかけるイエス様の御霊が私たちの中に注がれるからです。

では、私たちは、どのようにして「はい、届きました」と告白することができるようになるのでしょうか。また私たちは、そのように告白してきたのでしょうか。その答えは、「1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」という言葉にあります。

「ことばは、人となって私たち間に住まわれた」とあります。「住まわれた」と訳されている言葉は、「幕屋を張る」という意味です。「幕屋」というのは、出エジプト記に出てきます。イスラエルは、神様の憐れみによってモーセに率いられてエジプトを脱出しますが、すぐに反逆します。彼らはモーセをとおして与えられた神様の掟に従わず、偶像崇拝に陥りますが、多くの者たちが神様に対する反逆をやめず、命を落とします。

神様は、「もうお前たちと一緒に行かない。わたしの使いを遣わす。その使いがお前たちを導く」と仰せになりました。しかし、モーセは懇願するのです。「わたしはどうしたら良いか分かりません。誰がわたしたちを導くのか分かりません。主よ、この民があなたの民であることを覚えて下さい。」すると主は言われました。「わたし自身があなたと共に行き、あなたを休ませる」と。そして、民の中に幕屋を建設することをお命じになるのです。幕屋とは、民の宿営の只中で、主を礼拝する場所、主が民の中に住まわれる場所でした。それは簡易式のもので、民が移動するとき、幕屋も共に移動します。神様が私たちと共にいて下さる。悪い私たちの只中に住んで、私たちを礼拝者としてくださる。それが幕屋なのです。

幕屋の外側は、ジュゴンの皮で覆われていました、砂ぼこりや夜露には強いものでしたが、そこからは醜い動物の皮にしか見えません。しかし、その中には、純金の燭台、純金をかぶせた契約の箱とテーブルが置かれ、綾色の糸でケルビムを織り込んだ垂れ幕が内側にはかけられています。外側からは醜いジュゴンの皮の直方体にしか見えませんが、内側には神様の栄光、恵みとまことを表す全てのものが満ちていた。それが幕屋だったのです。

「ことばは、人となって、私たちの中で幕屋となられた」と、聖書はイエス様のことを紹介しました。人の心と体を持ち、外側から見るならば、決して麗しいとは思えない姿のイエス様、人から蔑まれ、軽蔑され、卑しめられたイエス様。生まれた時には、誰も場所を空けてくれず、汚い家畜小屋で生まれ、そして、生涯の最後は十字架にかけられ、全てに否定されたイエス様。外から見るなら、それはジュゴンの皮のような存在がイエス様だったのです。しかし、その中には神様の栄光が満ち満ちていた。恵みとまことが満ち溢れていたのです。

私たちは、この人となられたイエス様の中に満ち溢れていた恵みとまことを知ることによって、その恵みとまことに触れることによって、「はい。主よ、届いています。イエス様は私のところに来ておられます」と告白することができるのです。そして、ヨハネの福音書は、この方の恵みとまことを私たちに伝えるために書かれたものであるのです。これでもか、これでもかというほど、この方の恵みとまことを告げ知らせるのがヨハネの福音書であり、聖書66巻なのです。

私が発行している「元気の出る聖書の言葉」の読者でTさんという方がいらっしゃいます。横浜市のご出身ですが、現在は札幌にお住まいです。この方とはインターネット上で親しくお付き合いをさせて頂いているのですが、先々週の土曜日、10日の夜にご連絡を頂きました。警察から電話があって、横浜で一人暮らしをしているお父様がお亡くなりになった、日曜日の朝一番の飛行機で羽田に飛び、横浜に行くということでした。さらに、葬儀のことで相談することになるかもしれないとのご連絡でした。

先週の日曜日、礼拝後横浜に向かい、初めてTさんとお会いしました。それまでのインターネットでのお交わりで、中高生の時からお父様と関係がうまくいっていなかったこと、結婚式にもお父様をお呼びすることができなかったことなど、お父様との関係に苦しんでおられることをお知らせ下さっていました。Tさんには、お父様に優しくしてほしい、弱いままの自分を受け入れてほしいという思いがありましたが、お父様はTさんに非常に厳しかったそうです。その一方で会社人としても家庭人としても、弱々しくさえ見えるお父様であった。自分を受け入れてくれない父親に反発、失望してTさんは家を飛び出し、自暴自棄の生活を送るようになり、ついに重い病気にかかり、死ぬ寸前まで落ちて行かれた。そんな中でインターネットを通して知り合ったのが奥様のMさんです。

Mさんは、死を望んでいたTさんを無理やり病院に入れ、そして退院後は彼を引き取って札幌に連れ帰りました。そんな中で二人揃ってキリスト教会に導かれるようになり、イエス様に出会って救われ、洗礼を受けられました。そして、去年正式にご結婚なさいました。

Tさんは、これからイエス様にあって人生をやり直そうと思っていた矢先にお父様を失われ、どうしたら良いか分からないというのが実際のお気持ちだったのではないかと思います。

先週の日曜日、横浜に行きましたら、お父様は急性の心不全でご自宅でお倒れになり、お亡くなりになったということでした。一人暮らしだったため、発見が遅れ、近所の方の通報で5日後に発見されたということでした。

ご一緒にご自宅に入らせていただきましたが、そこでTさんは、それまで知らなかったお父様の素晴らしい側面を知ることになりました。Tさんが高校生の時、会社をお辞めになってからは特に定職に就くこともなかったということですが、地域社会の融和と発展のためにご尽力であったということです。お父様のお部屋には、ご友人の方からの手紙が残されていました。お父様が団地の管理組合の理事長となられて、それまで解決することができなかった不正の絡む難しい問題を解決なさったこと、立体駐車場を建設して団地を発展させ、団地内の一致と平和をもたらすことに尽力なさったことが書かれていました。そして、そのご友人の方が書いておられるのをTさんは読まれました。「わたしが癌に冒されて希望を失い、絶望していた時、あなたは私に力を下さった。あなたのお姿を見て、私はもう一度生きようと思った。あなたによって私は生きる希望を与えられた」と。

Tさんは、その手紙を読んで泣き崩れました。「主よ。私は父のことを何も知りませんでした。自分の思いだけにとらわれ、私は父のことを全然理解しようとはしていませんでした。主よ、わたしの罪をお赦しください」と。

私は、その場に一緒にいさせて頂いて、確信しました。Tさんとお父様の霊は、この時イエス様にあって和解することができたのだと。

Tさんのお父様は、高校卒業後東京に出てこられてすぐにカトリック教会に集われるようになってイエス様に出会い、クリスチャンになられました。若い頃から希望を置いてこられたイエス様が、地域社会の問題を解決する力と、病の中で絶望していたご友人に生きる希望を与えられたのです。

Tさんは、これまで本当に頑張ってお父様を赦そうとしてこられた。そのために必死で祈っても来た。しかし、解決されなかった。しかし、それまで自分には隠されていたお父様の素晴らしい本当の姿を知ることによって、一方的に神様の和解が与えられたのです。

弱さと罪の中にある私たち人間の関係にさえ、より深い理解によるこのような素晴らしい和解が与えられるのです。まして、恵みとまことに満ちておられるイエス様がご自身を現わして下さる時、私たちはイエス様とどのような素晴らしい関係を与えられるのでしょうか。

私たちがイエス様の御名を信じることができるのは、イエス様の本当のお姿を知るからです。それが私たちに分かる形で明らかにされるからです。私たちが無理して自分を納得させようとして信じるのではありません。イエス様の御霊が私たちに働きかけ、聖書の言葉を理解できるようにしてくださる。恵みと真に満ちておられたイエス様が私たちの心の中に明らかにされるのです。その豊かさの中から恵みの上にさらに恵みを注いで下さる方を知る時、私たちは、「主よ。イエス様は、確かに私のところに届いてくださいました」と告白することができるのです。その時、私たちは神の子とされるのです。神様に向かって「天のお父様」と呼びかける「子」とされるのです。神様との自由な関係を喜ぶことができる者とされるのです。

「1:14 ことばは人となって、私たちの中に幕屋を張られた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

神様に反逆し、滅ぼされても仕方がないものを憐れみ、この只中に幕屋を張って、ここに住んで下さる主がいる。イエス・キリストとしてこの地上を歩き、恵みとまことに満ち溢れたお姿を現して下さった。そして、今、私たちの中にも幕屋を張り、この中に生きて下さるのです。私たちのこの弱い、卑しい、罪深い、この存在の中に幕屋を張って下さっている。私たちを見捨てず、見放さず、この中で栄光の業を行ってくださる。私たちを新しい存在として造り変える、再創造の業を行って下さっているのです。

私たちに求められることは、ただ、イエス様を指し示す聖書の言葉に耳を傾けることだけなのです。聖書の言葉の中にイエス様がご自身を現わして下さる。私たちはその真のお姿を心の目で見るようになる。その時、私たちは自分自身が神の子とされている絶大なイエス様の恵みを知ることになります。

だから、私は祈ります。「主よ、どうぞお一人お一人の中に、あなたご自身があなたご自身を明らかにしてください。恵みと真に満ちたあなたのお姿を現してください。そして、メッセージを語る私が、ただあなたの恵みとまことを告白することができますように。ただあなただけを告白することができますように。あなたの真のお姿が明らかにされたとき、全ての人があなたを信じることができ、あなたの子とされるのですから。この卑しい心と体の中に栄光のあなた、絶大なあなたを宿して生きることができるようになるのですから」と。

祈りましょう。

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