「マタイの福音書」連続講解説教

神様は不公平か?

マタイの福音書 20章1~16節
岩本遠億牧師
2021年1月24日

「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」マタイの福音書 20章1~16節

この箇所を理解する鍵
デナリ:永遠の命の比喩
文脈的前提 AかBか?

A:永遠の命を行いの対価として得ようとするのか?
→行いによって永遠の命を得ようとした富める青年

B:主イエスが手を置いてくださることが永遠の命なのか?
→子どもたちに手を置いて祝福された主イエス

ペテロの質問:前提Aに立つ

ペテロの問い:
全てを捨ててあなたに従い、最初からあなたと共に働いてきた私たちには何がもらえますか?

主イエスの答え:
朝早く働き始めた者も、夕暮れ近くになって働き始めた者も同じく永遠の命が与えられる。

1デナリ(=永遠のいのち)は労働の対価として与えられるものではない。
主に呼びかけられ、主のもとに来たか。それが全て。

「先の者が後になり、後の者が先になる」とは?

放蕩息子の兄との並行性
先に雇われた者は、主の葡萄園で働く祝福を味わっていなかった。

「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。」 申命記 23章24節

何をしたら永遠のいのちを自分のものにすることができるかと考えるものは、ぶどう園で腹一杯食べ、主人と語り、楽しむことを自ら拒絶している。

ルカの福音書 15章27~32節
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

ペテロは、最後まで「私はあなたに最初から従ってきました」とか、「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました」と言えただろうか?

十字架を前にした主イエスを否認したペテロ。
前提Aには根本的に的外れだということを知る。

コリント人への手紙 第一 15章3~10節
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

主イエスの圧倒的な赦し、圧倒的な命の注ぎを知る
主と共にいることの喜びを知る
           ↓
「わたしは、最初からいましたが、実は、私こそ最後の者でした。1デナリ受けるに相応しくない者でした。それなのに、あなたは1デナリ(永遠の命)を与えてくださいました。」

イエス・キリストの恵は、時間当てき順序を超える。
時間を超えて働くのがイエス・キリストの永遠の命である。

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