「ルカの福音書」 連続講解説教

アドベント(1)マリアに対する主の憐れみ

ルカの福音書1章
岩本遠億牧師
2006年12月3日

クリスマスを迎えるアドベントになりました。イエス様のご生誕が私たち人間にどのような意味があるのかを聖書から学んでいこうと思います。今日は母マリアについて書かれている箇所を取り上げます。イエス様と最も深い関わりをもった人物といえば、それは母マリアであると思います。今日は、まだ13~14歳とも言われる少女が救い主イエス様の母となるということを受け止めることができたのは何故か、神様はどのようにしてマリアを支えられたのかを見てみたいと思います。ルカの福音書を読みますと、マリアに対する神様の憐れみを読み取ることができます。

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 1:37 神にできないことは何一つない。」 1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

◆マリア、エリサベトを訪ねる

1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

◆マリアの賛歌

1:46 そこで、マリアは言った。

1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

1.ガリラヤ地方のナザレという町に住んでいた乙女マリアのところに主の使いガブリエルが遣わされて、マリアが聖霊によってみごもること、生まれてくる子供がいと高き方の子と呼ばれること、ダビデの王座を受け継ぎ、永遠の王として支配することを告げました。

これに対するマリアの反応は、「自分は男性を知らない。子供を産むことなどありえない」ということでした。ガブリエルは続けて言います。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」マリアは、ヨセフと言う男性と婚約していました。当時ユダヤでは婚約は結婚と同じ法的な効力があり、婚約中に夫が死ねば、妻は寡婦となりましたし、婚約中に他の人と肉体的な関係を持ったら、姦淫の罪を問われ、死刑と定められていました。

マリアは、ガブリエルのメッセージを聞いてどのような思いだったでしょうか。喜べたでしょうか。恐れと不安に包まれたというのが実際のところだったのではないかと思います。まだ一緒にならない婚約者の夫ヨセフに何と言えば良いのか?彼は理解してくれるだろうか?まかり間違えば、姦淫の罪を問われて死刑になってしまう。現実のこととは思えなかったのではないでしょうか。何かの間違いではないか。しかし、ガブリエルは、マリアの思いを打ち消すように、次のように言うのです。

「1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 1:37 神にできないことは何一つない。」

不妊の女と言われていた親類のエリサベツが、無から有を呼び出す神様の力によって妊娠して、今6ヶ月だと言うのです。当時、子供が生まれないのは、神様の祝福から除外されていることと考えられていました。そのようなところに神様の力が働くのだ。無から有を創造するのが神様なのだとガブリエルは言うのです。

1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

マリアは、「私は主のはしためです。お言葉どおりにこの身になりますように」とお答えしましたが、不安でしかたがなかったと思います。イエス様は、「御心が天で行われるように地にも行われますように」と祈れと教えられましたが、「地に行われますように」と祈る時の基本は、まず「この身に行われますように」と祈ることです。自分の身に行われることを拒みつつ、「この地に行われますように」と祈ることはできないのです。その意味で、このマリアの言葉は、主の祈りの原型をなすものなのです。マリアは、全てのことが分かって、この祈りの言葉を言ったのではありませんでした。主の大いなる御業が行われるために、自分の体が用いられようとしている。否、体だけでなく、自分の心も生活も生涯も全てが用いられようとしている。神の子の母となる喜びよりも、不安の方が大きかったのではないかと思うのです。自分では想像できないような大変なことが起きるという怖れがマリアを襲ったと思います。マリアの偉大さは、このような状況の中で神様の御手の働きを、分からないながら全て受け入れたということです。

マリアは、神様の言葉を受け入れ、神様の業が自分の上に行われることを受け入れました。しかし、それだけでは感謝したり、賛美を歌えるような状態にはならなかったのです。不安と怖れが覆っていたのです。彼女は、すぐに親戚のエリサベツに会いに行きます。「1:39急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とありますから、居ても立ってもいられなかったのです。エリサベツの妊娠を祝うということもあったでしょうが、神様の創造の力によって死んだような体に命を宿すようになったエリサベツなら、自分が聖霊によって神の子を宿すようになったということを分かってもらえるに違いないと思ったからです。一刻も早くエリサベツ叔母さんに会いたい。エリサベツ叔母さんなら分かってくれるはずだ。そのような思いだったのではないでしょうか。

そして、100数十キロの道を越えて13~14歳の少女が一人で歩いてザカリヤの家に行きました。そして、マリアが挨拶の言葉を述べたとき、エリサベツはどうしたでしょうか。マリアが挨拶の言葉を言った時、エリサベツは聖霊に満たされました。そして大声を上げて言いました。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

聖霊がエリサベツに、マリアの胎に宿っている命が神の子だということを啓示したのです。エリサベツはマリアに「私の主の母上!」と言うのです。マリアや不安だった。これからどうなるか分からない自分の人生、神様の御用のために用いられるとは言え、自分の理解できない方法で事が進められ、自分の意志に関わらず自分の体と心が使われていく。そんなマリアの不安な思いの全てを受け入れ、理解し、励まし、慰めたのがエリサベツの「私の主の母上が来てくださるとは!」という言葉だったのです。マリアは、不安と怖れで満ちていた自分を尊いものとして祝福する言葉を聞いて、どんなに力づけられたでしょうか。慰められたでしょうか。

2.この時、マリアは初めて主を賛美する言葉を述べることができるようになったのです。この有名なマリアの賛歌は、ガブリエルがマリアに受胎告知をした時に歌ったものではありません。マリアの信仰の発露と言われますが、マリアがこれを歌えるようになるために、まず、マリアに対する主のお取り扱いがあったのです。エリサベツの言葉を聞いて、初めて、感謝し賛美することができるようになったのです。エリサベツの言葉によって、マリアの不安と怖れが取り除かれたのです。マリアに初めて喜びが与えられたのです。そのために主はエリサベツを聖霊で満たしてくださったのです。

マリアは言いました。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。・・・」

マリアは、自分を尊いものだと思うことができなかったのです。自分は卑しいものだ、主を宿すなんてことは考えることもできないような人間である。自分は怖れた。どうしたらよいかわからなくなるような人間である。しかし、主はこんな私に目を留めてくださった。不安が喜びに変わったのです。「どうして私が」と思っていた心に、「あなたは私に目を留めてくださった」という信仰が与えられたのです。これからのことは良くわからないかもしれない。しかし、神様は自分を見ていてくださる。神様の温かい目と暖かい手の中にある自分を発見することができたのです。

私は、このマリアの賛歌の中に神様のマリアに対する大きな憐れみを見ます。神様の御心に従うと心に決めていたけれども、喜びがなかった。不安があった。そんなマリアをエリサベツの言葉によって、励まし、不安を取り除き、喜びを与え、心の重荷を取り去ってくださった神様のマリアに対する愛があったのです。そして、そのためにエリサベツを聖霊に満たしてくださった。

3.私たちが、今日のこの箇所から学ぶことはなんでしょうか。それは、神様の御業に参加していく人たちの中には、自分から手を挙げて、積極的に関わっていく人がいるのと同時に、いつのまにか、自分の意思とは関係なく、自分が神様の業のために使われることがあるということです。ある意味で、自分の意思によって人生を実現しようとする生き方の対極にあるような生き方です。自分の意思によって自分の人生の重要案件の決定に関わることができない。自分は望んでいないのに、自分には負いきれないような重荷を神様によって背負わされるようなことがあるということです。そんな時、仮に「あなたのお言葉のとおりにこの身になりますように」と言うことができたとしても、不安が消え去らず、喜びが取り去られたままのような状態があるということを聖書は正直に認めているのです。

自分から手を挙げるような人なら、「何をうじうじ言っているのか。神様が用いてくださると言っているのだから喜べば良いじゃないか」と言うでしょう。しかし、そうできない人がいる。そうできない場合がある。イエス様の母マリアがそうだったのです。神様は自分から手を挙げるような人だけを用いられるのではないのです。しかし、その時、そういう人は不安になります。今まで持っていたと思っていた喜びさえなくなってしまうようなショックを受けることがあるのです。

神様は、それをご存知です。そして、マリアに聖霊に満たされたエリサベツが備えられていたように、あなたにも聖霊に満たされた人が備えられているのです。そして、その人との交わりにおいて、あなたは自分が受け入れられていることを知り、そして、神様の温かい目が注がれている自分、神様の暖かい手が包んでくださっている自分を知ることができるようになるのです。「この卑しい私に主は目をかけてくださった」と告白できるようになり、主に用いられる自分を愛し受け入れることができるようになっていくのです。賛美することができなかった心に賛美が与えられる。感謝することができなかった心に感謝が与えられるのです。

自分の力以上のことを求められ、不安がやってくるとき、イエス様の母マリアを支えられた神様のことを思いましょう。マリアを支えられた神様は、必ずあなたを支えてくださいます。そして、聖霊に満たされた人を備えマリアから不安を取り除き、感謝と喜びと賛美を満たしてくださった神様は、あなたのために聖霊に満たされた人を備え、あなたから不安を取り除き、同じ感謝と喜び、賛美で満たしてくださるでしょう。

祈りましょう。

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