「マタイの福音書」連続講解説教

イエス様のバプテスマ

マタイの福音書講解説教3章13節~17節
岩本遠億牧師
2006年7月23日

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

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イエス様の公の活動は、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けるところから始まりました。今日は、イエス様のバプテスマの意味、そしてその時、天から聞こえた声の意味をご一緒に考え、学びたいと思います。

この箇所の最初の部分の状況を思い浮かべてみたいと思います。ヨハネがバプテスマをしていたのはユダヤの荒野で、イエス様はガリラヤ地方から、3日ほどの道のりを歩いてやってこられました。明確な目的意識があったのです。では、どのような目的があったのでしょうか。

ヨハネは、「立ち帰れ!天の支配が近づいたから」と叫び、人々が神様に立ち帰るべきこと、そして、それまでの罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい心で新たに生き始めることを強く迫りました。しかし、聖書はイエス様について、罪を犯したことがなないと言っています。

ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

1ペテロ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

イエス様には告白すべき罪がありませんでしたし、神様が共におられましたから、神様に立ち帰る必要もなかったのです。神ご自身であったイエス様が何故バプテスマを受けなければならなかったのでしょうか。

この疑問は、私たちだけの疑問ではなく、洗礼者ヨハネが抱いた疑問でもあります。彼は、バプテスマを受けるためにやって来た人々が本当にバプテスマを受けて、新しく生き始める決心があるかないかを問いただし、そのテストに合格した人々にだけバプテスマを授けていました。ですからイエス様がやって来られた時も、イエス様を試問した筈です。しかし、その時、イエス様がバプテスマを受ける必要がない方であること、いや、むしろ、自分こそがこの方からバプテスマを受けなければならないことを知るのです。

3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

この言葉は、そのことを意味しています。

しかし、イエス様は、「全ての正しいことを実行することは、わたしたちにふさわしいのです」とお答えになっています。少し分かりにくいので説明しますが、ここで「正しい」と訳されている言葉は、「義」という言葉ですが、これは正しい行いということではありません。聖書が「義」と言うとき、それは、「救い」ということと一対、一体となった言葉で、神様から与えられる関係の正しさが私たち罪ある人間に救いを与えるということです。つまり、神様が義を実行なさる。その時、私たちの罪が赦され、私たちは救われるのだというのです。ですから、「このために私はバプテスマを受けるのだ。わたしがあなたからバプテスマを受けることは、神の義がこの地に現されるために必要なことなのだ。神の救いがその民の上に注がれるために必要なのだ。だから、バプテスマしてほしい」とイエス様はおっしゃったのです。

イエス様が顕された神の義、それはどのようなものだったでしょうか。

2コリント5:21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

罪を犯さなかった方が、罪を犯したものとして、十字架に罰せられる、呪いの木にかけられ、地獄の底にまで落ちていかれた。そのことによって、私たちが神の義となったのだと言っています。罪のないイエス様が罪のある者の罰と呪いをその身に受け、私たちを自由の身とする。これを贖いと言います。私たちはイエス様の十字架によって贖われました。この方によって私たちは神の義となったのです。

イエス様の生涯、イエス様の存在は、自らを低め、最も謙遜な者として、罪人である私たちのために自分自身を捧げることのためにあったのです。イエス様がヨハネからバプテスマをお受けになったのは、全人類が犯した罪、全人類が犯す罪をご自分の罪として告白し、全人類を新たな存在として生まれ変わらせるための執り成しの祈りをするためでした。

「父なる神様、人類のこの罪、あの罪、すべての罪は、私の罪です。どうぞお赦しください。そして、どうぞ彼らを新たなものとしてください」というのがイエス様のバプテスマの祈りだったのです。

すると、その時、「天が開いた」と書いてあります。イエス様の謙遜の祈りに答えるように、天が開きました。天が開き、天に蓄えてあった神様のご計画がこの地上に実行に移される。天が開くことによってのみ、神様の御心がこの地に実現されるのです。天とこの地が隔絶されている状況を生み出したのは、人の罪です。しかし、イエス様が自らを低くし、謙遜のバプテスマを受けられた時、それは、天を開く力があったのです。イエス様が謙遜によって人の罪を贖うという救い主の実存を顕された時、天が開いたのです。私たちを救う神の業が始められたのです。人の罪によって引き裂かれた天と地を繋ぐのがイエス様のバプテスマだった。まさにイエス様の謙遜こそ、天を開く力、神様の御心をこの地に実現させる力だったのです。天はこの時だけ開いたのではありません。イエス様が謙遜によって神の義を実現なさる、その御業を行うこと自体が、天が開くと言う出来事だったのです。

イエス様は、開いた天から聖霊が鳩のようにご自分の上に来られるのをご覧になりました。謙遜な者として、自らを賤しくなさったイエス様を父なる神様は聖霊によって満たされたのです。ここに謙遜と神様から与えられる聖霊の満たしの関係を見ることができます。イエス様の謙遜が天を開き、天から溢れる平和の聖霊がイエス様に注がれたのです。

17節、「また天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

私たちが神様に対して持っているイメージはどのようなものでしょうか。神様はいかめしい顔をしておられるでしょうか。感情を表さない方でしょうか。喜んでおられるでしょうか。聖書がここで語るのは、喜ぶ神様です。神様は人と共に喜ぶことを何よりも大切にしておられる。聖書には、「喜び」「喜ぶ」という言葉が647回も出てきます。神様にとって喜びは、その本質の表れです。愛が神様の本質の表れであるように、喜びは神様の本質なのです。この神様が私たちに喜びを満たそうとしておられる。

この時の神様の喜びはどんなものだったでしょう。その大きさ豊かさを知りたいと思います。神様は、イエス様がご自身の子としての本質を表したことを喜ばれました。この時、イエス様は、まだ宣教を始めておられず、誰にも福音の言葉を語らず、誰も癒さず、ただ神様の子として、謙遜の本質を顕されたのでした。謙遜こそ、神の子の本質です。

神様はこれをお喜びになった。全人類の罪を自分の罪として告白し、赦しを乞う謙遜なご自身の子イエス様を、神様はこの上もなく喜ばれたのです。謙遜こそ、神様と一体であるための唯一つのあり方、神の子がその父なる神様の前に持ちうる唯一の存在の在り方なのです。

自分の存在がただ神様だけに依存していること、自分の全てが神様のためだけに存在していることを頷き、自らを低くし、神の民の贖いのために自らを全く低くし、祈り続けるイエス様の生涯、ここに父なる神様は、無限の聖霊を注ぎ、無限の喜びをイエス様と分かち合われたのです。ここにイエス様の贖いの公生涯が始められました。

聖書は言います。ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ローマ8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

イエス様に出会い、イエス様の十字架と復活を知り、神の子とされた私たち、神様は、神の子であるが故に私たちを喜んでくださいます。神様は、私たちが伝道するから喜んでくださるのではない。私たちが献金するから喜ばれるのではない。奉仕するから喜ばれるのでもありません。勿論、それらを喜んでくださいます。しかし、仮に何かができなくても、ただ、罪人であった私たちがイエス様に出会って神の子となった。神の子だから喜んでくださるのです。私たちの存在を喜んでくださるのです。私たちが神の子として存在している、ここに神様の無上の喜びがあると言っているのです。

イエス様の謙遜によって神の子とされた私たち。私たちも謙遜であることを喜びましょう。イエス様の謙遜を頂くことができますように。謙遜は、私たちが神様の前に存在する唯一つの存在のあり方なのです。自分の存在が神様に100%依存していることを認めましょう。自分は自分で生きていけないことを、神様だけが自分の全てであることを喜ぶことができますように。また、たとい苦しむことや痛みがあったとしても、人の悪口を言わず、噂せず、全てを神様に委ねて、執り成しの祈りを捧げる者となることができますように。私たちは、必ずそのように導かれていくでしょう。

なぜなら、イエス様ご自身がご自分の謙遜によって天を開いて下さったからです。父なる神様から無限の聖霊を注がれたイエス様が、私たちに溢れる聖霊を注いで下さるからです。神様は私たちを喜んでくださる。イエス様をその存在の全てで喜ばれた神様が私たちを喜んでくださるのです。その喜びを私たちと分かち合ってくださるのです。神様の喜びが私たちの全てとなっていくのです。

祈りましょう。

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