「マタイの福音書」連続講解説教

霊の貧しい人の幸い

マタイによる福音書講解説教5章1節から3節
岩本遠億牧師
2006年8月27日

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

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マタイの福音書を連続で学んでいます。先週と先々週は別の箇所を開きましたが、今日からまたマタイの福音書に戻ります。マタイの福音書の5章からには「山上の説教」と呼ばれるイエス様の教えがまとめられています。今日は、その最初のところを学びますが、その前に、4章の23節から25節を見ておきましょう。

4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。 4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

この箇所は、5章の教えの前に完了したことではなく、5章以下のイエス様の働きを全体的にまとめたイントロダクションのようなものです。ここを見るとイエス様のお働きがどのようなものであったかが分かります。巡り歩いて、失われた者たちを探されました。教えること、福音を宣べ伝えること、病気や患いを癒されること。これらは、別々に行われたことではなく、イエス様は、あらゆるところで教え、福音を宣べ伝え、病気や患いを癒されましたが、マタイは福音書を編纂するに当たり、それぞれをまとめて書き記しています。9章35節にも同じ言葉(「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」)が出てきて全体をまとめていますが、5章から7章までを教えの部分、7章から9章までを癒しの部分として編集したわけです。

5章1節に「山に登る」「腰を下ろす」という表現がありますが、これらは、イエス様がご自分の正式の教えとして弟子たちに語られたと言うことを意味する、ユダヤ的な表現です。

イエス様の正式の教えの冒頭には、祝福の言葉が並んでいます。「ああ、何と幸いなことか!何と祝福されていることか!」と祝福しておられます。一般の教えが「~すべし」「~すべからず」と教えるのに対し、イエス様は、まず祝福してくださる。「あなた方は、幸いだなあ。祝福されているなあ」と語ってくださるのです。

今日から一つずつ、その祝福を味わって生きたいと思います。今日は、3節です。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

一般に日本語で「心が貧しい」と言えば、お金を貯めこむことばかり考えたり、自分のためだけにお金を使う人のことを言います。他の人のために自分の持っている者を使おうとしない人のことです。ですから、私たちは、「心の貧しい人は幸いだ」と言われても、ピンと来ません。「心が豊かな人が幸いなのであって、心が貧しい人が幸いなのではない」と考えます。また、イエス様もそのような意味で「心が貧しい」とおっしゃったのではありません。

ここで「心」と訳してある言葉は、ギリシャ語で「プニューマ」ですが、これは「霊」という意味です。また「貧しい」は「プトーコス」ですが、これは、運命的な貧しさ、極貧の希望のない貧しさを意味します。自分で自分を養うことができない貧しさ、人から与えられなければ生きていくことができない貧しさを意味します。

ですから、「心の貧しい人」というのは、本来的には、「霊において自分を満たすことができない者」という意味です。この霊の渇き、この心の渇き、魂の渇き、虚しさを自分で満たすことができない者は祝福されているとおっしゃったのです。しかし、この霊の貧しい者とは、一体誰でしょう。

弟子たちは、イエス様の教えに引き付けられるようにして、そばにやってきました。自分にないものをイエス様が持っていたからです。イエス様でなければ満たすことができない虚しさ、魂の渇きを持っていたからです。

今日、あなたは何故この礼拝にやってこられたのでしょうか。いろいろな誘いがあったことでしょう。しかし、あなたがここに来たのは、自分で満たすことができないものが自分の存在の中にあることを感じたからではないでしょうか。それに気づいたからではないでしょうか。イエス様なら満たすことができるかもしれないと思ったからではないでしょうか。

そのようにして礼拝に集うわたしたち一人一人、私に、そしてあなたに、イエス様は語っておられるのです。「幸いなるかな!霊の貧しき者!天の御国はあなた方のものである」と。「今、天国があなたの中に始まるんだよ。あなたの中に神様が生き始めるんだよ。あなたを満たす方が、あなたの中に住み始めるんだ」とイエス様は言われるのです。

創世記に、人間の創造について書いてあります。開いてみましょう。

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

新共同訳では「かたどり」と訳してありますが、新改訳や口語訳では「神のかたちに」と訳してあります。「神のかたち」というとは一体何であるかということについてはいろいろな解釈がありますが、その元々のヘブライ語の言葉はツェレムと言います。辞書などで調べてみると、鏡に映った姿や影という意味があります。本体があるところに映し出されるものという意味です。常に神と共にある者、このように神様は人を創造されたのです。常に神様に満たされ、神様が自分の存在の源である者、神様なしに存在できないもの、それが人の本質だと聖書は語るのです。

しかし、人は自分で善悪を決めたいと願い、神様と共に歩むことを欲せず、罪を犯しました。食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実を食べたのです。自分は自分、神様の世話にならなくても、良いことと悪いことは自分で決めて生きていくということです。

影が本体から離れ、自分は自分といって生きている。何と奇妙なことでしょう。しかし、本体から離れてしまっているところに、私たちの罪、私たちの虚しさがあるのです。

シャミッソーと言う人が「影をなくした男」という本を書きましたが、人は逆に、本体を失った影のようなものになってしまっている。

しかし、影は、本来、本体があるからこそ存在するものです。本体なしに存在できないもの。神様なしに生きられないもの、それが人です。それが霊の貧しい者なのです。私たちは、全員そうではないでしょうか。あなたも、私も、神様が共にいてくださらなければ、自分の本質を確認することすらできない。しかし、そんな私たちに語りかけてくださる方がいる。

あなた方は幸いだと。あなた方は祝福されていると。この方が、私たちを探し出し、私たちと共に生きてくださる。イエス様が私たちと共にいて下さる。私たちの引き裂かれた存在を癒し、満たしてくださるのです。

「幸いなるかな!霊の貧しき者!天の御国はあなた方のものである」と言ってイエス様は祝福なさいますが、イエス様こそ、私たちを満たすために貧しくなられた方でした。

2コリント8:9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

聖書は、私たちを豊かにするために、イエス様は貧しくなられたと言っています。イエス様の貧しさによって私たちが豊かになったのだと。

ピリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエス様は、神の身分であった。神の富と力を持った方であったのに、それを捨てて貧しくなり、人となって僕の身分になられたと言います。クリスマスの出来事を思い出しましょう。誰も出産のための場所を提供してくれず、薄暗く汚い家畜小屋で生まれたのがイエス様でした。大工の子として、貧しい人々共に生きたのです。

そして、ご自分が神様なしには生きられない者であることを自覚し、全き謙遜によって、神様に満たして頂くことを求め続けられました。いつもご自分の存在が神様の御霊に満たされていることを求め続けた方、まさに、神様なしに生きられない者、これが、イエス様だったのです。

神様は、イエス様を満たし、その御業を行われました。多くの人を教え、多くの人を癒されました。しかし、イエス様は、あの十字架の上で、誰も経験したことのないような霊の渇き、霊の貧しさを経験なさるのです。

イエス様は、全人類の罪を背負い、罪のために滅びていかなければならない私たちを買い取るために、その命をお捨てになりました。これを「贖い」と言います。イエス様がご自分の神の子としての実存を捨てることによって、罪人である私たちすべての命を買い取り、赦し、神様の子の身分を与えてくださったのです。

しかし、その代償はあまりにも大きなことでした。それは、単に肉体の苦しみを受けるということに留まりませんでした。イエス様を満たし続ける父なる神様との関係を完全に失い、神の子としての実存を失うことだったのです。罪の贖いは簡単なことではありません。神の御子が神の子としての存在の全てを捨てなければ、なしえないことだったのです。

イエス様は、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と詩篇22篇の言葉で苦しみを言い表し、「わたしは、渇く」と言われました。これは「喉が渇いた」と言っているのではありません。「霊が渇く」と言っているのです。あんなに力強かったイエス様、嵐を一言によって鎮める力を持っていたイエス様、多くの人の病を癒し、人々を導き、満たしたイエス様が、今神様に見捨てられ、神様との命の関係を失い。その霊が渇ききったのです。霊の貧しき者となられた。そして地獄に落ちていかれました。

しかし、「幸いなるかな!霊の貧しき者!天の御国は彼らのものだ」と言われたイエス様の言葉は、イエス様ご自身の上にも成就したのです。父なる神様は、このイエス様を地獄に捨て置かれず、死者の中から蘇らせ、天に引き上げ、栄光の座にお着かせになるのです。

ピリピ2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエス様は、父なる神様から無限の聖霊を受け、信じるものにこれを注ぎ、満たした下さる。

「幸いなるかな!霊の貧しき者!天の御国はあなたのものだ。」イエス様は、霊の貧しさがどんなことであるか知っておられるのです。あなたの霊の渇き、虚しさを誰よりも知っておられるのがイエス様なのです。あなたの虚しさを、ご自分の虚しさのように感じてくださる。父なる神様がご自分を地獄から天に引き上げ無限の聖霊を注がれたように、私たちをも引き上げ、聖霊で満たそうとしておられるのです。

「わたしは、あなたの霊の渇きを知っている。あなたは一人じゃない。わたしは、あなたを満たしたい。あなたに天の御国の祝福を与えたい。共に生きていこう。」

「幸いなるかな!霊の貧しき者!天の御国は彼らのものである。」

「イエス様、私こそ、霊の貧しい者です。私を満たしてください」と申し上げるのは誰でしょう。イエス様は満たしてくださいます。

祈りましょう。

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