「マタイの福音書」連続講解説教

石ころを岩にする方

マタイの福音書16章13節から20節
岩本遠億牧師
2008年1月27日

16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子
たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤ
だと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言
者のひとりだとも言っています。」 16:15 イエスは彼らに言われた。「あ
なたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16:16 シモン・ペテロが
答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 16:17 す
るとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸
いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にい
ますわたしの父です。 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたは
ペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの
門もそれには打ち勝てません。 16:19 わたしは、あなたに天の御国のか
ぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においても
つながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれ
ています。」 16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであること
をだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

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マタイの福音書を連続で学んでいますが、今日私たちに与えられている
箇所は、マタイの福音書を前半と後半に分ける重要な箇所です。それは、
ペテロがイエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」
と、イエス様こそ真の王である、真の主であると告白し、そして、この
時からイエス様はご自分の十字架と復活の予告を繰り返しお語りになり
始めるからです。また、重要な箇所であるが故に、その解釈については
大きく議論されてきたところでもあります。

その解釈上の対立は、イエス様がここで「わたしはこの岩の上にわたし
の教会を建てる」とおっしゃった「この岩」が何を指すのかということ
についての対立です。ローマカトリック教会は、それはペテロであり、
ペテロの後継者であるローマ教皇であると主張します。一方、これがロ
ーマ教皇無謬主義とか教皇絶対主義というのに結びついたという反省か
ら、宗教改革者たち、そして特に福音派神学に属する者たちは「あなた
は生ける神の子キリストです」という信仰告白こそが「この岩」であり、
究極的にはイエス様ご自身が「この岩」なのだと主張します。

このように、神学的な対立がローマカトリック教会と宗教改革者たちに
よって繰り広げられましたが、私は、この聖書箇所が指し示すものは、
神学的な対立をも包み込み、またそれを超える更に偉大なイエス様ご自
身であると信じます。そして、そのことを今日ここで皆さんと分かち合
いたいと思います。

イエス様は、伝道旅行の後半では、弟子たちと一緒にユダヤ人たちのい
ない、今のレバノンやシリアのほうに退避し、弟子たちとの時間を大切
にし、また彼らを訓練なさいました。今日の箇所は、現在のイスラエル
とシリアの国境近くにあるピリポ・カイザリヤというところでの出来事
です。この場所は、美しく雄大な滝があり、風光明媚な地でありますが、
ヘレニズム時代から偶像礼拝の場所として栄え、ガリラヤの領主であっ
たピリポ・ヘロデがこれを一大リゾート地として美化し、ローマ皇帝テ
ィベリウスに敬意を表してピリポ・カイザリヤと命名しました。

イエス様は、この場所で弟子たちにお尋ねになりました。「人々は、人の
子を誰と言っているか。」「人の子」というのは、イエス様がご自身を指
す時に使われる言葉ですが、「人々は、わたしの本質を何だと言っている
のか」という意味です。すると、弟子たちは答えます。「バプテスマの
ヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人
たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

バプテスマのヨハネとは、イエス様の来られる道備えをした預言者で、
国主ヘロデに殺されました。その洗礼者ヨハネの蘇りだという人がいる。
あるいは、旧約時代の偉大な預言者であるエリヤあるいは、エレミヤの
再来であるという人がいる。エリヤは、救い主の到来の前に道を整える
ために再来すると信じられており、また、エレミヤは終わりの日の裁き
の時に遣わされると信じられていました。何れにせよ、イスラエルの人々
は、イエス様を偉大な預言者の再来であると考えていたというのです。

それを受けてイエス様は弟子たちにお尋ねになりました。「では、あなた
がたはわたしを誰と言うか」と。この質問は非常に重要です。人はイエ
ス様をいろいろに言います。「あの人は、大工の息子だった。」「あの人は、
宗教家だった。」「あの人は、もともとパリサイ派の律法学者の一人だっ
た。」「あの人は、世界の歴史を変えた最も重要な人物の一人だ。」しかし、
イエス様は、私たち一人一人に「あなたは、・・・」という答えを求めて
おられるのです。

ユダヤ人の宗教哲学者にマルティン・ブーバーという人がいました。彼
は、『我と汝』という本を書きましたが、人は、「あの人」と言っている
時と「あなた」と言っている時、全く別の世界に住んでいるのだという
意味のことを言っています。まさに、イエス様のことを「あの人」と語
る時と、イエス様に向かって「あなた」と語る時、私たちは全く別の世
界に生きるのです。私たちがイエス様に向かって「あなた」と呼びかけ
るとき、イエス様は「生ける神の子キリスト。王の王、主の主」という
ご自身の実存をもって私たちに現れてくださるからです。

その質問に対してシモン・ペテロが答えました。「あなたこそ、生ける神
の子キリストです。あなたこそ、真の王、真の主です」と。するとイエ
ス様は、たいそうお喜びになり、ペテロに言われました。「バルヨナ・シ
モン(ヨナの子シモン)。ああ、あなたは何と幸いなことか。このことを
あなたに明らかに示したのは、あなた自身の思いではない。天にいるわ
たしの父があなたにそれを示したのだ」と。そして、さらに言葉をお続
けになりました。「あなたはペテロだ。わたしはこの岩の上にわたしの教
会を建てる」と。ペテロは、イエス様がシモン(ヘブライ語ではシメオ
ン)に最初の出会いの時にお与えになった別名で、イエス様が使ってお
られたアラム語ではケパと言います。ケパとは、岩、石どちらの意味に
も用いられる言葉です。

教会とは建物のことではありません。また組織のことでもありません。
天と地を貫いて永遠に唯一つだけ存在する教会、それを公同の教会と言
います。またこうやって私たちのように、またそれぞれの教会のように、
具体的に集められる教会を各個教会と呼びますが、それも建物や組織の
ことを言っているのではありません。イエス様が集められたイエス様に
属する者たちの群れのことです。イエス様の集団のことです。

イエス様は、言われました。イエス様が建てられた教会は、地獄の門を
打ち破ると。罪に縛られ地獄の中にいる者を解放する力を与えられてい
るのです。悔い改め、信じる者に対しては「イエス様の十字架によって
あなたの罪は赦されていますよ。イエス様を信じましょう。イエス様を
信じて、あなたは救われたのですよ。あなたは永遠に神の子なのですよ」
と宣言する力を与えられるのです。また、悔い改めず信じない者に対し
ては、神の裁きと怒りが留まることを証言するという働きです。こんな
途方もない働きと権限が教会に与えられている。地獄の門を打ち破る力
が与えられているのです。

イエス様は、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と仰いました。

ギリシャ語を調べてみると、ペテロ(ペトロス)という言葉は、「石」と
いう意味で、文法的には男性名詞です。一方「岩」という言葉はギリシ
ャ語ではペトラで、文法的には女性名詞となっています。ローマカトリ
ック教会は、イエス様がこの言葉をペテロに向かって語られたという事
実を重く見て、ペテロとその後継者であるローマ教皇の上にキリストの
教会が建てられると解釈してきました。

一方、宗教改革者たちは、「石」という意味で男性名詞のペテロという言
葉と、女性名詞で「岩」という意味であるペトラという言葉を同一視す
ることはできない。ここでイエス様が「この岩」と言われたのは「あな
たこそ生ける神の子キリストです」と告白した信仰のことだ。また、そ
の信仰をお与えになったイエス様ご自身のことだと解釈しました。

しかし、先ほども言いましたように、イエス様がお使いになっていたア
ラム語では、この言葉はケパで、石という意味も岩という意味も表す言
葉ですから、イエス様はペテロに向かって、「わたしは、あなたをケパと
呼んできた。そうだ。あなたはケパだ。わたしは、このケパの上にわた
しの教会を建てる」と仰ったと理解されるのです。

宗教改革者たちは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたイ
エス様の言葉を、ペテロという人格、あるいはペテロという存在そのも
のと切り離したものとして解釈したのですが、近年の聖書研究によれば、
それはローマ教皇絶対主義に対する宗教改革者たちの過剰反応なのであ
って、イエス様がペテロに向かって「この岩の上に」と言われた言葉を
ペテロ個人、ペテロという存在と切り離して解釈することには無理があ
ると考えられています。

そもそも、信仰告白というのは、人の存在の全てをかけて行われるもの
ですから、個人の人格、個人の存在と切り離された信仰告白は存在しま
せん。この信仰告白と一体となったペテロ自身に向かって、「わたしは、
この岩の上にわたしの教会を建てる」とイエス様は仰ったのです。実際、
聖霊降臨以降、ユダヤ人伝道はペテロを中心に行われ、まさしく、ペテ
ロの上に最初の教会は建てられていったのです。

しかし、ペテロは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」とイエス様に
言われて、すぐに教会を建て上げる働きをすることができたでしょうか。
次回詳しくお話ししますが、この直後にペテロは、イエス様から「サタ
ンよ、引き下がれ」と言って叱責を受けます。また、十字架を前にした
イエス様を存在の全てで否定し、見捨てて逃げたのがペテロでした。復
活のイエス様に出会っても、もう関係ないと言って、ガリラヤの漁師生
活に戻ったのがペテロだったのです。

「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したペテロと「その人
とは関係ない」と言ったペテロ、どちらが本当のペテロだったのでしょ
う。

しかし、イエス様がペテロに語られた言葉があります。これは、イエス
様が捕まえられる少し前にペテロに言われたものです。ルカの福音書22
章。

「22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のよう
にふるいにかけることを願って聞き届けられました。 22:32 しかし、わ
たしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りまし
た。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

恐ろしくなって、持っていたと思っていた信仰さえ失ってしまったペテ
ロ。しかし、このペテロのために祈っておられた主がいたのです。イエ
ス様の祈りは必ず実現します。この主の祈りによってペテロは立ち上が
り、兄弟たちを力づけ、キリストの教会を建て上げる働きを為していく
のです。

先ほど、ペテロは「石」を意味し、ペトラは「岩」を意味すると申しま
した。ギリシャ語でこの福音書を書いたマタイは、ケパという言葉が持
っている二つの意味をここで上手に利用し、「石ころ」であるペテロをペ
トラ「岩」にする力を持った方がイエス様なのだということを告白して
いるのです。「石ころ」も「岩」も両方ともペテロだったのです。

「ナザレのイエス、そんな男は知らない」と言ったペテロは石ころのよ
うな存在だったでしょう。自分に絶望し、人生に絶望し、全てを失った
ペテロ。自らの価値を失いました。まさに無価値な「石ころ」がペテロ
だったのです。しかし、「石ころ」を「岩」にする方がいました。復活の
主は、イエス様との3年間をなかったものとしてガリラヤに帰り、漁師
生活に戻っていたペテロにご自身を現されました。ペテロがイエス様に
従おうと決心した時と同じ大漁の奇跡を起こし、そして、ペテロにお尋
ねになりました。「ヨハネの子シモン。わたしを愛しているか」と。

「あの人」と言ってペテロが否定したイエス様が、もう一度ここでペテ
ロに「あなた」と告白させようとしておられるのです。イエス様に向か
って「あなた」と告白する時、私たちは「あの人」と言っていた時と全
く違った世界に生かされるからです。ペテロは答えました。「主よ。あな
たは全てをご存知です。私があなたを愛していることをあなたはご存知
です」と。

ペテロは、3度「あの人は知らない」と否定しました。3度とは徹底的
に、存在の全てでという意味です。しかし、ここでイエス様は3度「愛
しているか」とお聞きになり、3度、徹底的に、存在の全てで「主よ、
あなたは全てをご存知の方です。あなたこそ、王の王、主の主です。神々
の神です。私があなたを愛していることを、あなたはご存知です」と告
白させてくださったのです。

人に否定され、自分も失敗し、自分で自分の価値が分からなくなるよう
な石ころ。人に踏みつけられ、投げ捨てられることもあるでしょう。し
かし、そんな「石ころ」を「岩」とする方がいる。この「石ころ」に聖
霊を注ぎ、「岩」として再創造なさる方がいるのです。

ペテロは次のように告白しています。ペテロの手紙第一2章。

「2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、
選ばれた、尊い、生ける石です。 2:5 あなたがたも生ける石として、霊
の家に築き上げられなさい。」

つまり、生ける石、教会の基礎となる生ける石はイエス・キリストご自
身なのであって、この方の上に築き上げられることによって一人一人も
生ける石になるというのです。ペテロの告白はこうです。「私もイエス様
に繋がれることによって生ける石になった。死んだ石だった私を生かし
た方がいる。あなたがたもイエス様に繋がれ、生ける石となれ」と。

皆さん、どうでしょうか。私たち一人一人も、「石ころ」なのではないで
しょうか。踏みつけられることがあるでしょう。自分に特別な価値があ
るとは思えないようなことがあるでしょう。人に捨てられることがある
かもしれません。しかし、洗礼はヨハネは告白しました。「神は、これら
の石ころからでもアブラハムの子孫、祝福の子を起こすことができる」
と。そして、イエス様は、まさに聖霊によってこの「石ころ」を「岩」
と造り変え、キリストの教会をその上にお立てになるのです。

私たちの能力が教会を建てるのでもない。私たちの思いから出た信仰告
白が教会を建てるのでもない。石ころである私たちを岩となさる方ご自
身が、私たちに信仰を与え、聖霊を注ぎ、この上にご自身の教会を建て
られるのであります。そして、この教会を建ててくださる。この小さな
教会にもキリストの権威を与え、地獄の門を打ち破る力を与えてくださ
るのです。

旧約聖書のイザヤ書に次のような言葉があります。「わたしは、あなたを
地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』」

私たちは、自分を見たら、イエス様に「わたしの僕よ」と呼んでいただ
くだけの忠実さも、信仰もないように思います。しかし、「わたしは、あ
なたを選んで捨てなかった」と仰る方がいるのです。どんなに信仰がぐ
らつく者でも、イエス様のことを、「あの人はしらない」と言ってしまっ
たような者であっても、そんな者に「あなたは、わたしの僕だ。わたし
のものだ。あなたは、わたしのために働くわたしの僕だ。わたしは、あ
なたを選んで捨てなかった。これからも捨てることはない」と約束して
下さるイエス様がいる。

この方が私たち一人一人にお尋ねになっています。「あなたは、わたしを
誰と言うか」と。イエス様ご自身が私たちに働きかけ、私たちの心に中
に「あなた」と答える信仰を与えてくださる。そして、栄光のご自身を
明らかに示し、告白させてくださるでしょう。「主よ、あなたこそ、生け
る神の子キリストです。あなたこそ王の王、主の主です」と。

祈りましょう。

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